終わりの世界で最後の恋を

月花

終わりの世界で最後の恋を



 世界の終わりなどあっけないもので、それは唐突に訪れたのではなく、ゆっくり、本当にゆっくりと私たちの世界に染みわたるようにやって来た。


 廃屋しかない街を歩く。人だけが消えてしまった街はがらんどうで、音もにおいも気配もなく、ただ私の蹴った石だけがコロコロと転がるだけだった。


「あーあ、これは……自転車じゃっ、通れないわ」


 でこぼこに盛り上がった、かつてコンクリートの地面だったそこを這いあがりながら呟いた。


 別に誰に聞かせるわけではないが、世界が滅びかけてからというもの、ひとり言が増えたような気がする。とりあえず何か喋っていないと、しんと静まった世界で本当に独りぼっちになったように思うのだ。


 多分まだ孤独ではないのだと思う。もう一カ月間、誰にも会っていないけれど。


 かれこれ一週間履きっぱなしのショートパンツについた土埃を叩いて、私はがれきの上にどっかりと座りこんだ。高さ三メートルはあるそこは風がよく吹いていて心地が良かった。誰かが資材を不法投棄したらしく、道がめちゃくちゃになってしまったらしい。


 私は頬杖をつきながら考える。ここは今どこで、私の生家はどちらの方向だろうかと。街が崩壊して分からないとかではなく、単純に道が分からないだけだ。世界に地図アプリを奪われた人類というのはこうも軟弱であった。


「とりあえず川の右だったか左だったかくらいは思い出したい……」


 ぼんやりと空を見上げながら頭をひねっていると、背後で石を蹴るような音がした。ザッと砂を踏みしめるような音も続いて、私は思考から現実に引き戻された。


 髪を引かれたように、はっと後ろを振り返って、そして口をあんぐりと開けたままで固まる。


「なんでがれきの上に腰かけてるんだよ。近所のボス猿か?」


 私を見上げるようにしているその男は、確かに私の知り合いで、なんなら一度は恋もしたことがある男で、けれど最後には一生顔も見たくないと罵るように言ってやった男だった。


 柔らかいブラウンに染められた髪は、いまや頭の頂点から黒くなっていて、前髪も伸びすぎたのか乱雑にかき上げていた。私が知るよりもセットの乱れた髪は、それだけこの世界が荒れ果ててしまったということだろう。


 私はリュックから取り出した水筒に口を付けてから「千秋」とその男の名前を呼んで、見下ろした。


「近所に猿はいない。そこまでド田舎じゃない」

「七年前に猪が闊歩してただろ、その辺を。それで猟銃で撃たれてただろ。その後さばいて鍋にしてみんなで囲んで美味しく食っただろ」

「それはド田舎だわ……」

「まず一定間隔でコイン精米機ある時点でド田舎なんだよな」

「え? 逆に精米機なかったらどうやって米食べるの?」

「そもそも玄米が手に入らないんだよ、普通は。売ってんだよ白米を」


 なるほどそっちかあ、と私は髪をかき乱した。


 千秋は「降りて来いよ。再会記念に、そこのコンビニから何かかっぱらって来ようぜ」と最低な台詞を吐いた。私は良心を痛ませながら少し悩んで、「ポテチのコンソメ味残ってたら私のだから」と返し、がれきを滑り下りた。


 コンビニと言っても全国チェーンのそれではなく、雑貨店がコンビニの名前を掲げているだけの店である。やはりこの町はド田舎であった。







 コンビニという名の雑貨店に店主はいなくて、私たちは扉をガラガラと開けて勝手に入った。


 薄暗い店内を物色していく。食料はほとんど残っていなかったが、スナック菓子はいくつか棚に放置されていた。うっすらと埃をかぶっているそれを手に取って、私は一足先に店を出た。うすしお味だったが、のりしおよりは好きなので及第点というところだ。


