幻影 -RE:illusion-

平山芙蓉

序章 夢跡

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 溶かした鉄みたいなオレンジの夕陽を、砕くことなく飲み込んでいく濃紺の海を見る度に、君も別のどこかへ行ったという事実を鮮明に思い出す。もう何年も前の話なのに。僕が未練がましいだけなのか、それとも君が誰かの印象に残りやすい人なだけなのかは、いつまでも判然としない。

 海の上にはどこへ向かっているのか分からないけど、波を立てながら動く小さな船がいた。船の通った後にできる波はテトラポットに当たっては、飛沫をあげて形を失くしていく。

 ふと、消えた波はどこへいったのか、というつまらない興味に惹かれた。また新しい波となって、生まれ変われるのだろうか。仮に生まれ変われるのなら、次は理想の形になれるのだろうか。今が失敗していても、次は成功できるのだろうか。脳内で広がり、増えていく疑問符は、いつの間にか自分と重なり、すり替わっていた。きっとその答えは単純でありながらも、曖昧なもので、やっぱり現実でさえちっとも変えられない、無価値で滑稽なものだ。

 ぼうっとしているだけでも、時間は止まることを知らずにどこまでも前進する。だけど、ただ進むだけではなくて、過去という楔を脳内に打ち込んでいく。いつかは引き抜かなければならないその金属は、不意に海馬を割ってしまう。罅の入った個所から溢れる情感は当時の彩度を保っていて、どれだけ喜んでいても、どれだけ怒りに狂っていても、どれだけ悲哀に満ちた現実を直視していても、どれだけ痛快な出来事の最中にいても、密やかに隅々まで侵食していき、一瞬にして言い知れぬ色に染め上げる力がある。僕たちに憶えられるものが、目で見た景色や耳で聞いた音などの刺激だけなら良かったのに。心の中から湧いたものを大事に残していても、新しい未来は生み出せやしない。

 漏れ出した感情に浸っていると、僕と彼女はこんなモノを握りしめて、受け入れ難い世の中を彷徨いながら、必死に生きていたのだと痛感する。その様を客観視すれば、徒に足掻いている風にしか見えなかったのだろう。手に入れられたのは煙のような幸福で、それを二人で分け合っていただけだ。

 だけど、世界はたった一つ残された権利も許さなかった。人間と同じ形をしているだけで、内面は曲がりくねった失敗作が、万人の想像できるような幸せを掴もうとすること自体、過ちだったのだ。

 そのことに気付いてしまった君を、僕は最後の最後まで許せなかった。あの鮮やかな夜を受け入れなければ、幸せになれなかったのだろうかと、今でも考える。だけど、やっぱりあれだけが彼女にずっとあった唯一の方法だったのだ。そう分かっていたのに、僕は残されていた救いへの道を認められなかった。受け入れてしまえば、間違いですら透明になり、本当は正しかったという歪んだ真実が這い出てきそうだから。

 反対に、選択に後悔はないのか自問しても、霞んだ答えしか見つけられない。あの光景を目の当たりにして、僕が原因の一端を担った罪悪感は、影法師となって網膜に焼き付いている。別の道があったならば救えていたかもしれないと、前提から破綻した愚にもつかない考えをしてしまう。仮に、そんな方法で君を救えても、一緒に終わりを迎えることは変わらない。

 刻み付けられた時間の隙間へ、重力に引っぱられて沈んでいく。

 海が太陽を嚥下しても、紅色の残光があった。この景色を共に眺めてくれる人はもういない。そう思うと、地球上にいた人類の一切が消え失せたような寂然の中で、君と一緒にどれだけの時間、同じような風景を見れていたのかを思い返してしまう。過ごした日々の記憶も徐々に砕けて欠片となって、取り出せないところにまで入り、忘却する。

 少し悲しいけれど、それでいいと認める自分と、それでは駄目だと嘆く自分がいる。未だにどちらかの選択をできていない。正解ばかりを追って、分かれ道で犬のように回っているだけだ。ずっとこんなことをしているだけなら、この世に生まれるべきではなかった。もしくは、気付いた時点で死んでおけば良かったのだ。

