第17話

 あれから、私たちの日常に何か変化が起きたかと聞かれれば、何も起きなかったと答えるだろう。鈴とは学院内で顔を合わせれば軽く会話をするくらいで、必要以上に接触してこようとはしなかった。凜曰く、今は観察実験の途中なのでは? とのこと。

 二人はどうやら以前からの知り合い(勿論、友人関係などではなく)理数系の成績上位者としてお互いの存在を認知していたらしい。口には出さないが、凜は鈴をライバル視している節がある。存外、凜は負けず嫌いらしい。

 そして、その間にもSNSやネットを通じて『奇跡の使者』としての活動は無事に継続していた。以前、凜は私の体のことを心配してくれていたが、あの日の喫茶店以降、何も言わなかった。それが彼女なりの気遣い、優しさであることは言われずとも察せられた。

 季節は流れ―――楠女学院は夏休みへと入っていた。

既に八月の半ば。夏休みも残すところ僅かとなった頃、私と凜は夏休みの思い出作りのために、都内で開催されている花火祭りへ行くことになった。


 凜と二人、花火祭りの会場が見下ろせる高層ビルの屋上に足を運んでいた。黒条財閥の一人娘が、大勢の群衆であふれる会場で何かあったら困る、という事で凜の両親が経営しているビルの屋上を貸し切り状態で宛がわれた。

 ポーンと柔らかな到着音とともにエレベーターの扉が開く。途端、ぶわっと物凄い勢いで風が流れ込み、一瞬目を閉じる。風が収まるとゆっくりと瞼を持ち上げ、言葉を失った。

 映画やドラマでしか見たことのないようなだだっ広いヘリポート。その周囲を赤々とした光が明滅している。その先に広がる渺茫たる絶景。これまでに何度も凜に支えられながら浮遊魔法で空を飛んだことはあるけど、それとは違う、なんとも言えない緊張感が漂っていた。

 エレベーターと屋上の境界線を越えることが出来ずに固まっていた私に、その線を平然と飛び越えた凜は、銀色の髪と藤色の浴衣を風になびかせ、お姫様をエスコートする王子様のような優雅な仕草で手を差し伸べた。

 「さぁ、行こう」

 差し出された手をおずおずと掴めば力強く引き寄せられる。

一歩目を踏み出してしまえばあとは何のことはない。履き慣れない下駄をカツン、カツンと響かせながら屋上の端に設置された花火観賞用のベンチまで進み、腰を下ろした。

 太陽が境界線の彼方に沈みかけ、世界は赤と紺色のコントラストに彩られている。その下では祭りの会場を中心に煌びやかな輝きと人々の陽気な喧騒が聴こえてくる。私はその光景にしばし魅了され、ほとんど無意識のうちに呟いていた。

 「‥‥綺麗…‥‥」

 「そうだね、すごく綺麗」

 お互いの肩が触れ合う距離で、横並びになった凜が相槌を打つ。

 「今日はありがとう。高校生の私にはちょっと贅沢すぎる気もするけど‥‥‥」

 「そんなことないよ。それに華は今日まで大勢の人を無償で、それこそ命がけで救ってきた。その事と比べたらあまりにも見合わない報酬よ。それと、この場所の事なら気にしないで、私の家って、ほら、お金持ちだから。こういう時はとことん甘えようって決めてるの」

 「ハハッ、自分で言っちゃうところ、やっぱり凜らしいね」

 「うん。だって天下の黒条財閥の一人娘がお金ないなんって言ったら、周りの人には嫌味にしか聞こえないわ。だったら最初からそう言う風に言ったほうが素直で可愛いでしょ?」

 「すごい発想だなぁ。私が凜の立場だったら多分、委縮しちゃって何も言えないよ」

 と、頬を掻きながら微笑してから「それに―――」と続けた。 

 「一年前は想像もできなかったよ。こんな素敵な場所に、友達と二人きりで花火を見にこれるだなんて‥‥‥本当に、考え‥‥‥られなかった‥‥‥」

 不意に眼の奥がカッと熱を帯び、じわりとにじみ出るモノがあった。

 するとすかさず、巾着袋から浴衣と同色のハンカチを取り出した凜が、涙で濡れる私の目元にそっと宛がった。

 「泣かないで。華がそう言ってくれて私も嬉しいよ」

 「ごめん。何だか色んなことを思い出しちゃって‥‥‥。もう大丈夫だから‥‥‥」

 無理やりにでも笑顔を浮かべる。その様子に凜は「そう」と柔らかく微笑むと、白い鉄製のベンチに腰掛けた。その隣に私も腰を降ろしてから、薄く黒ずみ始めた空を仰ぎ見た。

 「あの日も、こうやって星を眺めてた」

 初めて凜と出会った日。十二月二十四日。自らの命を断とうと決意した私が最後に見るはずだった光景。

 「でも、あの時とは何もかも違う。これもみんな、凜のおかげ」

 「ううん、そんなことない。そう思えるのは華が頑張ったからだよ」

 その言葉に、私はそっと頭を振り、

 「違うの。あの時、凜と出会ってなかったら私は死ぬはずだった。だからね、ずっと言おうと思ってたんだ。あの時私を見つけてくれたこと、生きる希望を持たなかった私に生まれ変わるキッカケを与えてくれた、その全てに対して、私は凜にお礼が言いたい」