「ねえ、千秋」


 私はパッケージをひっくり返した。


「これ消費期限切れてるんだけど。食べれると思う?」


 後から店を出てきた千秋は、扉を開けっぱなしにしたままだ。誰に叱られるわけではないけれど、私は彼に代わって店の扉を閉めた。千秋は「真面目だなあ」とからかうように言って、私の手元を指さした。


「とりあえず一口食べてみて、美味かったらオッケーだろ」

「判定が雑」

「ちなみにこの判定法を教えてくれたのは、五年前の由衣だけど」

「私か。判定が雑だな」


 がれきの下の方に並んで腰かけて、それぞれ取ってきたものの袋を開けた。私はポテチで、千秋は駄菓子のラムネだった。やけにカラフルなそれを口に放り込みながら、彼は小さく笑った。


「世界、滅んだなあ」


 まだ滅んではないでしょ、と私は言いかけたが、全人類のうち何人が残っているかもしれない今、これは確かに滅びなのかもしれないと思って、静かに言葉を飲みこんだ。


 この町はとても静かで、世界もやはり同じくらいに静かだった。人の気配はしない。その答えはいたってシンプルである。


 人類のほとんどはすでに消失した。


 死んだのではなく、ただ消えたのだ。

 

 その現象が始まったのはいつだったか、はっきりとは思い出せない。多分一年前の冬だった気がする。そうだ、あのニュースを見た日はちらちらと雪が降っていて、畑は大丈夫かなあと思っていのだ。 


 アナウンサーの言うことは奇天烈で、てんで意味不明だった。往来で突然、その人は服だけを残して消えたと言うのだから。マジックのように、幽霊みたいに、ただ何の痕跡も残すことなくすっかりこの世界から消えてしまったのだ。


 それは連鎖反応のように次々に起こり、一ヵ月が過ぎるころには世界総人口の一割がいなくなってしまった。何の理由も分からず、ただ人は消える。人類は何の手立てもないまま、世界の終焉を待つだけだった。


「でも意外と普通だったよな」

「うん、普通だったね」


 私たちは同時に食べ物を口に放り込んだ。


 人類が消失するなどという史上最悪の現象が起きたというのに、世界は案外普通に回っていた。


 死んだ目をしたサラリーマンはちょっと空いた電車に乗って、店は朝から晩まで開いて、私たちは学校へ通った。さすがに部活はなくなって、けれど暇を持て余した私たちはグラウンドでハンドボールをした。ボールの空気を五回入れなおしたあたりで穴が開いているのだと気が付いて、げらげら笑いながらそのまま遊んだ。明日には誰が消えるかも分からない世界で。


「っていうか、人が消えますって言われてどうしろっていうんだろうね。どうしようもないじゃんね。そりゃ偉い人は大慌てだっただろうけどさ」

「俺、大学進学で東京行ってただろ。もっと普通だったぜ。顔見知りだったコンビニ店員が次の日いなくなってたときは、微妙にショック受けたけどさ。あー、順番が来たんだなあとか、次は俺かもしれないなあ、とか」

「まあ知り合いが五人くらい消えたあたりで慣れたけど、私は」

「俺は三人目」

「そんなもんだよね。そんなもんだよ」


 だらだらと会話を続けながら、空になったポテチの袋を四つ折りにする。


「なんで千秋、こっちに戻ってきたの」


 空になったラムネ容器を握らされた。私は無言のままで押し返して、ちらりと視線を遣った。千秋は足を組んで、ぶらりと揺らした。


「親にこんなときくらい戻って来いって言われたから。戻ってきたら母さん消えてたけど」

「マジかあ。おばさん消えちゃったかあ」

「由衣もしばらくこっちいなかったんだろ。どこ行ってたんだよ」

「山三つ越えた親戚のとこ。うちは家族早々に消えちゃったから、そっちでお世話になってた」


 ずっと親戚の家で暮らしていたが、とうとうその親戚も全員消えて、ついでに近所も人っ子一人いなくなったので、最後くらいは生家で過ごそうとこの町に帰ってきたのだ。当然電車もバスもないので、七日間徒歩である。距離的にはともかく、方角しか分からないのでずいぶんさ迷った。道路標識には助けられたものである。


