第弍部 第三話 がらんどう
稀代の明君、大友宗麟討ち死に。
その超ビッグニュースによって、その後はもはや会談どころではなくなったところで日が落ち始めてしまった。
そこで、戦後処理はまた日を置いて執り行われることとなった。
しかし今から馬で自国に戻るのも危ないということで、輝虎ら当事者たちは清房城内の異なった階に、憲政とその従者は近くの寺社を借りて宿にするということで話はまとまった。
その夜のことである。
城内の誰もが寝静まり、時刻は草木も眠る丑三つ時。
輝虎は1人行燈を提げながら、そさくさと清房城を後にした。
無論、衛兵の常駐する正門からではなく外側の壁を乗り越えて、である。
向かった先は、憲政が宿泊している善光寺本堂。
一礼して中に入った彼を待っていたのは、僅かな蝋燭の明かりのみを灯しながら、御本尊に向けて合掌している憲政の姿。
「…憲政様、このような深夜になってしまい申し訳ありません」
その声に振り返った憲政は、懐から何かの巻物を取り出す。
取り出されたそれは、大まかな国の配置が記された、この時代にしてはかなり精巧な日本地図。
その地図を開きながら、憲政は言う。
「儂こそ、こんな時間を指定してすまないの、輝虎。……では始めようか——天下の話を」
何やら手元の地図を指差し合いながら議論を交わし始める2人を、ほんの少し開いた扉の隙間から覗き見る者が1人。
輝虎の腹心、直江兼続である。
主が突然、護衛の1人もつけずこのような深夜に外出していったのだ。
臣下として黙って見過ごすわけにも、声をかけてワケを問い詰めるわけにもいかなくなった彼は、わずかな灯りと脇差のみを持って後を尾けて行ったのであった。
しかし、輝虎が待ち合わせていた相手が憲政だったと分かると。
どこぞの娼婦との密会という訳でもなさそうだし、もう帰ろうか……いや、やはり夜道は危ないし話し合いが終わるまでここにいよう。その過程であの2人の話し合いが聞こえてしまっても不可抗力だ。俺は悪くない!
ここまで一秒足らずで思考をまとめた兼続だったが、次の瞬間にはもう開き直ったのかべったりと隙間に耳を付けて、本堂内の会話を盗み聞きし始めた。
「この数年、各国で間者に対する警戒が強まっている傾向がありますね」
「その通りじゃな。そしてその内、もともと力が強かった武田と今川はまだしも、弱小国と言える尾張や三河、領地は大きいが目立った将はもういないはずの陸奥までもが、急激に内部の情報統制を始めておる。信濃から忍び込ませた間者も、そのあおりを受けて尽く消されているようじゃ」
「尾張に三河……織田と、徳川ですか。それに、……伊達氏の陸奥」
輝虎のその言葉に、兼続もハッとする。
伊達氏の陸奥国といえば、影虎様が婿養子に出された東の大国である。
しかし影虎様の起こした反乱の最中、陸奥国第一将として名を轟かせていた片倉景綱が義道様との一騎討ちの末に討ち取られると、その後陸奥の武威は大きく失墜。
それ以降目立った将の台頭もなく、陸奥が内部分裂するのも時間の問題と思われていた。
そんな陸奥に、今さら情報封鎖が?
