3
午後になると、空を塞いでいた雲の蓋は罅割れ、天気は一転して良くなった。
結局、僕たちは空が黄色く染まるまでずっと海辺で語りあっていたり、黙りこくったりを繰り返した。話した内容なんて些細なものだ。商店街に新しくできたコロッケ屋は売れ行きが良くないとか、噓を見破れる人間は顔のどこを見ているのかとか、音楽の授業でやった曲が好きとか、そんな犬も食わない話しばかりだった。
僕たちは人の少なくなった放課後の時間帯に、荷物を取りに学校へ戻った。とは言っても、彼女は自転車以外に持って帰るものがなかったので、僕だけが教室へと向かうことになった。どうやら彼女は荷物を持つことが嫌いとのことらしい。
熟れた柿の果肉みたいな色の光が差し込む校舎には、僕の息遣いと、足音だけが響いている。完全下校間際のタイミングを狙ったおかげで、校舎に生徒は残っていない。教室は校舎の一番上の、さらに一番奥にある。まだ鍵の掛かっていないドアの小窓を覗き、誰もいないことを確認して入り込んだ。教室に入り荷物を取るのは、自分の物なのに、空き巣をしているような後ろめたさがあった。
鞄を肩からかけ、急いで階段を駆け下りていく。グランドのある方角からは、夏の大会へ向けて力を入れているソフトボール部の掛け声と、ボールがグローブで受け止められる音が聞こえてきた。校舎の中では何人かの生徒とすれ違ったが、幸いにも顔見知りはいなかった。僕のいた部活も、もう終わる頃だろう。いつもなら楽器の手入れをして、ミーティングの準備をしている時間帯だと思うとまだ少し、罪悪感にも似た気持ちが燻ってしまった。
校門まで行くと、音切は長い髪を指で巻きながら待っていた。
「ごめんね、お待たせ」
「いいの、帰ろ」
謝罪をしながら近づくと、彼女は首を横に振ってから、自転車を押しながら前へ歩き出す。夕陽が逆光となっているせいで、音切の輪郭は暈されていた。制服が陽炎のように揺らいでいて、あまり距離感が掴めない。真っ直ぐこちらへ伸びる影の方が、本人よりも濃い色合いを帯びている。彼女に歩調を合わせながら隣へ行き、僕たちは校門をくぐった。
二人の間を隔てる自転車は、ホイールが一回転する毎に年季のある音が響いている。そんなに古い自転車なのかと思い、横目でみたけれど、フレームは空の橙で染まっていて、古いのか新しいのか、判然としない。
学校を出てからはしばらく、無言が続いていた。海辺で話題が尽きたせいもあるのだろうけれど、一度離れただけで気まずくなってしまうくらい、僕たちの関係は深くないのだと、改めて思い知る。出会ったばかりだから仕様がない、焦る必要なんかない。頭でそう分かっていても、気休めにすらならなかった。まるで、底に穴の開いたバケツのように、彼女のことを求めていて、そんな自分が何だか弱く思えてしまう。知りたいし、触れたい。だけど、臆病な僕はそのことを実行へは移せない。代わりに世界の音量が二段階大きく聞こえるくらい、耳は傍だっていた。きっと今なら、喋り始めるために口の開くその瞬間の音でさえ、聞き漏らすことはないだろう。受け身な姿勢に情けなくなりながらも、横目に彼女の方を見る。表情は相変わらず何を考えていそうなのかも窺えない。小さく口の中で嘆息しながら、話題を見つけようとしてみたけれど、そう簡単には出てこなかった。
ろくな会話もしないうちに、人通りの多い道へ出ていた。制服に身を包んだ私立の小学生や、買い物袋を提げた主婦、萎れかけの花のように下向きの視線で歩くサラリーマン、色々な人々を僕たちは追い抜かしていく。一人でいる人以外は、みんな楽しそうに会話を交わす中、僕たちだけは口を閉ざしたままだ。二人だけが、この通りの中で場違いな存在になっている。夕暮れのそんな風景を目にして、僕たちはきっと、望んだとしてもここへ溶け込めないのだろうな、と思った。
