第3話 (古いけれども)新居を決定

 ありがたいことに、後期試験で医学部医学科に滑り込むことができた。自分の考える「医師への道のり」の中で、最も大きな関門が「医学部医学科に入学する」ということだったので、最大の関門を乗り越えたことに大きなうれしさと、安堵を感じた。しかし、後期試験の合格発表は3月21日、入学式は4月6日であり、その期間に転居し、新生活を送れるようにしなければならない。それまでは自宅から大学に通っていたので、新居をどうやって決定するか、全く経験がない。どうしたものかと思いながら、入学手続きもかねて再びこの街にやってきた。


ありがたいのは大学生協で、新入生のための様々なサポートをしてくれていた。これまで通っていた大学も大学生協には本当にお世話になった。新しくお世話になる大学の本学に向かい、大学生協の住宅相談窓口を訪れた。


 この大学の医学部・歯学部キャンパスは山の上にあるが、本学は街の中心圏にあり、交通至便なキャンパスである。入学後の1年半はほとんどこちらのキャンパスに過ごすこと、日常の買い物のことなどを考え、本学近くで新居を探すこととした。当方は当然貧乏生活をすることになるので、家賃が安いこと、少し広めの家が良いと考えていた。贅沢な注文だとは思ったが、家賃は月に3万円程度、2部屋あるといいな、と条件を提示し、3件の物件を紹介していただいた。すぐに物件の見学に出発。1件目は古いアパートの階段を上がった2階の部屋だった。2部屋あるとはいえ、それほど広くはなく、トイレを確認すると和式の便器だった。


 体が硬く、もちろん足首も硬く、子供の頃から洋式のトイレになじんでいた私にとって、和式のスタイルは苦行そのものである。まず、普通にそのスタイルをとろうとすると、どうしても後ろに転がってしまう。また、子供の頃、和式トイレで用を足した後の友人のズボンの腰の部分に便が付着しているのを見たことがトラウマになっているのか、ズボンを汚さないように、と異常に気を遣ってしまう。なので、街中などで急に用を足したくなった時、どうしても和式のトイレしか見つからないときは、絶望的な気持ちになる。

 トイレに入り、便器の前方にある太いパイプに縋りつくか、後ろの壁に手が届くときは後ろの壁に手をついて、実に不自然な体勢をとらざるを得ない(そうしないと先述の通り後ろにひっくり返ってしまい、悲惨なことになる)。もちろんそんな体勢ではお尻を拭くのも一苦労である。そんな苦行を毎日、なんて想像しただけでも恐ろしい。そんなわけで1件目の物件は却下とした。


 次の物件は「アパート」と名前がついているが、1件の家を区切っているような建物だった。その家の横についている階段の奥に、プレハブの事務所についているような、ガラス窓のついた玄関があった。玄関の場所は初見殺しであるが、まあそれは問題ないだろう。部屋に入ると、北向きの窓で昼間なのにどことなく薄暗い、でも何となく懐かしいような感じがした。部屋は6畳のフローリング部屋と4畳半の畳部屋、一人暮らしには適当、二人暮らしでも狭くない台所があり、各部屋とも広く感じた。おそらくもともと一つの家を区切ったのであろうか、畳のサイズもいわゆる団地間ではなく、江戸間、あるいは本間だったのかもしれない。トイレを確認すると、洋式トイレで裸電球がついていて、洗面所もついている。お風呂はおそらく増築したのであろう。トイレとは真反対の場所に不自然にくっついていた。前述の様に、どことなく懐かしさを感じる部屋であったが、見学中に、遠くから「カタン、カタン」と音が近づいてきて、部屋の近くを耳障りにならない程度にディーゼルカーが走り抜けていった。部屋の近くにローカル線が走っていたのであった。首都圏や関西圏では、長編成の電車が高速で頻繁に走り抜けていくので、線路そばに住むのは騒音の問題ではばかられるが、2両編成のディーゼルカーが40~50km/hくらいでカタン、カタンと走っていくのは、風情があって悪くないと思った。家賃は3万1千円とのこと。また、この家は路面電車とのアクセスもよい。この街には路面電車が2路線走っているが、どちらの線にも徒歩数分でアクセスできる。家のそばに川が流れているのは、災害時には不安だが、僕の直感がこう言った。「ここはいい場所だよ。ここに決めようよ」と。それで、3件目を見ずに、この部屋で6年間を過ごすことを決めた。大学生協の方に、「ここにします」と伝え、本学に戻って手続きをし、日常生活に必要となりそうな冷蔵庫、洗濯機を購入、大学への入学手続きも済ませ、いったん自宅に戻った。


 そして、都合6年間以上お世話になったこの部屋に、初めて越してきた日のことはよく覚えている。部屋に入ると畳は青々としていて、「大家さん、畳を新調してくださったのかなぁ、ありがたいなぁ」と思いながら、畳の部屋を抜けたところにある6畳のフローリングに荷物を運んで、ふと後ろを見ると、なぜか畳に私の足跡が…。「あれぇ?」と思い、自分の足の裏を見ると、靴下が緑色に。ハタと気づき、畳に目を近づけてみると、新しいイグサの色だと思っていた緑色は、実はアオカビの胞子であった。畳全体がカビだらけ(!)であったのだ。片づけの段取りは急遽変更。入学手続きのために宿泊したビジネスホテルの前がドラッグストアだったことを思い出し、急いでその店に。霧吹きと消毒用エタノールを購入し、部屋に戻るとまず雑巾で畳を隅々まで拭き、カビを拭きとって、そのあと、部屋の畳全部に霧吹きでしっかりとエタノールを噴霧、処置がよかったのか、畳にカビが生えることはその後6年間なかったが、部屋全体がカビの胞子に覆われていたようである。いろいろなものにカビが生え、とても困ったことになるのは、またこれからの話である。


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