「で、ちょうど帰ってきたところで俺に会ったってことか。ここまでのプチ旅行で、俺以外の誰かに会ったか?」

「猫なら一匹。あと山で狸見た」

「人間について聞いてるんだよ、俺は」

「だったら今の返事で察してよ」


 千秋はやや沈黙した末に「察した」と呟いて、遠くの山々を見遣った。いい知らせではなかったけれど、彼の黒い瞳は少しも揺れることなかった。もうこんなことには慣れきってしまっているのだ。ひゅっと短く風が吹いて髪がなびく。彼は薄く笑った。


「残念だったなあ、世界の終わりに俺しかいなくて」


 私はわずかに息を呑んでから「そうだね」と返す。


「最悪」


 何を隠そうこの男は過去、私の初恋を奪っていったあげく、それを知っていながら限りなく最低な言動で踏みにじった人間なのだ。


 せっかくだから一発殴ってやろうかなとも思ったが、そんなことをする気力も湧いてこなかったので、四つ折りにしたポテチの袋をもう一度広げた。


 この世界で最後に暴力を行使した人間として刻まれるのはごめんだった。







 千秋との生活もまた、いたって普通に過ぎていった。


 一度は私の生家に連れて行ってもらったものの、一年間足を踏み入れていないそこは廃墟だったので、隣にある千秋の家で暮らした。


 千秋はずっとこの家で過ごしていたらしく、必要なものは一通りそろっていた。食事はかつての隣人の家を漁るか、たまに遠くまで出かけてストックを作っているようだ。「ちなみにおまえの家は真っ先に漁った」と言われた私はとても返事に困った。お隣さんなので仕方がない。


「なあ、今日は何するよ」


 河川敷で十メートルの距離、ボールを投げながら千秋は言った。


「キャッチボールは昨日もやったし飽きた」

「でも二人で遊べるのってキャッチボールしかないじゃん」


 私はボールを片手でキャッチし、投げ返す。


 千秋と暮らすといっても、お互い消えるのを待つ身だ。何をすることもできず、ただ二十四時間の暇つぶしをするだけだった。


「おまえ、キャッチボール上手いよな」

「これでも体育会系なんで」


 ボールを受け取って、投げる。また飛んでくる。


「俺の歴代恋人、全員文化部だったんだよなあ。河川敷でキャッチボールとか誰も付き合ってくれなくてさあ。……いや、ちょっと待てよ、確か一人だけいたわ。いたけど、三メートルの距離が限界だったからすぐ飽きた。五分で飽きた」

「十メートル空いてる今でも飽きてるじゃん」

「確かに」


 私は肩をぐるっと回しながら、どの人だったのだろうな、と彼の恋人の顔を並べた。あのふりふりレースの服を着た人は違うだろう。サバサバしたカッコイイ女の先輩だろうか。いや、意外とばっちり甘めメイクを決めていた後輩ちゃんだったか――そこまで考えて、虚しくなってきたので思考を止める。どの人だって一緒だ。少なくともそこに私の顔はないのだから。


やや力んだ肩でボールを投げると、彼は「なに、その顔」と笑った。


「傷ついた?」

「……はあ?」

「怒んなよ、今さらだろ」


 千秋はボールを数回真上に投げてから、柔く握りなおす。


「気にするなって、俺も歴代何人いたかよく覚えてないから。高校生の恋愛なんかそんなもんだろ」

「月一で違う人だったし。クズだね」

「その淡々とした声で俺を罵倒するなよ。幼馴染だろ」

「私は今ものすっごく同情してるの、一時でもあんたの恋人なんかになっちゃった人に」

「ひっどい言い方だな。かわいそうだろ」


 投げられたボールを受け取って、それをすぐさま全速力で返球する。足を大きく開いて投げられたその一球は千秋の頭上、はるか上を飛び去っていった。


「あーあ。力んじゃって」


 千秋は軽くジャンプしたけれど、まったく届かなかった。河川敷の彼方を転がっていくボール。くるりと背を向けて、のんびりと駆け足で取りに行く千秋を見ながら、私は棒立ちになっていた。


