13.「推しのアイドルグループでもいるんですか?」


 冬の雨は実に不愉快だ。いっそのこと雪になればいいのに。濡れた身体を冷たい風がさらい、身震いしたリンネが長靴に覆われた足先で水たまりを力強く踏みつける。ピシャリ、水滴が弾ける音が彼女の耳に流れて、彼女は閑静な住宅街の路地を一人歩いていた。やがて、彼女の眼前に新築で小奇麗なマンションがお目見えされ、玄関の屋根下に避難した彼女はビニール傘を畳んで申し訳程度に振る。水滴が再びはじけた。


 玄関口のインターホンに部屋番号を入力してから呼び出しボタンを押して、リンネは訪問先の応答を幾ばくか待った。やがて、「はい」、と女性の低い声がデジタル信号に変換され、リンネの喉の奥がきゅうっと縮こまる。小さな口を開いた彼女はふりしぼる様に、かすれた声をあげた。「突然すいません、羽村倫音です。その、サチさんと、友達だった」。リンネの水晶体に映るインターホンが無機質に佇み、返事は中々返って来なかったがしばらくして、「どうぞ」と乾いた声がリンネの耳に届いた。ウイーン、自動ドアの開閉音の音が無節操に響く。


 亡き親友の家を訪問したリンネは、まずは彼女の仏壇の前で両手を合わせた。平日の昼間、家にいたのはサチの母親一人だった。久我山紗智は一人っ子で、兄弟はいない。リンネはリビングに通され、彼女の眼前、焦げ茶色のミニテーブルの上に湯気立つお茶が置かれる。「どうも」とリンネは申し訳程度にお辞儀をした。だが、そのお茶を手に取ることはしなかった。彼女はぎゅっと握り込んだ両掌を両膝の上にのせており、リンネに対面するようにサチの母親がソファに腰をかける。彼女とリンネが顔を会わせるのは通夜の夜以来だ。あの時ほどではないものの、やはりサチの母親の表情はどこか虚ろであり、以前の快活さを持ち合わせてはいない。リンネはそう感じ、サチの母親から目を逸らすように顔を伏せた。


 少しの沈黙が空間に流れて、リンネはポツポツと声を落とし始めた。彼女は、高校に入って変わってしまった自身とサチの関係、サチがリンネにしたこと、リンネがサチにしたこと、全てを彼女の母親に話した。「サチが自殺した原因は私です。彼女の心を追い詰めたのは私です」。彼女の声は震えていたが、だがハッキリとそう言った。「謝って済む問題ではないのはわかっています。でも言わせてください、ごめんさい。私にできることがあるなら、なんでもします」。再び沈黙が流れ、リンネの胸中に永劫の刻が流れる。彼女の肩は強張っており、足裏からにじみ出た汗が靴下に張り付く。その事実には彼女自身が気づいていない。


 淡々と、抑揚のかけらもない、何かを押し殺すような声がリンネの耳に流れる。「話してくれてありがとう。でも、あなたは何もしなくていいわ。できることなら、二度と顔を見せないで欲しい」。リンネがハッとなり顔を上げる。サチの母親の表情には一切の色がなかった。まるで絵画や銅像のように血の気が感じられなかった。哀しみも、怒りも、とうに通り過ぎてしまったような、虚無の顔。リンネは人生で初めて、他人から明確な拒絶を受けた。いじめを受けてきた時でさえ、悪意という形で干渉を感じていたのに。目の前にあるのに、透明な板が隔たり、手が届かないような感覚。はがゆさが全身からこみ上げ、リンネは再び両掌をぎゅっと握り込む。「ごめんなさい、ごめんなさい」。彼女の口から勝手に声がこぼれおちたが、その音は完全に行き処を失っており、誰の耳に届くコトもなかった。



 リンネはアルバイトを始めた。吉祥寺にある地下一階の老舗喫茶店。週五で一日八時間。時給は九百五十円だった。ある程度貯金がたまると、彼女は一人旅に出かける。全国津々浦々、四十二都道府県をアトランダムに巡った。仏像を眺めるワケでもなく、地元産の鮮魚に舌鼓を打つわけでもなく、彼女はあらゆる土地をひたすら闊歩した。和服姿の男性とすれ違い、彼女は振り返って声を掛ける。お目見えされた顔面は端正に整っており、綺麗に手入れされた口元は髭の一つも生えていない。「すみません、人違いでした」。リンネは力なくこぼして、見ず知らずの彼にくるりと背を向ける。一切の思考を排除して、アンドロイドロボットのように再び足を動かす。


 彼女が老舗喫茶店に勤めてから三年ほど経ったある日、仕事中にバイト仲間の男性が声をかけてきた。今日のシフトは彼と二人きりであり、店内は閑散としていた。常連である老齢な男性が船をこぎながら新聞に目を落としている。