あと少しで通りを抜けるというところで、運悪く踏切の警鐘が鳴り始めた。不安心を煽る高音と、バーが上から降りてくるのを見て多くの人が焦って走りだしても、僕たちは急ぐことすらしない。この時間の踏切は、通勤ダイヤのせいで一度閉まると、なかなか開かない。所謂、開かずの踏切というやつだ。そのせいで、遮断機をくぐり抜け電車に轢かれてしまい人身事故で亡くなる人もいた。最近はようやく減ったけれど、一時期はずっと献花が置かれてたこともある。
遮断機の最前で止まると、頭の上から降り注ぐ甲高い音に、自然と身体が強張ってしまう。通過方向を示す矢印は、左右のどちらも点灯していた。踏切は人間が危険を判断する機能に沿ってできていると、どこかの偉い脳科学者が言っていたことを思い出す。赤は言わずもがな、黒と黄色の組み合わせは脳が危ないと思いやすい色で、鳴り響く不協和音は、気味悪さを与える役割があるらしい。
ようやく一本目の車両が通ると、振動で地面が轟き、髪を攫う程の風が吹いた。あの速さの金属の塊にぶつかれば、確かに即死だな、と当たり前のことを考えてしまう。
「今ここで飛び込んで、電車に轢かれて僕が死んだら、みんなはどう思うと思う?」
ふと浮かんだ疑問を、次の電車が通るまでの間、音切に投げかけてみる。さっきまであれこれと話題に悩んでいたのが、噓みたく簡単に話せて、自分でも驚く。多くの人の視線は、電車の来る方向へと向いていた。そんな人々の前で死ぬかもしれないと分かりながらも危険を冒し、結果として死んだのなら、どんな感想を持つのか。考えればすぐに分かることなのに、僕は敢えて聞いてみた。
「痛そうとか、ただでさえ長い踏切なのに余計に長くなったって落胆するくらいじゃないかな」
音切の声は針みたくか細いのに、不思議とよく聞こえた。
「やっぱりそうかな……」
「どうせその程度のことしか考えないと思うよ。みんな口では良く言おうとしたいんだもん。命は大事とか、他人に迷惑をかけるなとか。死人に対してはいつだって客観的なことしか考えられないんだから」
聞いておきながら、肯定も否定もできなかった。また、沈黙が訪れる。僕はなんだか、彼女にねじ伏せられたような気分だ。きっと、僕だってそう思うだろう。そもそも死人の抱えていた背景なんて、僕たち生きる人間には理解できないのだから。
誰からも死という事実しか見てもらえない。そして、誰も死の裏にある要因を知ることはできない。彼女の言う当たり前に、僕は不安を覚えてしまった。頭で分かっていても、いざ死んだ後に刺される様々な感情を想像すると、死の恐怖は違った色を放ち始める。僕はこの世にいないのに、後のことを考えるとどうしても足が竦みそうになってしまう。死にたい気持ちを理解されず、終わってからも囁かれる否定が怖い。
何よりも怖いのは、もし僕がここで死んだ時、音切にそう思われることだった。失望の眼差しじっと死体を凝視され、彼女の言った感情を向けられるのは耐え難い苦痛だろう。そして、本当に彼女がそう思うのかと、踏み込んで聞けない。聞いてしまい、頷かれた時、きっと僕は真に死への恐怖が芽生えてしまうだろう。今朝、飛び降りてしまおうとしていた時の僕はそんなこと、微塵も考えていなかったのに。
ようやく、二本目の電車が通過したけれど、ランプは消えなかった。向かいの人々の顔には苛立ちと呆れが浮かんでいる。辺りは一足早く忍び寄る夕闇に蝕まれていて、街灯は夜を迎えるために点灯していた。暑さは昼間よりマシだけど、シャツの中が蒸れるくらいに湿度は高いままだ。
「今、電車に轢かれて死んだとしたら、音切の言う天国へは行けるのかな?」
彼女がどう思うのかは、やっぱり聞けそうになかった。それでも、不安を紛らわせるために、そんなことを聞いてみる。
「やりたいことをやっていないと駄目だよ。この身体でできることはやりきってから行かないと」
思ってもみない返しに拍子抜けした声を出してしまう。どこかで烏が、僕を嘲笑うかのように鳴いた。
「じゃあ音切はそれをやりきっていない、ってこと?」
「そう。私はまだ、やりきれていないから。きっと君もそうなんでしょ?」
「音切のやりたいことってなんなの?」
