第32話 国家試験前後

 今は、医師国家試験は2月に行われ、3月に合格発表、4月から初期研修が受けられるスケジュールとなっているが、かつては、国家試験は3月中旬、4月に合格発表があり、仕事を始められるのは5月からであった(うんと昔は、年に2回、国家試験が行われていたころもあったそうだ)。また、国家試験に合格しただけでは医業を行なうことはできず、合格の通知を保健所に持っていき、所定の手続きをして医籍に登録されなければ医師の仕事ができないのである。さらに、国家試験に出願する際も、願書、卒業見込み証明書だけでなく、自身の犯罪歴についての証明書を提出しなければならないのである。例えば、スピード違反で青切符を切られた場合には、犯罪歴にはならないが、赤切符を切られた場合には犯罪歴に記録されるので、それについての弁明書も添付しなければいけないのである(ちなみに私には、犯罪歴はなかった)。

 

 そんなわけで、必要な書類を作成、送付し、国家試験の受験票が届いた。医師国家試験はすべての都道府県で行われるわけではなく、いくつかの大学が集まって行うようである。東京や大阪など、複数の医学校がある都府県ではどのようにしているのかわからないが、私たちの大学は、隣の県の大学と、隣の県で一緒に国家試験を受けることになっていた。国家試験にかかわる細々した雑用(宿舎や移動用のバスの手配、お弁当の手配、直前講習受講の手配などなど)は、5年次の国試対策委員が受け持つことが伝統となっており、前年、国試対策委員を担当してくれた人は、この時期、大忙しであった。私たちが国家試験に集中できたのも、下の学年の国試対策委員のおかげである。ありがとう。


 確か、国家試験の前日、午前9時ころから壮行会を行ない、みんなにキットカットが配られ(ベタだなぁ)、部活に頑張っていた同期のところには後輩たちが集まって

 「先輩、頑張ってください!」

 と声をかけていた。

 「あぁ、いよいよ明日本番だなぁ」

 と緊張しながら、バスに乗り、隣の県に移動。バスの中は静かで、みんなそれぞれに勉強に余念がなかった。私自身は車酔いをする方なので、プレッシャーを感じながら、流れる車窓を眺めていたのだが、その時、突然胸に入れていた携帯電話が鳴りだした。当然妻は、スケジュールを知っているので、妻が電話をかけてくる可能性は低い。かけてくるとしたら余程のことだ。慌てて電話に出ると、大学本部の事務局からだった。


 「あなたが、今年の稲盛賞を受賞することになったので、来週の本学の卒業式に必ず出席してください」

 との連絡だった。


 京セラの創業者、稲盛氏はわれらが母校の工学部出身で、その縁で稲盛氏が大学に寄付してくださり、例年、各学科の成績優秀者1名に稲盛賞を授与されている。今年の医学部医学科は私が受賞することに決まったそうだ。いわゆる名門校とは縁がなく、半ば滑り込みで医学科に合格した身ではあったが、一生懸命勉強に励んだ結果、稲盛賞(つまり首席)をとることができた。これまで小、中、高校、前大学、大学院とも微妙な成績で卒業していたが、今回は頑張った。恩師や妻のおかげであり、その応援に報いることができた、ということはうれしかったのだが、よりによって、国家試験に向かうバスの中で、こんな連絡をくれなくてもよいだろう。


 本学の事務局だから、医学科の学生がどんな状況にいるのか知らなかったのだろうが、私にとっては、プレッシャーはさらに大きくなった。

 「首席で卒業する人が国家試験に落ちている」

 なんて、恥ずかしくて死んでしまいたい気分だ。なんとしても国家試験に受からなければ、とさらに気持ちがつらくなった。


 バスは市内に入り、まずは医学予備校の用意した教室へ。そこで、衛星放送でおそらく国試を受けるほぼ全員が受講しているであろう国試直前対策の講習を受け、その後、宿舎となるビジネスホテルへ。こちらに自宅のある数名は宿舎に泊まらず、自宅から受験会場に向かうとのことで帰宅し、その他大勢は各自指定された部屋へ。食事はどうしていたのか忘れたが、各自個室で、試験準備に励む。時折、ドアがノックされ、国試対策委員から、

