第2章 感情線

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 階段の踊り場のコンクリートの上に、砕けた鏡の欠片が太陽の光を反射させて輝いている。昨日、音切が手を滑らせて落としたコンパクトに付いていたものだ。面倒くさそうに、嘆息していた彼女の姿を思い出す。

 落ちている破片たちが煌めく様は、まるで自分たちの存在を訴えかけているかのようだ。ちゃんとここにいるし、まだ生きている、と。だけど、僕が拾うことはないし、元の持ち主だって拾い上げることはないだろう。むしろ、すっかり忘れているかもしれない。ましてや、これから先、本当にたまたま通りかかった誰かの目につくことだって。風に攫われるなり、雨で流されるなりしてひっそりと消えるのを待つだけだ。

 いや、もう消えているのも同然だろう。この欠片たちは、僕以外の誰からも認識されることはないに等しいのだから。そして、たった一人の認識者もいずれはいなくなる。そうなれば、ここで存在を示すことは、全くの無駄に終わってしまう。

 存在とは、何かに認識されなければ成立しない。そして、存在しないということは生きていないということだろう。

 なら、僕は今生きていると言えるのだろうか。誰もいない辺りを見回しながら、愚にも付かないことをあれこれと思考している、この僕は。誰にも僕が僕自身を証明することはできない。つまり、孤独とは生ける死なのだと思う。自分だけが自分の生を証明できて、他の何者も生を証明できない時間。たしか、シュレディンガーの猫、なんて言ったはずだ。僕は今、ここにいない他人から見れば生きていても、死んでいてもいい。

 前までは孤独なんてどうだって良かった。友達と呼べる関係も全て失ったから。誰とも関わらずに独りで生きて、独りで死んでいく。そういう運命なのだとさえ考えていた。だけど今は違う。孤独な時間に、寂しさを感じている。やっぱり、音切と出会ったからなのだろう。彼女にさえ、僕の生死を認識されないこの瞬間は、耐え切れなくなりそうなくらい寂しい。

 踊り場に立って、海と等しい蒼さの空を見上げる。今日は久々に雲一つなく晴れた。太陽も燦々と輝いており、その光が眼下の建物の窓に反射して眩しい。風は優しく吹いており、汗ばんだ身体にはちょうどいい涼しさだった。僕は弱くなってしまったのかもしれない。寂しさを紛らわせるために、こうして景色を眺めたり、考え事をしているのだから。だけど、それでもかまわないと思えるほどの余裕もある。強さだけが求められる世界で生きていけないだけだと、今なら割り切れる。

 そんなことを考えながら、ぼうっと景色を眺めていると、勢いよく扉の開く音がした。振り返るとそこにはいつもと同じく音切がいる。毎度のことながら、驚いて心臓が止まりそうになってしまう。ドアはゆっくりと戻っていき、開いた時よりも静かに閉まった。ずっとこの調子で開けられていれば、扉はいずれ壊れてしまいそうだ。

「おはよう」

「先に来てたんだ」

 挨拶代わりに僕を見ながら彼女はそう言うと、真ん中くらいの段に座った。手にはコンビニの袋が提げられていて、菓子パンと飲み物の頭が出ている。またパンだ。以前から気になっていたが、彼女がパン以外のものを食べているところは見たことない。毎日のように食べて、飽きないのだろうか。

 音切は早速、パンの封を切ると口を付けた。今日はクロワッサンらしい。僕はしゃがんで階段の壁に凭れかかりながら、彼女の食べる姿へ目を遣る。ちょうど陰になっているお蔭で、暑さは多少、マシになった。

「君ってさ、ずっと暇なの?」

 パンを口の中に詰めたまま彼女は言った。唇の端っこには溶けたチョコが付いているが、気付いていないようだ。気にしないように努めても、つい目線はそちらへと向いてしまう。

「僕だってやることくらいあるよ」

「じゃあなんで朝からいるの?」

「別にいいだろ? 音切だって僕より早く来ている時があるじゃないか」

「私はホームルームが早く終わった時だけだよ。君はちゃんと出てないでしょ」

 彼女の以外な返答に押し黙ってしまう。てっきり、のらりくらりと登校してきてこの時間だと思っていたのに。僕がそれ以上何も喋らなくても、音切は追求することなく、パンを齧り続けた。本当はどうでもいいことだったのだろうけれど、僕の胸の内には後ろめたさのようなものが残ってしまった。

 彼女はスカートの上に薄茶色のパンくずが落ちても払い除けず、ひたすらにパンを食べている。グラウンドから聞こえる体育の授業の掛け声、目の前を横切っていく小蠅、階段の埃っぽいにおい、髪を揺らす風。ただ目の前の食事だけに集中するため、外界の全てを遮断しているかのようだ。

