ハチコイ 第三話『後編』

三毛猫マヤ

第三話『後編』

 夜、蓮花に電話をしてみたが繋がらなかった。

 メールを送ってみるが、朝になっても返信は来なかった。

 いつもの電車に彼女の姿はなかった。

 やはり風邪でも引いたのだろうか。


 昼休みになると深谷ふかやが私の隣の席に座った。

「綾音、お昼食べよ」

「うん」

 いつもなら私の向かい側に座る、背の低い元気なクラスメイトは風邪で休みだった。

「まったく、普段は人一倍元気なくせに、この時期になると体調崩すんだよなぁ」

 深谷が珍しく腕を組んでむくれていた。

「その点、綾音は全然心配いらないね」

 こら、どういう意味だ。

「…それを言ったら深谷だって同じじゃん!」

「んん? どゆこと~?」

 深谷がぐねんと首を傾げる。

「いや、そのままだけどね」

「ぬぅ」

「むむ」

 お互いにムッとして睨み合うが、長続きはせずに昼食を再会する。


 ふと深谷を見ると、いつも本庄が使用する空席を無表情に見詰めていた。


 帰りのホームルームの後、深谷は本庄ほんじょうのお見舞いに行くと言った。

 私は友達が風邪みたいで朝から連絡が付いていない旨を伝えると、本庄は私に任せとけと言って胸を張って出て行った。

 若干不安だったが、よく考えてみると深谷に不安要素が無い時はほとんどないので、気にしないことにした。


 正門を出たところで最終確認をしても、蓮花からメールはなかった。

 お見舞いに行くねとだけメールして、蓮花の家に向かった。

 昨日、あんな別れ方をしたので気まずいのもあるだろうし、あの大雨だ、風邪で高熱を出しているということも充分に考えられた。

 いずれにしても、昨日の今日なので、早く会って確認しておきたかった。


 蓮花の家に向かう道すがら、昨日の公園での出来事を思い出す。

 蓮花は私の下着をこっそり見詰めていた件だ。

 蓮花と彼女同士になったとはいえ、お互いに相手に対してどこまで望んでいるのかは確認していなかった。

 …というか、そういうのって、どうやって確認したらいいんだろう?