 千秋は私の幼馴染で、一つ年上で、同じ高校に通っていて、文武両道で、だからとてもモテていて、どんな人に告白されても断ることなくにこにことした顔で付き合っていた。ごっこ遊びみたいな、ままごとみたいな恋愛だったと思う。すぐに別れて、数日経ったら新しい恋人がいて、それの繰り返し。


 そんな来るもの拒まず、去るもの追わずな千秋が唯一付き合わなかったのが清水由衣こと、私である。馬鹿らしいにもほどがある。


「雨、降ってきたな」


 ようやく戻ってきた千秋は空に手をかざしながらぽつりと言った。私も「そうだね。雨降ってきたね」と繰り返すように言って、どちらともなく歩き出した。返してからようやく頬に水滴がついて、本当に雨が降ってきていたのかと思った。


「ボールはどうしたの」

「なんか泥のとこに落ちてて汚かったから川に流してきた」

「ちょっとは環境に配慮しなさいよ。相手は偉大なる地球様だよ」

「誰だよ地球様って」

「地球だろ」


 私は積年の恨みをこめて、その肩を激しく殴打してやった。







 開けた河川敷には雨を避けられるような場所はなくて、土手を上がったところにあるバス停に駆け込んだ。半透明な屋根とベンチが一つあるだけのそこにたどり着いたころには、雨は本降りになっていた。


「由衣、タオルとか持ってない?」

「持ってたらまず自分が拭いてるでしょ。そもそも千秋に貸す分はない」

「それはそうだ」


 服がびっしょりと濡れて肌に貼りついている。秋で良かった。もし夏の薄着だったら間違いなく透けていただろうから。


 私はベンチの上に乗っていた落ち葉を払ってから腰かけた。濡れているから気持ちが悪いが、雨はすぐにはやみそうになかった。千秋はすぐそばに立ったまま、服の裾を絞っている。


「雲がぶ厚いな。これは夜まで降るかもな」

「さすがにここで一夜明かすのは嫌だよ、私」

「駄目そうだったら走って帰るか。もうどのみちびしょ濡れだもんな」


 まだ昼の二時だというのに薄暗くて、光はほとんど差しこんでこなかった。気温も体温も下がってきて、私はくしゃみを一つした。千秋はちらりと視線だけ寄こして、また外の方を見ていた。


「……千秋も座ったら」


 私は少し端に寄る。お互いほとんど口を開かなかったのは多分何となくだった。けれどそういう空気に先に根を上げたのは私だ。小さな声で言ったから、ざあざあと降る雨にかき消されそうだった。それでも千秋はきちんと聞こえていたようで、「ん」とだけ呟いた。


 ほとんど大人みたいな私たちが並んで座ると、ベンチは狭かった。肌がぎりぎり触れあわない程度の距離で、私たちはぼうっと雨を見ていた。


 私は膝をくっつけながら視線を落とした。濡れて色の変わったスニーカーを見つめた。


 私はこの男が好きだ。今でも好きだ。だからこそ同じくらい嫌いで、許せなかった。


 そもそも私が千秋に惹かれてしまったのはもうずいぶん前のことで、私が中学二年生のときだったと思う。その時千秋は三年生で、少なくとも恋人をとっかえひっかえするような人間ではなかった。今と変わらず大概なろくでなしであったけれど。高校生になったあたりからだ。彼が恋人を作ってはすぐに別れるというのを繰り返し始めたのは。


