第弍部 第九話 太陽が堕ちた日

「その男が輝虎…!?」

「憲政様、どういうことですか!」


憲政に輝虎と呼ばれたその謎の男の出現に、一気にパニックに陥る上杉軍本陣。

しかしそんな周囲の様子を意に解すことなく、男は続ける。


「なあジジイ、俺がここにきた理由は分かってんだろ?」

「…復讐か」


憲政の返答に、男は——長尾輝虎は、弟と瓜二つの顔を狂気に歪める。


「そっうだよそう、復讐だよ!五年前、俺を殺すためにわざわざ陸奥から来やがった出来損ないの弟と!それを成功させるために主力を持っていきやがったお前!お前ら二人を殺すために、俺はこの5年間影虎として……伊達政宗として生きてきたんだ!」


その言葉に、憲政はひどく悲痛な面持ちを浮かべて俯く。

まさか五年前の遺恨が、このようなところで。


「てことで、ここで死んでもらうぜ。クソジジイ!」


先程腰に収め直した刀を、輝虎は再び鞘から抜き出していく。


その、彼が手にした刀を見て。

憲政は気抜けしたような顔で口を開く。


「……どこかで、どこかでお前が生きているのではと思っておった。…あの戦いの後、お前の死体と共に”それ”が無くなっておったからじゃ」


憲政の視線の先。

洗練されたその刀身からは、どこか威厳のようなものさえ伝わってくる。

まるで、山鳥の羽根が逆立っているような波紋のかたち。


長尾家相伝の宝刀。

家督を継いだ者のみが所持することを許される伝説の一振り、「山鳥毛一文字」。


これを持っていると言うこと。それはこの男が正真正銘、長尾輝虎であることの何よりの証明でもある。


主君が今まさに殺されそうになっている、そんな状況で。

上杉軍本陣の将校たちの頭の中は、ある一つの疑問で支配されていた。


目の前にいるこの男が本当に長尾輝虎なら。


今、越後兵を率いて戦っているあの男は一体誰なのか、という疑問が。


「…亡霊に殺される気分はどうだ?……まあ、さすがに受け止め切れてねえか。生ける伝説が、笑える最期だな」

抵抗する素振りもなくただ下を向いて呆然としている憲政の首を目掛けて、輝虎が刀を振り下ろした、その瞬間。


ゴオッと、大きな影が二人を覆った。


瞬間、分かっていたようのように刀を返した輝虎と、馬上から振り下ろされた矛が交錯する。


飛び散る火花と、鉄どうしのぶつかり合う耳をつんざくような音。


「分かってんだろ?俺に奇襲は効かねえってよ。右目も見えなくしてやろうか、影虎」


「……死に損ないがよく喋るな。…輝虎」


本陣の異変を察知した輝虎——長尾影虎は、十騎ほどを率いて最短距離でここまで駆けてきたのだった。


五年ぶりの、兄弟の邂逅。


その鏡合わせのような瓜二つの顔に、一方は全てを焼き尽くさんばかりの”怒り”を。

そしてもう一方は、深い海の底を覗くような”哀しみ”を浮かべた二人は。


「死ね、出来損ないッ!!」


「オオオッ!!」


瞬き一つさえ永く感じられるほどの凄まじい速さで、同時に刃を繰り出した。


二度目の衝撃。

しかし馬上と地面という圧倒的な有利があったにも関わらず、逆に影虎の方が仰け反ってしまう。


影虎が体勢を整えるまでのほんのわずかな隙間を縫って、即座に刀を納める輝虎。

その立ち姿を見た時、その場にいた全員がゾクリと総毛立った。 


影虎の率いてきた騎馬たちや、越後と共同で前線を組むことの多かった上杉軍の将校たちは、今まで何度か戦場で抜刀術を見る機会があった。

その度に彼らは、人間とはこれほど見事な剣技を体得できるものかと驚かされたものである。


だがしかし、輝虎のその構えはそれら有象無象とは一線を画すものであった。


今まで見てきたそれらの抜刀術が、いかに稚拙で未完成であったのかを思い知らされた。


その姿には一部の隙も無く、たとえ何百、何千人で斬りかかったとしてもまるで傷一つ付けられないような、巨大な岩石のような堅牢さ。


しかして今この瞬間にもこの場の全員を皆殺しにできるような、その場にあってその場にないような液体の如き流動性。


「一撃で終わらせてやるよ。…『日輪』」


いつ刀を抜いたのか。

いつ足を地面から離したのか。

膝を曲げて深く構えていたはずの輝虎の身体が、いつの間にか影虎の背後に。


容赦なく、振り下ろされる刃。


しかし影虎も流石である。これに反応した彼は矛で受け止める姿勢を取るも、輝虎の刃が矛に触れた瞬間。


圧倒的な膂力。

影虎は、辛うじて斬られはしなかったものの、なす術なく馬上から叩き落とされて地面を転がった。


「…軽いんだよお雑魚が。ただの日輪であっさり飛ばされてんじゃねえか」



視界が白く弾ける。目が回り、意識が飛びかける。身体がいうことを聞かない。

早く、起きなければ。

俺が死んでは憲政様が殺される。それでは、この戦が終わってしまう。



「今の越後は売国奴の巣窟よ。…輝虎は、越後を売る気じゃ」


憲政様の声だ。

いつの記憶だ、これは。


「輝虎を止めてくれ、影虎。…お主の祖国を救うのじゃ」


そうだ。

俺は、本当は。

輝虎を殺したくなんて。


「天下統一。…俺の夢はもう、汚れた大人たちに壊されちまった。…なあ、影虎」


懐かしい、優しい声。

あの夜の輝虎の言葉だ。


「俺を———」


そうだ。俺は、本当は。

お前を。



落下の衝撃で気絶したのか、意識のない影虎の首目掛けて輝虎が刃を振り下ろした瞬間。

内臓が裏返るほどの怖気を感じ取って、輝虎は咄嗟に後ろに飛び退いた。


自分でも無意識のうちの回避行動に、輝虎は自分自身に驚いた。

この後に及んで、まだ恐怖を感じることがあるのかと。


そんな彼の目の前で、双子の弟がゆっくりと立ち上がっていく。

先程までとは何もかもが違う、空気がひりつくような威圧感を放つ影虎。


すると彼は矛を投げ捨てると、腰に差した刀に手をかける。


普段は手入れのみで実戦では五年ぶりに握る愛刀は、ずっと彼を待っていたかのようにすっと手に馴染んだ。


「……約束を、思い出したよ。輝虎。…俺はお前を救う」


一瞬何を言われたのか分からずフリーズする輝虎だったが、その言葉の意味を理解するや否や堰を切ったように笑い出す。


ひとしきり大笑いした彼は、狂気の炎を宿した灼眼を見開き吐き捨てるように言った。


「…何言ってるか分かんねえよ、死に体が」








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