 まてよ、そもそも確認するものではないのかも知れない。

 なんというか、その場の雰囲気や気持ちが高まったりしたら……て、なにを私は真剣に考えているんだ。

 いや、いつかはその問題に直面したときに対処に困らないように、今のうちに考えておくのは大事なことかも……。


「蓮花は、どう、思ってるのだろう」

 呟いて見上げた空には、のっぺりとした灰色の雲が静かに空を覆っていた。


 姫宮と刻まれた表札の前に立つ。

 以前家まで送り届けた時に通りに面した二階が私の部屋だと言っていた。

 今は窓にカーテンがかかっていて、中の様子は分からなかった。

 インターホンを鳴らすと、蓮花の母親が出た。事情を伝えると、しばらくしてエプロン姿の女性が姿を現れ、玄関まで入るように言われて従った。

 以前うちの母親から学生結婚したと聞いていた蓮花の母親。

 小学生の頃は特に気にしなかったけど今見ると確かに若いのが分かる。

 二十代半ばでも通用しそうだった。

青海あおみさん、お久しぶり。小学校の卒業式以来かしら」

「あ、はい。お久しぶりです」

「ごめんなさいね、蓮花ったら風邪をひいて朝からずっと寝てたのよ。今ちょうど遅い食事をしているところなの」

「そうですか」

 やっぱり風邪を引いてたのか。

 昨日引き留めなかった事に罪悪感を覚える。

 私はコンビニの袋を蓮花の母親の前に差し出す。

「これ、蓮花に渡してください」

「え? そんな、悪いわよ」

「いえ、蓮花が好きなものを買ってきたので、いわばこれは蓮花専用のお見舞い袋なんです」

 蓮花の母親は目を丸くした後、すぐにふっと笑った。

「そう? それならありがたく頂きます。ありがとう」

「…お母さん…」

 リビングのドアが開き、パジャマ姿の蓮花が出てきた。

「蓮花、ご飯は食べ終わったの?」

「うん…」

 と、そこで蓮花が私の存在に気付いた。

「え? あ、綾音?」

 蓮花が目を見開いて驚く。

「おはよ、蓮花」

「え? え? どう…して?」

 蓮花が口元を抑える。

「一応、メールでお見舞いするって伝えたんだけど」

「そう…なんだ。ごめん、昨日から鞄に入れっぱなしだった……」

 と、蓮花の母親が口を開いた。

「お話し中邪魔をしてごめんなさい。蓮花、私はリビングに戻るけど、さっきまで熱があったんだから、あまり長話はしないようにね」

「うん。あ、その、お母さん」

 蓮花がリビングに戻ろうとする母親を呼び止める。

「なあに?」

 蓮花の母親が振り返る。

 くうぅぅぅ~。

 そこで蓮花のお腹の子犬が鳴いた。

 蓮花の母親が少し驚くが、すぐに微笑みながら言った。

「そっか、さっきまでなにも食べてなかったものね。うどん、あの量じゃ足りなかったのね」

 体調不良でもそういうところはブレない彼女にふっと自然に笑みがこぼれた。

「蓮花、牛乳プリン、買ってきたよ」

「あ、ありがと…」

 蓮花がお腹を抑えながらお礼を言った。

 母親は私たちのやりとりを見た後、申し訳なさそうに私に向かって口を開いた。

「…青海さん。申し訳ないのだけど、これからスーパーに買い物に行ってくるので、その間だけ、蓮花を見ていてくれないかしら?」

「あ、はい」

「ごめんなさいね。ありがとう!」

 蓮花の母親はリビングに入ったと思うと、エプロンを外してハンドバッグを片手に慌ただしく出掛けてしまった。


 蓮花と私は玄関先に残されたまま、ぎこちない空気の中にいた。

「……あの、その…」

 昨日のことを思い出しているのか、蓮花がおずおずと言葉を発する。

「……えーと、とりあえず上がっていいかな?」

「う、うん! どうぞ、どうぞ! と、とりあえずリビングに案内するね」

 愛想笑いを表面に張り付けて、左手と左足を一緒に出してカクカクと歩く彼女の背中に、風邪とは別の意味で心配になった。



          ◆◇


 リビングにあるダイニングテーブルに向かい合って座ると、綾音がお母さんに渡していたビニール袋からお日さまの顔が描かれた牛乳プリンを取り出してくれた。

 お礼を言って半透明のスプーンを取り出して蓋を開いたところで、綾音に声をかけた。

「綾音は食べないの?」

「いや、これは蓮花のお見舞い用だからね」

「でも…」

 私だけ食べるのは申し訳ない。

 袋の中をあさると、もう一つ牛乳プリンがあったので、綾音にスプーンと一緒に差し出す。

「一緒に食べよ」

「それじゃあ蓮花に買ってきた意味がないじゃん」

「ううん、いいの。綾音にも食べて欲しいから。それに…」

「それに?」

「綾音と一緒に牛乳プリンを食べると、私は早く元気になるよ」

 綾音が目をしばたたいた後、呆れたように笑った。

「なにそれ? まあ、いっか。それじゃあ、いただきます」

 綾音は牛乳プリンを受け取り、開封して一口食べると、むぅ…と唸る。

「どうかしたの?」

「いや…なんか優しい甘さで、意外においしい…」