 別に私がとやかく言うことではなかったし、それを知っていても私は彼が好きだった。好きだったのに。


「千秋はさ、なんで」


 気が付けば声に出していた。


「……なんで、あんなことしたの」


 声はわずかに掠れていた。千秋は瞬きの少ない目で私を捉えた。けれどすぐに視線を逸らせて、唇を柔らかく動かした。


「あんなって、何?」

「千秋のことだからいろいろありすぎて思い出せないよね。ごめん。キスのやつ」


 間違いなく千秋は私の好意に気が付いていた。


 気が付いてなお、恋人を作り続け、挙句の果てには私を部屋に呼び出した。のこのこ向かった私を待ち受けていたのは、本当に今でも笑ってしまうのだけれど、当時の恋人とキスを交わす千秋のシーンだったのだ。


 千秋は首筋を伸ばすようにのけぞらせた。


「ああ、あれね。あれはタイミングが悪かっただけだろ。たまたまじゃん」

「嘘つき」


 私は鼻で笑った。千秋もつられるように苦笑した。それは認めているのと同じだった。やっぱりろくでもない人間だ、千秋は。


 衣擦れの音がして、再び会話はなくなった。千秋はベンチの低い背もたれにもたれかかっていたが、体を起こして、背を丸めた。指を組んだままで「由衣」と私を呼ぶ。


 彼は薄い唇に笑みを浮かべていた。いつもみたいに、その軽薄な笑みを。


「告ってみたらよかったじゃん、俺に。もしかしたらチャンスあったかもしれないのに」


 雨が地面を跳ねる。私はその言葉を咀嚼するように細く息を吸いこんで、そしてぱっと唇を開いた。反射で何か言おうとしたが、何一つ言葉が出てこなくて唇はぱくぱくと開閉するだけだった。


「俺だって言われなきゃ分からないし? だから一回くらい俺に告ってみればよかったんだよ、由衣は」


 彼は付け足すように言った。そんな台詞を平然と吐いてみせたこの男に、私は、この私は一体何を返せばいいのか皆目見当もつかなかった。それでも喉の奥は焼けるように熱くて、心臓は苦しいくらいにバクバクと高鳴っていた。 


 ざあざあと雨が降っていた。止みそうにもない雨の中で、私は「最低」と短く呟いた。


「最低……」 


 もしかすると、私は泣けばよかったのかもしれなかった。ぽろぽろ涙をこぼしながら、いかにも傷ついたとでもいうように。でも不思議と涙は出てこなくて、ただ隣に座る彼を罵ることしかできなかったのだ。


「なんで? 俺、間違ったこと言ってる?」

「本当に、どうして、千秋はそんな風なの」

「そんな風って」

「私がまだあんたのこと好きだって知ってるのに、どうしてそんなこと言えるの。私、全然分からない」 


 千秋は「ふうん、俺のことまだ好きなんだ。ちょっとびっくりした」と言い聞かせるように言った。


「長い初恋だなあ、俺は全然だったのに」 


 ――全部知ってるくせに。全部知ってるくせに! 


 いよいよこの男に張り手でもくらわしてやろうかと右手を振り上げた。だが千秋は笑みを崩さない。私だけを目に映してにこりと笑っているのを見て、何かとてつもなく馬鹿馬鹿しいような気分になって、上げた右手をゆっくりと下ろした。 


 何を言ったところで千秋に届きはしない。一人芝居だ。言葉も気持ちもすべて無駄になる。そんな簡単なことは二年前に知っていて、あの時散々罵ってやったのだ。何もかも今さらだった。だったら世界滅亡の前くらい、せいぜい穏やかに過ごしたいものである。