確かに、今日一日、死ねるような状況はいくつもあった。階段で出会った時も、海へ行った時も。こうして電車が通るのを待っている間であっても。寧ろ、彼女は死に対して救済的な考えを持っていながら、今まで生きている。死ねない理由、死なない理由。軽はずみに聞くべきではなかったのかもしれないけれど、知りたいという興味の方が今は勝っていた。
「秘密」
「秘密って……」
この帰り道で初めて、ちゃんと彼女の方へと顔を向けた。自転車を支えながら電車を待つ横顔に、あの薄い笑みはない。深く詮索をするつもりは失せたけれど、同じくらい彼女の絶望を知りたかった。
「死ぬことは怖くないの?」
「怖くないよ。だって、ふわりと飛んでいくみたいな感覚だけが残るんだから。それで、綺麗な風景が目の前に広がって……」
「体験したような口ぶりだね」
「体験してなかったらこんなこと言えないでしょ」
「……自殺未遂とかそういう感じ?」
「まだ自分で自分を殺したことなんて無いわよ」
じゃあ、どうして。そう聞こうとした時、タイミング悪く電車が通った。車窓から漏れる光が彼女の顔を点滅しながら照らす。それ以上、音切は何も話さなかった。それ以上は躊躇ってしまい、口を閉ざしてしまう。二人の間にまた微妙な時間が訪れる。ようやく遮断機が上がると、集団の先頭にいる僕たちは遅れないように歩き出した。向こうからも、足早に人々はこちらへと歩いてくる。
彼女は死に等しいものを触れたことは間違いなさそうだ。テレビなんかで耳にする、臨死体験というやつかもしれない。その時の体験から『天国』なんてものを信じ始めたのだろう。だけど、どうして音切はそんな体験をしたことがあるのだろう。自殺未遂でないとするのなら、一体。
考えながら踏切を渡っていると、急かすようにまた警鐘が鳴り始める。渡っていた多くの人は僕たちを追い抜かしていった。さっきよりも、ずっと危険が近くに迫った気がして、内心、僕は焦っていたけれど、音切は涼しい顔をしている。
「じゃあ私、こっちだから」
踏切を渡った後、大きな通りがちょうど終わるところで僕たちは立ち止まった。空のほとんどは群青に染まっていて、街灯が点いているとは言え、背中側に広がっている道よりかは薄暗い。
「分かった。また明日」
「バイバイ」
挨拶を交わすと音切は自転車に跨り、あの錆びたついた音を響かせながら、住宅街へ続く道へと漕ぎだした。自転車のフレームはよく見ると傷だらけだった。家族のおさがりか何かだろうか。そう考えると、僕は彼女のことを何も知らないのだな、と少しがっかりしてしまった。
彼女が角を曲がるのを見送ってから、僕も帰路へと歩みを進める。東の空は夜との狭間で燃え揺れていた。こんな空をたしか『マジックアワー』と呼んだはずだ。
『魔法の時間』
何もかもを隠してしまう魔法がかかる時間。空が本当は持っているはずの色も、目を逸らしたいほど惨い現実も、奥底に巣食う醜い感情たちも、初めからなかったかのように透けていく。
きっと、僕の過去にも魔法はかけられているのだろう。持ち合わせていなかったものを、理想という形へ変えて。音切と出会えたきっかけになって、良かったとさえ今は思えている。だけど、魔法はいつか解けるからこそ、魔法なのだ。この空だって、宵闇が訪れれば、消えてしまう。そうなれば、目を背けていた現実とまた向き合わなくてはならない。
それは音切だって同じだ。彼女の抱える絶望にも魔法がかけられている。踏切で話してくれた、あの臨死体験のこと。それは死後の世界という希望に変化していて、彼女に淡い幻想を見せている。
魔法が解けてしまったら、彼女は一体どうなってしまのだろう。そして、僕も彼女と終わりを迎えた時の僕は、何を想うのか。
何となく振り返ると、街灯に照らされて伸びる僕の影があった。
人型の深い穴のような影。そこには不安や怯えだけではなく、もっと禍々しいものが見えた。
できるだけ今は、この影を傍観していよう。
もしも影に触れてしまったら、
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