 なんだか悔しそうに褒めている。

「おいしいなら素直においしそうにしたらいいのに、綾音って時々変だよね」

「なぬっ! 蓮花に変とか言われるの、ちょうしょっく」

「なんでよー」

「だって、蓮花って天然じゃん?」

「いやいや、天然じゃないから! みんなそういうけど、全然違うから!」

「天然な人に限ってそういうのはなんでなんだろうねー」

「だから違うよー」

 まったく、綾音は時々失礼だ。


 牛乳プリンを食べ終えると、改めて綾音にお見舞いのお礼を伝えた。

「今日は来てくれて、ありがとう。…その、綾音に会えてうれしかった」

「うん、どういたしまして。昨日、あんな別れ方したから…風邪とか引いてないか、心配だったしね…」

「うぅ…見事に引いちゃったよ。せっかく昨日傘に入れてもらってたのに、ごめんね…」

 綾音に頭を下げる。

「いや、こちらこそ、すぐに追いかければ良かったんだけど……いつものんびりな蓮花の動きが意外に素早くて、呆気に取られちゃった」

「…い、意外に素早いって、なんか普段の私が人一倍トロいみたいな言い方に感じる」

「……そ、そんなことないよー。うん、そうだね、蓮花は普段からすごく俊敏だよね♪」

「なにその微妙な間の取り方、しかもカタコトの外国人みたいな棒読み、そのあとのフォローの言い方、すごく嘘っぽいんだけど?」

 突っ込みどころが多すぎて一気に話したら息が続かなくて少し苦しかった。

「あはは、それだけ突っ込める元気があるなら、明日は一緒に通学できそうだね」

 綾音が意地悪くにこりと笑いかける。

 最近の綾音は少し意地悪な気がする。

 でも不思議と嫌な気分にはならなかった。


 机の上にある綾音との林間学校の写真を机の引き出しの奥の方に隠して、次いで枕の下に隠した漫画を本棚の元の位置に戻す。

 まさかこんな形で綾音を部屋に招き入れることになるとは思わなかった。

 いや、まあじゃあ他にどんな形があるのと考えると、頬が熱くなりそうなので、考えないことにする。

「蓮花、もういい?」

「ど、どーぞ」

 綾音が入ってくると部屋の真ん中辺りに立ち、腕を組むと室内を見回す。

「ふむ…」

「あ、綾音。あ、あの…そ、そんなに興味深そうに室内を眺めないで」

「ああ、ごめんね。可愛い彼女の部屋とか、やっぱり気になるじゃん?」

「か、かわ…いい……て、そんなことで誤魔化されないからね」

「ご、誤魔化してないって」

 思い切り目が泳いでいた。

 私と一緒で、綾音はウソ下手な時がある。

「バレバレなんだけど」

「いやいや、蓮花可愛いよー」

「…本当?」

「本当だよ! 確かに、蓮花は態度や仕草や行動やその他いろいろと園児っぽいなと思ったりして可愛いなとは思うこともあるけど、そんな園児っぽい子供らしさを残した蓮花も魅力の一つだよ」

「あ、えーと、うん、あ、ありがと?」

 なんだか園児園児言われて、イマイチうれしくなかった。

 どうして私の周りには変な褒め方(?)をする人たちばかりなのだろう。

 その反応に綾音は納得がいかないようだった。

 いや、今のは仕方ないでしょ。

 自分の薄い胸に手を当てて考えたほうがいいと思うよ、うん。

 まあ、私も綾音のこと言えないけどね。

 ……なにがとは言わないけど。

「蓮花、信用してない?」

 綾音が若干前屈みになり、私の顔を覗き込む。

 襟元から僅かに覗く鎖骨の膨らみにふと昨日みた下着の紐が思い出され、視線を逸らす。

「そ、そんなことないよー」

「それ、ウソついてる時の反応じゃん」

 バレバレだった。

「ていうか、なんで今視線を逸らしたの?」

 そっちもバレてたか。

「べ、別に逸らしてない…けど」

「…ふーん」

 綾音が私の横顔をじっと見詰める。

 そ、そんなに見詰めないで欲しい。

「…そういえば、蓮花さぁ…」

「は、はい?」

 と、そこで綾音が私の耳元に口を寄せる。

 ふわりと、綾音の匂いが鼻先を掠める。


「…昨日…見てた……よね?」


 今までの調子とは打って変り、湿り気を帯びた、甘く優しい囁きにトクンと胸が高鳴った。

 もちろん、その一言ですぐに昨日の別れ際のことだとわかった。

 彼女を見ると、頬を朱に染めながらも、視線はしっかりと私を見据えていた。

 誤魔化せる雰囲気ではなかった。

 私は頷いた。


「蓮花はそういうの、興味あるの?」


 そういうの? って、どういう意味だろう。

 仮にある、と応えたところで、どうにかなるのだろうか。

 そもそも、綾音はどちらの答えを望んでいるのだろう。

 …分からない。

 自分のことも、綾音のことも…。

 ただ一つ、分かっていることがある。


 それは、私自身、今の関係のままでは、満たされなくなってきているということだ。


 だから、私は少しでも彼女との距離を縮めたい。そう求める自分がいた。

 でも、綾音はどうなのかな…?