「雨、いつになったら止むんだろうなあ」

「……そうだね」


 この話はこれでおしまいだ。私たちはまた遠くを見ながら、静かに雨が上がるのを待ち続けた。







 私は何となくこの男の、東城千秋という人間の本性に気が付いていた。気付いていながら悔しくて、私は知らないふりをしていた。昔からずっと。


「なあ由衣、花火したくない?」


 夕方には雨も上がって、何とか家までたどり着いた私たちは服を着替える。千秋から渡されたパーカーはぶかぶかで、肘まで袖をまくっていると、千秋が藪から棒にそう言った。私は少し考えてから真顔で返した。


「どちらかと言うと、めちゃくちゃしたい」

「さっすが。分かってるじゃん」

「世界終わる前に花火しとかないとね。消えても消えきれないわ」

「マジで分かってるわ。分かりすぎてるわ」


 どこからか持ってきたらしい手持ち花火セットを抱えた千秋は「どうせなら広いところでやろうぜ。誰もいないし」と言って、部屋の扉を開けた。私も頷いて後に続いた。


 結局たどり着いたのはやはり河川敷で、花火・バーベキュー禁止の立て札を無視した千秋はポケットからライターを取りだした。気前よく「好きなの選べよ」と言うから、私は一番勢いのよさそうなそれを手に取って、火をつけてもらう。バチバチと火花の散り始めたそれを千秋の方へと向けた。


「当然のように俺の方へ向けるな。人に向けてはいけませんって習わなかった?」

「と言いつつも応戦しようとしてるの知ってるんだからね。ほら、向けた。私の方に向けてきた。野蛮人め」


 日はまだ沈んだばかりで、空の端は群青だ。ほの明るい世界には、しかし私たち二人きりで、火花を散らしながらぎゃあぎゃあと叫ぶ声だけが響くには広すぎた。


 二本も三本も贅沢に火をつけて、振り回して、山ほど持ってきたはずの花火はほとんど燃えかすになっていく。河川敷に打ち捨てられたそれを見て目をしかめる人はもういなかった。この世はすでに崩壊したのだから。


「ね、千秋」

「うん?」

「なんで私たちまだここにいるんだろうね」


 閃光が目に眩しい。彼は声を上げて笑った。


「花火するためだろ?」

「そうかもしれない」

「ずっとやりたかったんだよな。キャッチボールも花火も。ずっと一人だったからさ。由衣が帰ってきて良かった。付き合ってくれてありがとうな」

「そりゃあボールがあったらキャッチボールするし、花火があったら花火するでしょ。それが人間ってやつなんだから」

「だよなあ、それが人間だよなあ」


 言いながら、違うだろ、と思ったのだが馬鹿みたいに笑いがこみあげてきたので何も言えなかった。訂正する代わりに私は手に持っていた花火を千秋に向かって投げつける。彼も笑いながら身体をひねって避けた。


 花火をしたのは何年ぶりだっただろうか。うちの家族と、千秋の家族と、縁側でしたのが最後だったような気がした。小学生のころ、スーパーで買ってもらった花火のパックをほとんど二人で使い切って。写真を撮ってもらったけれど暗いから全然ピントが合わなくて。千秋もそれが最後で、次が今だったらいいのになと思った。思って、なんでそんな風に感じるのだろうと不思議だった。


「もう線香花火しか残ってないなあ」


 千秋はぼやいて「線香花火はつまらないからやらない」と言った。私も同感だったけれど、何か明るいものが欲しかったので火をつけた。ライターのオイルは減っていて、もうほとんど残っていなかった。