恐らく輝虎も同じ疑問を抱いたのだろう、思案するように眼帯に手を当てて黙り込む輝虎を見た憲政は、衝撃の一言を口にした。
「輝虎よ、儂ももう六十六じゃ。そろそろ関東管領と国の主、その二足の草鞋を誰かに譲るときがきておる。……そして儂は、その両方をそなたに譲ろうと考えておるのだ」
これには思わず砂利を大きく踏み締めてしまった兼続だったが、それ以上に輝虎が動揺していたおかげでなんとかことなきを得た。
「いや、その、なんというか……憲政様、その件は一度正式な場での話し合いを致しましょう。それに、前にも申し上げたように私は——」
「天下統一を、まだ目指すか」
あえて輝虎の発言を待たずして言葉を挟んだ憲政の表情は、今までの柔和なものとは一転して厳しいものとなった。
この憲政の言葉を聞いていた外の兼続はこれにも大いに動揺した。
天下統一。口で言うのは簡単だが、そのためには日の本に散らばる何十という国々を滅ぼさなくてはならない。
秦の始皇帝然り、これに取り掛かることはつまり、日の本全土を舞台とした大殺戮を行うことと等しい。
前々から主の野望は聞いていたが、まさか養父である憲政様にまで伝わっているとは思いもしなかった。
「お主は、死んだ人間の想いに取り憑かれておる。それを、今日お主に会った時に確信した。……5年前から何も変わっておらぬ。その目は、屍人のそれじゃ」
「……俺は!…私は、自分の意思で選択しているのです、憲政様。…影虎は、あの日死にましたから」
本当に珍しく、取り乱す輝虎。
ほんの僅かな隙間だったが、そこから見ただけでも兼続には分かった。
輝虎の右眼は、いつも煮え滾るような闘志で満ちていた。
しかし今の輝虎の瞳は、見ているこちらがゾッとするようながらんどうの瞳。
吸い込まれるような、虚無がこちらを覗くのみ。
2人の言葉が意味しているもの、その本当のところはきっと、当事者でもない兼続に理解できるようなものではないのだろう。
だがしかし。
もし憲政様の言うように、輝虎様が本心では天下統一など望んでおらず、——いやそれどころか、戦うこと自体あのお方の真意では無かったのだとしたら。
この戦乱の世に生まれ、一国の主となる義務を。
戦いの天賦の才を。戦うことへの宿命を与えられ。
あのお方は、全てを諦めてしまったのではないか。
父を殺され、弟を殺し、全てを無くしてもなお戦い続けなければならない己の運命を。
そんなことがあるか。
そんな、残酷な事が。
2人の会話はそれ以降なく、輝虎が席を立ったことによって話し合いはそこで終わりとなった。
来るとき同様、輝虎のあとをこっそりと追って城に戻った兼続だったが、その後はほとんど眠れず夜を明かしてしまった。
輝虎たちが起きて来るとすでに憲政ら一行の姿はなく、住職の話によれば、朝の禅行に参加したのちすぐに帰って行ったのだと言う。
それについて輝虎は何も言うことなく、ぼんやりとした空気のまま越後一行は帰路についた。
それから数日、兼続は輝虎と話す機会を伺いながら過ごすも双方ともに忙しく、なかなかタイミングを掴めないまま悶々とした日々を過ごしていた。
しかし会談の日からちょうど一週間が経過した日のこと、輝虎が一人で自室へと入っていくのを目にした兼続は決心する。
あの日の二人の会話、その詳細を聞き出してみようと。
「輝虎様、お休み中失礼いたします。…少しお話ししたいことが」
「珍しいな、兼続。どうした」
しかし内容が内容だ。切り出し辛い様子の兼続を不思議そうに見つめる輝虎だったが、ついに兼続は重い口を開いた。
「そのっ、実は俺あの夜——」
「てっ、輝虎様ッ!!たった今、信濃の上杉様から書簡が…!」
兼続の一大決心を盛大に踏み躙るようなその伝者の登場に、思わず兼続は頭を抱えた。
しかしこの慌てようは、恐らく普通の連絡などではない。何かもっと、信濃の上杉公にとっての緊急事態が起きたのだ。
「…読み上げろ」
同じく事態の重さを察した輝虎が、続きを促す。
すると伝者は冬だというのに滝のような汗をかきながら、震える声で書簡の中身を読み上げ始めた。
「……昨夜未明。甲斐の武田、尾張の織田、そして正体不明のもう一軍の、さ……三国が信濃との国境を破って侵入。一部連携をとりながら、今現在も上田城を目指して侵攻中とのこと…!!」
それを聞いた二人の脳が、そのとてつもない報告の内容を理解するのに十数秒を要した。
そんなバカな。そんなもの、まるで。
「輝虎様…これはまさか」
震える声で、輝虎は答える。
「…ああ。三国による同盟……信濃を滅ぼす為の…大侵略戦争だ……ッッ!!」
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