 綾音は今のままでも満足しているのかな。

 それなら、私は……。


 口元に手を当てて考え込んでいると、

 むにっ。

 不意に綾音に頬をつねられた。

「ふぁっ」

 驚いて間の抜けた声が出る。

「こら」

 いきなり叱られて動揺する。

 なに? なに? 私なにか悪いことした? してないよね? じゃあ、なんだろう?

 不安げな雰囲気を察知したのか、綾音が手を離した。

「蓮花、私の顔色を伺ってたよね?」

「……」

「どちらを選べば私に嫌われないか、考えてなかった?」

「……」

 黙り込む私に、綾音が続けた。

「私は、そんなことで蓮花を嫌いになったりしないよ。

 昨日の傘の時もそうだったけど、蓮花は私に気を使い過ぎなところがあるよ。

 もちろん、そういう気遣いができることは大事だと思うけど、私に対してはそんなこと、気にしないでいいからね。

 わ、私は、蓮花の好きなことに正面から向き合っていく姿が……す、好き…なの……。

 だ、から…そ、その、私には……す、素直な気持ち…見せて…ね?」

 自分で言っていて、だんだん恥ずかしくなってきたのか、最後の方は耳まで真っ赤にして、顔を背けてしまう。 

 うぅ……か、可愛い……。

 胸がぎゅっと絞られるような痛みと息苦しさに、そのまま前屈みになる。

 この感情の発露にどう反応すればいいのか分からず、手のひらを見ると、指先だけがぷるぷると震えていた。

「れ、蓮花……だ、大丈夫?」

 綾音が心配そうに顔を覗き込んでくる。

「あ、綾音……」

「な、なに…?」

「え、えっと…そ、その…は、ハグして、いいかな?」

「えぇ? ……う、うん。べ、別にいい…けど……」

 綾音が頬をかきながら、ふいっと顔を逸らす。私は歩み寄ると、そっと腕をまわして引き寄せた。

 服の上から感じる柔らかな温もり。

 いつものシャンプーの爽やかな香りの中に、綾音の匂いを感じた。

 髪を撫でる。

 指先の間をサラサラとつややかな髪の毛が流れる。

 ふわふわした布の存在に気づき、小さな悪戯いたずら心が芽生えた。

「あ、こら!」

 布を掴んで引き下げると、するっと落ちていった。

 目の前には、ポニーテールを解いてロングヘアになった綾音がいた。

「まさか蓮花に悪戯されるとは……」

「だって、見たかったんだもん」

「ふうん」

「でも、あまり変わらない…かも」

「なんだ、悪戯され損かぁ」

「うん、変わらずに可愛い」

「…か、かわいく、ないし……」

 頬をムッとさせながらもピンク色に染める。

 普段呼ばれ慣れていないせいか、綾音は可愛いという言葉に弱い気がする。

 そんな反応も好きだな、と思った。

「…ところで、そろそろいいですか?」

 綾音がハグをされたまま、弱々しく主張する。

「も、もう少し……だめ…かな?」

 彼女の耳元で、息を吹きかけるようにして訊ねる。

「ひゃ……こ、こほん。も、もう…少しだけ…だからね」

「ふふ、ありがと」

 ぎゅっと綾音を抱き締めると、綾音も抱き返してくれた。


 私はベッドに横になり、綾音はすぐ近くに座ると手を握ってくれていた。

「ところで、さっきの問いかけで気になったことがあるんだかど…」

「ん?」

「そういうのに興味があるって、なに?」

「……ん、んー、な、なんて言うか、く、口では説明しづらいんだけど……」

「う、うん」

「その…つまり……わ、私のか、体……とかに、き、きょーみ?……あ、あるのかなって……」

「あるよ」

「えぇっ! 即答?」

 綾音が引き気味の声をあげる。

「…えっと、へ、ヘン…かな?」

「う……へ、ヘンというか…なんというか……」

「それじゃあ聞くけど、綾音は私と手を繋ぎたくない?」

「いや、つ、繋ぎたい…けど」

「私も同じ。じゃあ、ハグとかは? したくない?」

「そ、それは……というか、これ答えないとだめなの? 恥ずかしいんだけど……」

「大丈夫、私も一緒だよ」