 そこで言葉を切り、私は亜麻色の巾着袋から一つの小さな箱を取り出した。可愛らしい赤いリボンの装飾が施された小箱を、腰掛けるベンチの上にそっと置いた。

 「これは?」

 「お礼。言葉で言うだけじゃ足りないと思って、その‥‥‥私なりに、凜に似合いそうなモノを選んでみたんだけど、もし気に入らなかったら‥‥‥あっ!」

 最後まで話を聞かずにリボンを解いた凜は、箱を開けた途端、硝子玉のような瞳をパッと見開き、私と小箱の中身を順繰りに見つめ返した。

 「これって?」

 「ちょっと気が早いけど、明日、凜の誕生日だったでしょ? だから、そのプレゼン―――」

 ト、と言いかけた所で、凜が勢いよく抱き着いてきた。

 絹のように柔らかく艶のある銀色の髪から漂うどこか懐かしく甘い花のような香りに、数秒ほど酔いしれてから、ハッとした。顔のすぐ横。耳元で凜は小さく嗚咽を洩らしていた。

 「ありがとう、華。すごく嬉しいよ」

 「よかった。気に入ってくれて‥‥‥」

 小箱の中身は、凜のイメージに合わせて銀の花が象られた指輪だった。奇跡の使者として活動を続ける傍ら、時間の合間を見つけてはバイトに精を出し、今日の為にこつこつと何ヵ月も前から準備していたものだ。

高校生の私が用意できる最高の物だと自負しているが、自他ともに認める大富豪の凜へのプレゼントにしては貧相すぎるかもと、危惧していたがどうやら杞憂だったらしい。

 「私ね、誰かにプレゼントをもらったの、これが初めてなんだ」

 「え、そうなの? なんだか以外、凜の家なら欲しいモノなんって何でもすぐに買ってもらえそうなのに?」

 「うん。直に買ってもらえるよ。だけどそれには、両親へ誰かを通して伝えないといけないの。ねぇ、気付かなかった? 私の家で誰にも会わなかったこと」

 その言葉に私は今更ながらハッとした。自分の事を魔法使いと認識してから、何度も凜の家には足繁く通ったが、そこで一度も彼女以外に誰の姿も見ていない。てっきり刑事として多忙な姉のように、仕事柄、遅い時間に帰宅しているのだと思っていたが、どうやら違ったらしい。

「もうずいぶんと親と話をしてない。覚えてる? 初めて会った時、心の温度の話をしたこと」

 「勿論、覚えてるよ。私たちが最初に会ったあの日に、凜が話してくれたでしょ?」

 「そう。あの言葉を私に当てはめるとしたら、多分、何も計れないよ。熱さも、冷たさだって、何もない。色で例えるとモノクロ。あの日、死のうとしているアナタを見かけた時、あぁ私以外にもあんな眼をする人がいるんだなって思った。その事に凄く安心した自分がいたの」

 「うん。私も。あの日、月明りの下で『月光』を引いていた凜を見た瞬間、私も――――嬉しかった。一人じゃないんだって思えて。たぶん直感的に判ったんだよ、私たちは出会うより以前から、こうなる運命だったんだって」

 以前の私ならこんな言葉は恥ずかしくて言えなかった。だけど、今は、凜に対しては嘘偽りないありのまままの自分の言葉をぶつけたかった。

 その言葉に数秒ほど唖然としていた凜は、くすっと笑う。

 「うれしい」

 吐息が感じられるほどの距離で呟く凜の瞳はこれまで見たどんなモノよりも美しかった。

思わず赤面してしまった私は石のように固まり、その様子にフッと口元を綻ばせる。

ゆっくりと柔らかい桜色の唇が近づいてくる。

 そしてお互いの唇が重なろうとした、その時―――ヒュルル、ドカンという轟音が衝撃とともに空気を細かく揺らした。

 「花火、始まっちゃったね」

 「うん。すごく綺麗」

 先ほどまでの甘い空気は霧散し、私たちはどちらが言うでもなく、居住まいを正して夏の夜空に咲く色鮮やかな花弁を仰ぎ見た。

 「ねぇ、華、ハメてくれる?」

 ズイッと指輪の入った小箱を突き出された。一拍の間を空けてから、「うん」と頷いた私は、指輪を摘まみ上げ雪のように白く滑らかな凜の左手の薬指に指輪を通した。

 「華ならいつか本当の私を見つけてくれるかもしれない」

 「それって、どういう――――」

 という台詞は、真紅の火花の轟音によってかき消されてしまう。

 「何でもない。今は花火を見よう―――この先もずっと忘れないように、しっかりと」

 「‥‥‥凜‥‥‥?」

 そう呟いた凜の頬からはひと筋の涙が伝っていた。

 途切れることなく咲き誇る花火。その無数の輝きに照らされた横顔が何を意味するのかこの時の私はまだ何も知らなかった。

 やがて、祭りは終わった。

さて帰ろうかと立ち上がり「ねぇ、凜」と声をかけた時には、さっきまで隣に座っていたはずの親友の姿はどこにも見当たらなかった。

 

 そして、その日を最後に凜の姿を見た者は誰もいない。

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