 「新しい情報が届きました」

 と、予想問題を書いたプリントが配布される。またもや、佐々木 倫子氏の「動物のお医者さん」を引き合いに出すが、国試直前に配布されるプリントの中で、問題が的中することはほぼない、と描かれており、実際そうなのだが、1問だけ、BWG症候群の予想問題(試験の後、直前プリントを見直したが見つからなかった)が、選択肢は異なっていたが、臨床問題で出題されており、驚いた記憶がある。ちなみにBWG症候群(Bland-White-Garland症候群)は左冠動脈肺動脈起始症と呼ばれ、左冠動脈が肺動脈から分岐している心奇形である。私はこの病気については大学の授業ではなく、生協病院の北畠部長との雑談の中で勉強したことを覚えている。また、「ブラック・ジャック」にも取り上げられており、某国の王様(皇太子だったか?)が来日した際、お忍びで患者さんを連れてブラック・ジャックの下に行き、手術をした症例がBWG症候群(明示されていないが)だったように記憶している。


 国家試験は3日間にわたり、前年までは550問出題されていたが、私たちの時は530問になっていた。医師国家試験は4年ごとに改定され、私たちの受けた試験は改定後初回の試験であった。学生時代には、

 「自分たちの国家試験から、OSCEが実技試験として取り入れられるのではないか」

 などの噂がまことしやかに流れたりしていたが、実技試験がなかったのは助かった。しかし、出題傾向など、設問のポイントがそれまでとは異なっており、その点でも、非常に緊張しながら受験した。

 初日の1コマ目の試験は試験を解き終えてから30分ほど時間があったので、途中退室したのだが、途中退室すると、自分の待機する場所がなく、試験会場から外に出ることもできないので、逆に困ったことになってしまった。なので、それ以降は、試験が早く出来上がっても、繰り返し見直しをして、途中退室はしないことに決めた。


 初日、試験が終わってから宿舎に戻るのに路面電車を使ったのだが、電車の中で、あーでもない、こーでもないと議論が賑やかだった。2日目には、「必修」問題が出題された。この「必修問題」で80%の得点がなければ、他の科目の出来が良くても不合格になる、決して落とせない問題なのである。「必修問題」は当然医師として身に付けておくべき知識、とされているが、

 「どれが正解やねん!」

 と言いたくなる問題も多かった。私がうっすら記憶している問題では、

 『医療面接(いわゆる問診)で、最も重要なものを一つ選べ』という問題で、選択肢が『1.挨拶、2.身だしなみ、3.自己紹介、4.言葉遣い、5.視線の使い方』

 とあり、心の中で、

 「全部大事やろー!!!」

 と叫んだことを覚えている。あまりにも不正解者が多い問題は、不適切問題として採点から除外されるのだが、帰りの路面電車の中で、優秀な友人が

 「保谷さん、おれ、必修問題8割取れてなかったです」

 と青い顔をしていたことを覚えている(もちろん彼も合格したのだが)。


 また、選択肢の中にこっそりと「禁忌肢」が含まれている。「禁忌肢」とは、その行為をすると、患者さんの命にかかわるような行為、または医師として極めて不適切な行為であり、禁忌肢を2回選択すると、他の成績に関係なく不合格となってしまう。国家試験受験生からは「地雷」とも呼ばれているが、私も、試験中に一問、禁忌肢と思われる問題に直面して困った。中毒に関する問題で、聞いたことの無い薬物で自殺を図った患者さんに対して使うべき解毒剤はどれか、という問題であった。消去法で選択肢は二つに絞られたが、一つは副交感神経を抑制させる薬剤、もう一つは副交感神経を活性化する薬剤であった。もちろん相反する薬剤なのでどちらかが正解、どちらかが禁忌肢なのだが、模試や教科書でも聞いたことの無い薬剤だったので、正解を選択できなかった。「禁忌肢」は選択すると「ドカン」と爆発するものなので、選択しなければ、その問題を間違えたとしても、禁忌肢にカウントされることはない。なので、その問題の回答欄は空欄とした。実際の臨床では必ず中毒薬リストを調べ、記載されていればLD50を確認、内服量も推定し、解毒薬、あるいは透析、あるいは活性炭の投与などと治療方針を確認し、本に記載がなければ、今ではGoogle先生に相談すれば情報が得られるので、そのレアな薬剤を記憶している必要はない。


 そんなわけで、まあ何とか実力は出せたかなぁ、と思いながら国家試験を終えた。あとは運を天に任せるのみである。とりあえず心の重しはとれた、人事を尽くして天命を待つ、と思いながら、宿舎の荷物を片づけ、帰りのバスに乗車した。


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