「ぜ、全然大丈夫じゃないんだけど?」

「照れてる綾音も可愛いね」

「だ、だから…そ、そういうこと、いちいち言わなくていいから……」

 綾音が弱々しい声で呟く。

「え? でも、綾音が言ったんだよ。好きなことに正面から向き合っているのを見たいって。素直な気持ちを見せてって」

「そ、それは……そう、だけど……」

「私はね、そういう意味で、綾音の体に興味があるよ。だけど、昨日は、その…」

「いや、まあ昨日はあんな状況だったし、仕方ないんじゃないかな。まあ、まじまじと見られるのはちょっと、恥ずかしいけどね……ていうか、蓮花のも見えてたからね」

「ええ?!」

「いや、お互いに濡れ鼠になってるんだからそうなるでしょ」

「じゃ、じゃあ……お、お互い様ということで……」

「うん……でも」

 そこで綾音が口元に手を当てて意地悪そうな笑みを向ける。

「な、なに?」

「蓮花のあの熱視線にはちょっと、引いたかも…」

「あ…うぅぅ…ご、ごめんなさい」

 ふわりと、私の頭に綾音の手のひらが乗り、そっと髪を撫でられた。

「でも、あんな雨の時に、走って逃げなくても良かったのに……」

「昨日……」


 昨日はあれからずっと、綾音のことを考えていた。

 私にとって綾音はどれほど大事な存在なのか、どれくらい好きなのか。

 どうすれば、この胸の思いを満たすことができるのか……答えは、見つからなかった。


 そもそも、答えは私の中にはないのだろう。

 この問題は、私だけでは解決できないのだから。

 私と綾音、二人で寄り添って、歩み続けるしかないのだ。

 その先に、きっと……。


「れ、蓮花? どしたん?」

「え? なにが?」

「いや、なんか微笑んでるから、うれしいことでもあったのかなーって」

「うん、ちょっとね。あ、綾音」

「なぁに?」

「か、かか覚悟しと、け…よー!」

 私はふるふる震える指先を綾音の胸に突きつけた。

 相変わらず、決めるべきところでカミカミになる使えない舌と、頼りない指先に、私自身が心配になった。

 綾音はそんな私に首を傾げながらもいつも通り優しく微笑むのだった。



         ◆◇


 布団に横になった蓮花と夏休みの予定について話をしていると、しばらくして母親が帰って来て、私たちにお菓子とカルピスをグラスに注いで持ってきてくれた。

 蓮花が先ほど開いたカーテンから外を見ると静かに雨が降っていた。

 きりがいいところで話を切り上げて帰ることにした。

「それじゃあ、そろそろ帰るね」

「うん、今日は来てくれてありがとう」

「ううん、気にしないで。蓮花の声聞いて、元気そうな姿が見れたから、安心したよ」

「うぅ、本当にごめんね」

「だから、気にしない。私が好きでやってるんだから」

「…そっか。好き……えへへ」

 蓮花が頬に手を当ててニヨニヨしていた。

「じゃあ……って、そういえばシュシュはどこだ?」

「ああ、それならここにあるよ」

 蓮花が左手にシュシュを持っていた。

 シュシュに手を伸ばすとすっと避けられ、布団の向こう側にある窓の下に置かれた。

「もう、蓮花ってば…」

 私は呆れながら手を伸ばすが、届かないため、諦めて蓮花の布団に登る。

 四つん這いになって蓮花の体を通過しようとした時、腕を取られた。

「わっ」

 全然構えていなかったせいで、バランスを崩して容易く腕を引き込まれてしまう。

 甘いささやきを聴いた。

「…ねぇ、キス…しよ……」

 今までに聞いたことのない、甘えた声と柔らかな息が耳元にかかり、ゾクリと鳥肌が立った。

 私はそっと、彼女を見る。

 そこには、頬を桜色に染めて照れ笑いを浮かべる彼女がいた。

「…あ、あはは……な、なーんて、ね」

 いつもの笑みにホッと胸を撫で下ろして、こちらも笑いかけようとして……固まった。

 蛍光灯の光を受けて、彼女の目尻に僅かに光るものがあった。

 驚いて見詰めていると、本人も気付いたのか、指先で拭う。