 パンを最後の一口まで食べきると、今度はコーヒー牛乳を飲み始めた。透明のストローは黄土色に染まっていく。一連の動作を黙々とこなす彼女を見ることにも、いつの間にか慣れてしまった。

「口元、チョコついてるよ」

 ゴロゴロとパックの中身が空になった音を聞いてから声をかけた。こちらへと視線をやった彼女に、僕は自分の口元を指さして伝えると、彼女は指で拭う。その所作は幼い子どもみたいだ。

「ありがと」

「ちょっと待って」

 スカートの裾で指を拭こうとする彼女を慌てて止め、立ち上がってからティッシュを差し出す。別にいいのに、と言いながらも受け取り、音切は指先を熱心に拭いた。チョコとコーヒー牛乳の混ざった甘い香りが鼻腔を擽る。僕は数段だけ後退り、俯いてスカートに落ちたパンくずを掃う姿を見つめた。

 音切の瞳の奥底では、僕や風景以外の何かが蠢動しているように思えてしまう。外からはよく見えないけど、正体不明のそれは僕のことをハッキリと、認識しているかのように思う。彼女の目に不安を覚えるのは、きっとそのせいだ。ずっと視線を合わせていると、僕を覗くそいつが、瞳を喰い破って出てきそうで怖い。あり得ない妄想だ、と頭を振って否定しつつも、階段の脇へ逃げるように目を遣った。溝に落ちている葉っぱからは、いくつかの虫の死骸がのぞいている。腹を見せて転がるその様は、僕のことを笑っているみたいだ。

「ねえ、この後したいこととかある?」

 上の空で考え事をしていると、頬杖をつきながら彼女は言った。

「特にないよ」

 そう言いながらも視線をずらす。やっぱり目を合わせるのは苦手だ。

「じゃあさ、行きたいところあるんだけど」

「いいよ、付き合うよ」

 答えるや否や、音切はゴミを纏めて立ち上がり、大きく伸びをした。皴の入ったブラウスが、真っ直ぐになって、身体のラインがより明確になる。無防備に日向ぼっこをしている猫みたいだ。そんな感想は口にせず、踊り場に置いた鞄を取った。以前はずっしりと重かった鞄も、今となっては財布と筆箱くらいしか入っていないからとても軽い。降りてくる彼女を待つ。

「それで、どこへ行きたいの?」

「どこでもいいよ」

 呆気に取られる僕を他所に、音切はゴミの入った袋を手で弄びながら含み笑いを浮かべている。どうやら、本当に何も考えていないらしい。思わず溜息を漏らしてしまうと、彼女はクスクスと笑った。つられて僕も笑ってしまい、二人の静かな幸せに似た声が階段に響く。さっきまで微かに聞こえていた音楽室からのピアノの音も、日差しの持つ温度も、こびり付いた階段の汚れも全部、どこか遠くで起こる些細な出来事のように、意識の外へと行ってしまっている。代わりに、五感を支配しているのは彼女の笑顔や声、香りだけだ。世界と呼べるものは、目の前の存在だけのような気がした。僕の認識できる、生を持つ彼女だけ。

 だけど、そんな光景を疑問視する存在も、心の中にはいる。姿かたちが僕にそっくりな黒い影。ずっと後ろで、恨めしそうに僕を睨んでくる。ふとした時に思考を躊躇なくかき乱し、僕の感じたことと矛盾することを囁く。お前は間違っているのだと。彼女と過ごす日々は、ただの逃げだと叱責してくる。今この瞬間だって。その声が聞こえる時、途轍もなく耳を塞ぎたくなる。気が狂いそうになるくらい、その影は僕を責め立ててくるのだ。でも、本当にその声に正しさを感じれば、屈したことになってしまう。そして僕の目に映る彼女はきっと、醜く映るに違いない。間違いを吹聴する、悪魔のように。それだけはどうあっても避けたい。彼女はずっと、僕にとって美しいままでいてほしいと願っているから。

「ふふ、じゃあ、行こうか」

 行先も決まっていないのに、音切は階段を下り始めた。我に返った僕は、慌てて後を追うように、彼女を見下ろしながら歩き出す。

 どこへ行くつもりなのだろうか、なんて考えてしまったが、つまらないことはすぐ頭から一掃した。

 階段を飛ばしていき、隣へと並ぶ。陽光に照らされる音切の横顔には、まだ笑みが残っていた。

 今日は彼女と、どこまで行けるのだろうか。

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