第5話 進路指導調査票

 昇降口に辿り着いた頃には、文則は汗だくになっていた。それもこれも、トロトロと歩くアメリアを必死で引っ張ってきたからである。五月とはいえ、太陽の昇っている時間帯に全力疾走をすれば、こうなるのも当たり前である。


 なのに、同じように走ってきたはずのアメリアは涼しい顔だ。汗ひとつかいていない。白磁の肌はさらりとしていて、今も全身から吹き出してくる汗でベタついている文則とは大違いだ。


「なんで汗掻いてないんだよ、お前……」

「汗は出し入れできるもの。今は出してないだけよ」

「そんな機能が人間にあってたまるか!」

「訓練すれば誰でもできるわ」


 淡々とした口調でそう言うアメリアだが、にわかには信じがたい話であった。


「ふぁ……」


 と、そこでアメリアが、今日何度目かになるあくびを漏らす。顔を見れば、無表情に見えて、目元の辺りは少しとろんとしているようだった。


「ちょっと眠いのか?」

「そんなことないわ」

「でも今、あくびしてたろ?」

「だって、ものすごく眠いもの」


 そう言いながら、アメリアの首はふらふらと危なっかしく揺らいでいる。


「……昨日も遅くまで、台本読んでたのか?」

「宗助が寝かせてくれなくて……」


 宗助というのは、来期に放映される将棋青春アニメのライバルキャラだ。


 主人公は、「天才棋士」と呼ばれた高校生のプロ棋士。その躍進ぶりに世間からも注目を集めているが、そんな彼の前に立ちはだかる名人が宗助なのである。

 原作の漫画なら、文則も見たことがある。生憎、文則は将棋に明るくはない。なのに、その対局の白熱ぶりには、魅せられるものがあると感じた。


 さらには、盤外で繰り広げられる人間ドラマが繊細かつ刺激的で、気づけばキャラの名前を覚えさせられて・・・・・・・しまっている。「将棋かー……興味とか別にないんだけどなー……」とか思いながら読み始めたはずなのに、気づけばルールを、駒の動かし方を、戦術を覚えている。


 実際、この漫画が有名になってから明星高校でも将棋部の入部者数が増えたほどらしい。身近なところで漫画の影響力というものを感じて、文則もその時は驚きを覚えた。


 そんな、大ヒットを飛ばした将棋漫画の主人公こそが、今度アメリアが声優として声を当てるキャラクターなのである。


「宗助はね、きっととても真面目で、誰に対しても真摯で……だから融通がきかなくて孤独な人だと思うの」


 キャラクターについて語る時、アメリアは普段よりも少し饒舌になる。


「そんな彼に対して、はじめはなにを思うのかしら」


 深く、深く、文則の隣で思考の底へと沈んでいく。


「肇は親の愛を知らないわ」


 とろんとしていた眠たげな瞳も、いつの間にかしっかりと開いていて、その奥に理知の光を宿している。


「だけど、師の厳しさと、その愛は知っている」


 肇――その主人公は、親から捨てられながらも、将棋界の重鎮に育てられ、棋士としての英才教育を受ける。


「だからきっと、宗助の思い描く完成形は、棋士としてのそれに他ならない。だからこそ宗助は、肇を見て、そこに理想を重ねるはずだわ。憧れの憧れの、さらに憧れの先にいる人。――だから理解にはほど遠い」


 それから、ぺろりと――アメリアが舌先で唇を舐める。その、獰猛な表情に、文則はゾクリと背筋が震えた。


「ああ、本当に……宗助さんを見ていると、悔しくて、歯痒くて、僕は無性に叫びだしたくなってしま――えうっ」

「そろそろ予鈴が鳴るだろうが。そこまでにして、さっさと教室行くぞ」

「……文則、ひどいわ」


 頭を押さえたアメリアが、拗ねた目つきで文則を見上げる。その表情からは先ほどまでの獰猛さは消え失せていて、どこかぼんやりとした表情に戻っている。


 そのことに、文則は安堵した。入っている・・・・・時のアメリアは、あまりにも存在が遠く感じてしまうから。


「役作りもいいけど、ほどほどにな。そんじゃ、俺はこっちだから」

「うん」

「放課後、またな」

「そうね」


 明星高校には普通科の他に、芸術科と芸能科がある。アメリアは芸能科、文則は普通科のクラスに通っているため、昇降口を上がったところで別々となるのだ。


 背中を向け去っていくアメリアを見送ったところで、文則は自分の胸に手を当てる。


「……っ、くそ」


 心臓は、まだバクバクと鳴っていた。


「なに、動揺してんだよ、俺」


 無理やり余裕ぶってそんなことを言ってみても、体の反応は正直だ。二、三度軽く深呼吸して、ようやく胸を落ち着ける。


 それから、普通科にある自分のクラス、二年四組の教室へと向かった。

 そして辿り着いた教室に入ろうとしたところで。


「おう、いたいた。柿井! 今、ちょっといいか?」


 と、肉達磨のような教師に声をかけられる。進路指導担当の、鵠沼くげぬま正臣まさおみ、通称『ゴリ公』だ。学生時代は柔道の強化選手に選ばれたこともあって、縦にも横にも大きな体をしているが、その性格はむしろ気さくで、いたって温厚。しかしやや暑苦しいところがあって鬱陶しい、と一部生徒にはやや不評。


 文則は、その一部生徒側だった。


「……今、予鈴前なんですけど」

「おう。だから手短にパパっとな!」


 言外に、「あとにしてください」という意味を込めたつもりだったが、見事にスルーされてしまう。


「お前さ。本当に、これで提出しちゃっていいのか? もったいないぞ、せっかくこっちまで出てきたのに」


 と言ってゴリ公が取り出したのは、進路指導調査票だった。四月の頭に配られて、文則も書いて提出したやつだ。


 その時文則は、高校卒業後の進路の第一希望として、『地元で就職』と書き込んだ。目標も、やりたいことも特になく、進学することに意味を見出せなかったからだ。

 そのことは以前にも鵠沼にも伝えたはずなのだが……。


「まあ、なんだ。お前の人生だから、あんまり差し出がましいことを言うつもりもないんだけどな? せっかく地元離れてこんなとこまで来てるんだし、もっと色んなことに体当たりでぶつかってみてもいいんじゃないかとおれは思うぞ」

「でも、両親の知り合いの工務店で卒業後は働かせてもらえることになってるので……」


 それも正社員待遇でだ。相手も文則のことを昔から知ってくれていて、その気安さもあって採用の約束をしてくれたのだろう。


 形式的な書類の提出や面接などはあるだろうが、ほとんど確定だと考えていいだろう。不況だの就職難だのといったこのご時勢では、ありがたい話だ。


 だが、鵠沼は文則の言葉に渋い顔つきになった。


「自分の未来まで親に頼るのも、おれはどうかと思うけどな」


 そう言いながら、紙を一枚、押し付けてくる。


「お前だけ、進路指導調査、再提出な。――っと、予鈴が鳴ったか。それじゃ、今日も一日頑張れよ!」


 鵠沼はニカっと男臭い笑顔でそう告げると、背中を向けて廊下を去っていく。


 教室に入った文則は、押し付けられた紙を見下ろしながらため息をついた。


 ――駄作ね。ゴミを増やすのはやめてちょうだい。


 と、切って捨てられた時の絶望を、文則は今でもはっきりと覚えていた。


「……こんなもの」


 進路指導調査票をくしゃくしゃに丸めて、教室のゴミ箱に捨てようとする。だけどその決心がつかずに、結局文則は自分の机へと戻り、引き出しの奥に紙を押し込んだ。

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