 夕景のグラデーションは次第に藍一色になり、海も空も境界は不鮮明になっていく。僕は今日、この大きな口へ、太陽の後を追って身を投げれなかった。昨日は手首に薄い傷を五本増やし、一昨日は煙に咽ただけ。死ななければいけないのに、死ぬことに恐怖している。何をしようとしても君のことを思い出して、こちら側に留まってしまう。心底、不甲斐ない。誰かが自殺志願者もどきの手を取ってくれると、限りなくゼロに近い可能性に縋っているのだ。

 弱弱しく笑う度に見せた純白の歯、仄かな黒さのある希望を灯していた虚ろな目、天使の輪を錯覚したほど艶のある髪の毛、優しく鼓膜を撫でた声、肺いっぱいに取り込むと眩暈すら起きた甘い香り。一つ一つの破片は殺意の宿った寸鉄となり、体中へと突き刺さっていく。その度に溢れる絶望じみた憎しみは、僕をすぐに飲み込まない。大きな怪物となって心に絡みつき、いたぶってくるのだ。

 君さえいなければ、今頃は死ねていたのに。たった数ヶ月の名残と幻想を棄てて、君の言っていた戯言じみた世界で、幸せに生きていただろう。

 でも、裏側にあるのは君に対しての臆病だ。最後の最後に美しく笑いながら言った言葉に、僕はまだ震えている。何もかもを認めてしまい、間違いさえ見えなくなりそうだ。

 風が髪をさらう。柔和でいながら、蒼い色をした風。

 初夏の夜とは言えども、冷たさを孕んでいた。瞬きをした次には君の季節へ変わって、いつかの夜をここで再現しそうだ。周りは紺色に包まれつつあって、夜へと空が姿を変え始める。周りを見回しても、誰もいなくなった。君のことを思い出すときはいつだって独りだ。

 また生きてしまった。きっと明日も僕は同じことを想うのだろう。全く無益に、毎日を繰り返していくだけだ。

 それもいいかもしれない。ゆっくりと死へ向かって歩くだけでも。

 言い訳を頭の中で呟き、帰ろうと思い顔を上げると、視界の隅っこにふらりと二つの人影が入った。波打際に揺れるその影は、水草みたいに右へ左へと揺らいでいる。顔こそ見えないが、どうやらこちらへ向かってきているらしい。一人は白いワンピースを着た女性で、もう一人は女性と同じ白色のシャツにジーンズの男性だった。よく映えた真っ白な二人は、果てしない夜闇のキャンバスにできた染みみたいだ。恋人同士だろうか。

 なんとなく、二人はアダムとイヴを彷彿させた。一度終わって、再び完成した世界の新たな存在。もしかしたら、僕たちにもあんな風になれる可能性があったのかもしれないのだろうか。

 近づくにつれて、二人の笑い声は波の合間に聞こえてくる。ずっと眺めていたけど、遂には耐え切れなくなって、その場から音を立てて離れた。二人は僕に気付いておらず、笑い声は絶えなかった。どうしても、今の歪な心情の溢れた状態だと、自分への嘲笑にしか聞こえない。二人で新しい場所へ行くことはできず、僕だけがここに残るという失敗を笑う声。あの時に浮かんでいた冷ややかな月のようだ。

 コーヒーに入れたミルクが回るみたいに眩暈がする。息はあらくなるだけで、酸素が全身に行き届かず、吸うたびに眩暈は酷さを増す。胃酸が底から湧き出そうになるが、何も食べていないからか、静かな嗚咽が何度か出て終わった。

「華乃……」

 久しぶりに君の名前を口にした。そうすれば、この醒めることのない現実という悪夢から解放されて、瞼を開いた先には君が笑顔で傍にいてくれる気がする。

 だけど、現実は現実であって、誰にでも平等に分け与えられた地獄にすぎない。いくら醒めろといっても、醒めることなく続く。

 海の音に記憶が交差する。聞こえるはずのない君の声が鼓膜を揺らした。

 いくつもの夕景と、あの夜と同じあのか細い声が。

 今なら君のことを許せるだろうか。

 今なら僕のことを許してくれるだろうか。

 答えのない記憶と感情の迷宮を、僕は未だに抜け出せていない。

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