「羽村さん、すごい勢いでシフト入れてますよね。でも確か実家住まいだとか。一体何に使ってるんですか? 推しのアイドルグループでもいるんですか?」


 切り揃えられた黒の短髪と快活な笑顔が彼女の眼前にお目見えされ、リンネは吐き気を覚えた。彼は最近は言ってきた新人バイトで、人懐っこい性格なのか誰彼構わず話しかける姿が散見される。彼女が最も苦手とするタイプの人種だった。


「いえ、もっぱら一人旅の旅費にあててます」


 リンネは彼から目を逸らし、ぼそぼそと覇気のない声を返した。それゆえ、彼がぱぁっと輝かしい笑顔を披露した事実を彼女は知り得ない。


「一人旅? なんかカッコイイですね。旅がお好きなんですか?」


 なんだよ、まだ話しかけるのかよ。リンネは心底辟易していたが、職場仲間を無下に無視するほどの勇気も持ち合わせていない。話が膨れるのも面倒だったので、彼女は真実をつきつけることにした。


「いえ、人を探しているんです」

「人探し? なんだかドラマみたいですね。幼い頃に生き別れた両親を探しているとか?」

「違います。昔、私の命を救ってくれた人が死んでしまって、その人の生まれ変わった姿を探しているんです」


 遠慮がちなビートで奏でられるジャズ音楽が店内を巡った。リンネはバイト仲間の顔を見ず、虚空をまっすぐに捉えていた。よし、これで「引いた」な。ワケのわからないことを宣いはじめる地味な電波女。さすがのコイツも構うことはしなくなるだろう。心の中で一人ほくそ笑んだリンネだったが、彼女の目論見は見事に外れる運びとなる。


「なにそれ!? スゲー! ホントにドラマみたいじゃないですか! よかったら詳しく、話聞かせてもらえませんか?」


 なんでだよ、リンネはいよいよ彼の方に目を向けた。彼の目はキラキラと輝いており、新しいオモチャを買い与えられた小学生児童のようだった。リンネはあまりの眩しさに胸やけを覚え、早口で声をまくし立てる。


「嫌です。話すと長くなりますし、プライベートなことなので」


 彼の顔がハッとなり、慌てた素振りでポリポリ頭をかきはじめた。「そっか、そうですよね、すいません、調子に乗っちゃって」。さすがの彼もそれ以上言及するコトはしなかった。遠慮がちなビートで奏でられるジャズ音楽が再び店内を錯綜し、静寂を獲得したリンネは安寧をこぼすようにふぅっと息をつく。ああ、ようやく静かになった。心の中でそう呟いたのも束の間、屈託ない声がリンネの耳に再び届けられた。


「でも、生まれ変わりを探すのって、大変じゃないですか? 以前と全く別の姿かもしれないですよね? 年齢も違うわけですし、性別が違うかもしれないですし、もしかしたら人間じゃないかもしれない。それに、向こうは羽村さんのコトを覚えていないワケですし」


 コイツ、マジかよ。なんでこんな興味深々なんだよ。リンネは彼に真実を告げたコトを底から後悔していた。やさぐれた彼女の口から、凝り固まったヘドロのような声が漏れ出る。


「まぁ、そりゃあそうですけど、私の生きる目的がそれしかないので、やるしかないです」


 幾ばくかの沈黙が間を埋めて、やがて「そっかぁ、そうなんですね」と彼が無難な返事を返す。いきなり「生きる目的」とか言い出したところで、無駄に好奇心を持ち合わせたこやつが納得できるとは思えない。彼は彼なりに、この話題が深堀されるのを私が嫌がっているのだと、察してくれたのかな、そんな想像がリンネの頭上を巡り、しかし次の彼の言葉に、彼女は巨大な疑問符に押しつぶされそうになった。


「でも、やっぱ一人でっていうのは大変じゃないですか? よかったら俺も、手伝いましょうか?」

「はっ?」

「今度またどこか出かける時、俺も一緒に行きますよ。あ、もちろん、自分の分の旅費は自分で出しますので」

「はっ?」


 唖然とした表情を晒しているのはリンネで、彼はあまりにも屈託のない笑顔を満面に浮かべていた。コイツ、一体全体何を言い出すのだ。口をパクパクと開閉させるリンネは誰の目から見ても混乱しており、彼女の口から発せられる言葉はおよそ要領を得ない。


「いや、えっ? 一緒に? はっ? なんで?」

「ちなみに今度はどこに行かれるんですか? 国内ですかね? 俺、うどん好きなんですよ。四国とか行ってみたいなぁ」


 ちょっと待て、勝手に話を進めるな。心の中でツッコミが轟き、しかし混迷を極めている彼女はどうにも声の出し方を思い出せない。拒絶するタイミングを失ったリンネに対して、彼はひまわりのような笑顔を向ける。「よろしくお願いします、羽村さん。あ、連絡先教えて下さいよ」。

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