「えへへ、ごめんごめん。ちょっと意地悪して、綾音の反応を見てみたくなっちゃっ……て…え……?」

 蓮花が驚いて目を見開く。

 拭ったところから、ぽろぽろと、とめどなく何度も何度も涙が溢れ出していた。

「あ、あれ? へ、へん……なの…な、なん…で……こん、な……うぅ………」

 始めこそ照れ笑いを浮かべていた彼女だったが、次第に余裕がなくなってきて、胸を抑えて

 俯いてしまう。

 はらはらと涙が布団の上に染みを作っていた。

 その姿を見詰めながら、もしかしたら、彼女は今までにも、こんな風に泣いたことがあったのかも知れないと思った。

 私自身、きれいな夕焼けを見ているとき…

 深夜、ふと目を覚ましたとき……

 楽しい思い出を振り返っているときなどにふいに不安に感じたり、寂しい気持ちになったりしたことがある。

 理由もなく、涙を流したこともあった。


 体調不良から来るものなのか、本当の理由は分からない。

 もしかしたら、本人にも分からないのかも知れない。

 それでも、私が彼女にキスをすることで、少しでもその瞳から涙を減らすことが出来るなら、私は……。


 彼女の涙を指先で拭った。

「あや……ね?」

 蓮花が驚いてこちらを見上げる。

 目を閉じる。

 指先を濡らす温もりに、暖かい想いが満ちる。

 満ちて、零れて、溢れだした気持ちに胸を抑えて、声にならない声が吐息のように小さく洩れた。

 胸がドキドキしてきて、熱に浮かされた頭がぼんやりしてくる。


 目を開くと、泣きはらした彼女の肩をそっと掴み、布団に押し倒す。

「蓮花……目を、閉じて」

 蓮花がきゅっと瞳を閉じる。

 彼女のベッドに手をついて身を寄せると、ギシッときしむ音がした。

 顔を近付けて前髪をかきあげると彼女の甘い汗とシャンプーの匂いがした。

 ふぅと息を吐いて、蓮花の少し汗ばんだ小さなおでこに、吸い付くように、キスをした……。


 シュシュを腕にはめて鞄を手にすると彼女の部屋を後にした。

 階段を降りると背後でドアの開く音がした。

「あら、青海さん帰るの? 今日は助かったわ、ありがとう」

 振り返ることなく、頭だけ下げて無言のまま、家を後にした。


 駅までの道を歩く。

 頭がふらふら左右に揺られ、車道を通過する車に何度もクラクションを鳴らされた気がする。

 駅のホームに立ち、指先で唇に触れた。

 この唇で、彼女の額にキスをした……。


 彼女の額のひんやりとした感触や指先に残る汗とシャンプーの香りが、甘美な毒のように私の全身をめぐり、とろりとした甘い熱で頭がくらくらした。



          ◆◇



 綾音が後ろ手に部屋とドアを閉じる音を聞いて、額にそっと手を当てた。

 額には微かに湿り気が残っていた。

 スマホのカメラ機能を使って自分の額を映してみる。

 もちろん特に変化はない。

 でも、確かに彼女の唇が私の額に触れた感覚や柑橘の香りが残っていて、私の頬は熱くなるのだった。

 カーテンを引くと、綾音背中が見える。

 静かな雨の中、水玉模様の傘を手に佇んでいた。

 その背中がこちらを振り返……りそうになるのを見て、反射的に思い切りカーテンを閉じた。

 いやいや、なんで閉じるのよ。

 急いでカーテンを開くと、彼女が苦笑しながら手を振ってくれた。

 私も手を振り返す。

 振りながら、なんだかこんなシーンが恋愛マンガかなにかであったなと思い至り、再び頬は熱を帯びるのだった。


 窓際に頬杖をついて水玉模様の傘が小さくなるのを見詰める。

 今年の夏は、いつもより熱くなりそうです。

 内心ひとりごちて、誰にともなく照れた。

 口に含んでいたいちごポッキーがポキンッ。

 小気味よい音を立てて、甘く舌でとろけた。











――――――――――完―――――――――

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