「…………」


 私たちは別々の方を向いていた。千秋は私の逆の方を、私は自分の手元を。


 線香花火の先がパチパチと花みたいに散っていた。私は自分の指先をじいっと見つめて、「ああ」と短く声を発した。気付きを得て、視線を逸らさないままで千秋を呼ぶ。


「千秋、私ね、千秋のこと嫌いなんだ」


 彼は大した返事をしなかった。私は続ける。


「恋人とっかえひっかえするの最低だし。恋愛関係ただれてるし。私の部屋のもの勝手に借りていくのに返さないし。あの漫画の二巻だけいまだに返ってこないし」

「最後の方は別種な恨みな気がするけど」

「昔から自分勝手だし。わがままだし。基本的に自分が中心に世界が回ってるし」

「ごめんって。でも仕方ないじゃん。俺ってそういう性格なんだから」

「昔から一人になるの嫌いなくせにそう言わないし。意外と自分に自信ないし。そのくせプライドだけはめちゃくちゃ高いし」

「…………」

「好きな人に好きの一言も言えないのに、どうでもいい人には言えちゃうんだもんね、千秋は。そういうところ本当に大嫌い」


 線香花火の先は勢いを失って、ぷっくりと火の玉が膨らみ始めた。もう落ちてしまうまで秒読みだ。私は手を揺らさないように気を付けようとしたけれど、どうすればいいのか分からなくて、ただ真っ直ぐに伸ばしていた。


 やっぱり世界には二人きりで、私たちはもしかすると、最後の人類なのかもしれなかった。そして本当の最後がどちらかなのかも、もうはっきりとしている。


「ねえ、千秋」


 とん、と軽くもたれかかった。揺れたから花火の先はポトリと落ちてしまった。それでも私は最後にそうしたかったから、彼の肩に身体を寄せた。


「告ってみたらよかったじゃん、私に」


 私は小さく笑って、「ちゃんと、怖がらずに。そうしたら私たちもっと上手くいってたかもしれないのに」と付け足した。千秋はびくりと身体を震わせた。それでもかたくなにこちらを向こうとしなかったから、プライド高いなあ、と笑う。


「いつも大人ぶってる割には本当は子どもみたいで、ノリが良くて、いたずらも好きで、意外とビビりで、要領は良くて、ついでに顔も良くて、ろくでもなくて、性格ねじ曲がってて、それで私のことが大好きで――」


 数え上げているうちに気が付く。結局のところ似た者同士なのだ、私たちは。私だってちゃんと怖がらずに言えばよかっただけなのだから。今までそうしてこなかったのは、ただ悔しかったからという、そんなくだらない理由だった。


「好きだよ、千秋。私はずっとあんたのことが好きだったよ」


 私は彼にだけ聞こえるように、囁くように言った。


 もしこれが何かの勝負だったとすれば私の勝ち逃げだったといえるだろう。そしてこれが、こんなにどうしようもないものが世界最後の恋だった。世界で最後に叶うはずの恋だったのだ。


 わずかに感じていた千秋の体温が消えていく。私にはもう、瞬きの次の瞬間が残されていなかったけれど、それで充分だった。私はとても満足していたから。













 俺がようやく振り返ったときにはもう、由衣はいなくなっていた。そこにあったのは彼女には大きすぎるパーカーと、履き古したスニーカーと、燃え尽きた線香花火くらいなもので。俺は座りこんだまま、ため息みたいにゆっくりと息を吐きだした。


「ずる……」


 吐き出した声は誰に聞こえることもなく宙に消えた。今さら「本当はずっと好きだったよ、俺も」と言ってみればよかったのかもしれないが、やはり言葉にするには遅すぎた。 


「消えるなら消えるって、先に言えよ……」


 もはや通じるはずもない文句を言ってから、俺はその場にしばらく座りこんだまま、まだ覚えている由衣の重みを感じていた。


 いつだって肝心なことは言わない女だったのだ。でも今回くらい言えよ、言うべきだっただろ。今から消えるので言い残したことありますか、くらい。俺だって言わなければならないことをずっと言えずにいたから、めちゃくちゃデカいブーメランだけども。何ならあいつよりももっと酷かったけれども。


 ずるずると力なく顔を伏せて、俺は少しだけ笑った。


「好きだったのになあ」


 ずっと、ずっと好きだったのに。おまえなんかよりもっと長いこと。


 それはきっと叶えなければならない、世界で最後の恋だった。

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