第1話 柿井文則の朝

 柿井かきい文則ふみのりの朝は早い。


 まぶたを開くと、カーテンから差し込んでくる朝の光が目に入ってくる。少し遅れて鳴り響くのは、スマホのアラームだ。画面の表示している時刻は、朝の六時。このアパートに引っ越してきてから、朝早く起きることに、体はもうすっかり慣れてしまった。


「……なんつーか、あれだな」


 アラームを止めながら、もう何度も思ったことを口に出して文則は呟く。


「運動部でもないのに朝が早いって、じーさんかよ」


 健全な高校二年生というものは、もう少しギリギリまでベッドにしがみついているものではなかろうか。

 そんなことを思いつつ、今さら二度寝ができるわけもないことを文則は知っている。そんなことをしていたら、確実に学校に遅れるからだ。


 なんせ、このあとには大仕事が控えている。


 朝の難敵。

 睡魔の権化。


 ねぼすけ姫を起こすという、『お世話係』のミッションが、叔母と取り交わした家賃免除の条件なわけで。


「……ったく。面倒だ」


 そうボヤきつつも、仕事はこなさないわけにはいかないだろう。


 まだ少しだけ重たい頭を抱えて制服に着替えると、文則は自身の現在の住居である102号室を出て、『ハイツ柿ノ木』のラウンジへと移動する。


『ハイツ柿ノ木』には、住民共用のラウンジ(ダイニングのようなものだ)が備え付けられており、この建物に住む住人なら誰でも使うことができる。冷蔵庫やコンロ、電子レンジなど、基本的な家事・炊事の道具も揃っており、おまけにすぐ隣には風呂までついている贅沢な仕様だ。


 そのラウンジのキッチンで、とりあえず目玉焼きに焼いたベーコンという朝食を二人分・・・用意すると、トーストを二枚トースターに突っ込んで、文則は自分の隣の部屋である101号室へと向かう。

 そして、合鍵を使って鍵を開け……ようとしたのだが。


「……開けっ放しかよ。不用心だから鍵はかけろって、いつもあんだけ言ってんのに」


 舌打ち交じりに文句をこぼすと、その部屋の扉を開放して、中へと入った。

 そうして上がった室内の様子を、端的に還元するとするなら、荒れ放題に荒れていた・・・・・・・・・・


 床にはページが開いたまま散乱している冊子の数々がこれでもかと言わんばかりに積み上がっていて、服や下着もタンスごとひっくり返されたかのように直接床にぶちまけられている。

 部屋の端にある点けっぱなしのモニターに映っているのは、映画のエンドクレジット。


 まるで、強盗にでも入られたかのような有様だ。鍵も開けっ放しであったし、これが初見ならまず犯罪や空き巣の可能性を文則も疑ったことだろう。


 だけど、一年もすればいい加減にもう慣れた・・・・・

 今は部屋の中にはいない……いや、いないように見える彼女の悪癖なのだ、これは。

 荒れ放題に荒れている、そんな部屋の片隅にこんもりと積み上がった白い物体。


「また今日もか……」


 足の踏み場を慎重に確保しつつ、文則はその白い物体……シーツの塊へとおそるおそる近づいていく。

 そして手を伸ばし、シーツを取り払おうとすると、それは意外に強い力で抵抗を示した。


「く……このっ」


 力を込めて引っ張っても、なかなかその抵抗は止まない。


「いい加減にしろ! 無駄な抵抗はやめるんだ、アメリア!」


 ちょっと燃える感じの言い回しでそんなセリフを口にしながら、文則は思いっきりシーツを取り払う。

 そして、白い覆いの下から現れたのは……桜色の妖精だった。茶髪と赤毛が混ざったような、独特の髪の色合いが、ちょうど桜色に見えるのだ。

 肌は白い。透き通るほどに、白い。絵具で塗っても、ここまで透明な白さにはならないだろうというほどだ。

 体躯は、全体的に小作りだ。だが、よく整っている。まるでアイドルや芸能人のようだ。


 というか、実際に彼女、アメリア・エーデルワイスは芸能人だ。

 それも、ただの芸能人ではない。元・ハリウッドで天才子役として名前を馳せたこともある女優で、今では日本でプロの声優として活動している女の子。


 そんな、文則からしてみれば殿上人とでも言うべき相手が、なんの変哲もないアパートであるこの『ハイツ柿ノ木』の101号室の住民などである。


「おい、アメリア! 朝だぞ、起きろ!」


 だが、そんな凄まじい経歴を持つ相手に対して、文則はまるで容赦がない。

 肩を掴んで、まだ眠っているアメリアの体をかなり強烈に揺さぶっている。


 しかし。


「すぴー……」

「おい、アメリアってば!」

「くー……くぅぅぅ……」

「寝息で返事するな!」

「ZZZZZZZZZ……」

「幸せそうにむにゃむにゃすんな!」


 めちゃくちゃ肩を揺さぶられても、アメリアはまるで起きる様子がない。

 それどころか、奪われたシーツを求めてさまよった腕が、文則の制服の胸元をわっしと掴む。そしてそれを引き寄せたかと思うと、文則の胸元に顔を埋める形でふにゃっととろけそうな笑みを浮かべていた。


 その表情に、文則もさすがにドキリとする。とんでもない美少女が、とんでもなく無防備な姿で、とんでもなく愛らしい寝顔を目の前で浮かべているのだ。男ならドキドキしないわけがない。

 試される理性。これもう手を出しても俺悪くないよね? とか、悪魔もささやきかけてくる。


「……って、ダメだろ」


 悪魔にそう突っ込み返しつつ、文則はアメリアの体を引きはがす。


 そして――。


「ていやっ」

「えうっ」


 額にぶちかまされる手刀。

 妙な悲鳴を上げたアメリアが、まだとろんとしている表情で目を覚ました。


「…………文則がいる」

「起きたか?」

「さっき火炙りにされてたのに、生きてる……」

「それは夢だ。こっちが現実だ。起きたなら学校へ行く準備するぞ」

「でも大丈夫、あなたの死はアタシが背負うから……」

「んなもん背負うな! そして俺を殺すな!」

「あなたは生き続けるわ……アタシの胸の中で、永遠に……」

「お前はそろそろ、現実を生きろ!」


 文則の言葉を無視して、アメリアが再びまぶたを閉じようとする。夢の中に居場所でも見つけたのだろうか? その世界ではどうやら、文則は火炙りにされてしまっているらしいが……。


「あーもう、なんでもいいからとにかく起きろ! そんなんじゃお前、留年とかしちゃうぞ! 恥ずかしいぞ、そうなったら!」


 そう言いながら、再びアメリアの額に手刀を食らわせる。そうして無理やり彼女の意識を現実へと引き戻し、なんとか立ち上がらせたところで……。


「おまっ、ちょ……それは……」

「……えう?」

「えう? じゃねーよ! なんでシャツしか羽織ってないんだよ!」

「台本、読んでて……」

「おう」

「とりあえず服を引っ張り出して……」

「……はい?」

「でも、途中で面倒になって……」

「なるなよ」

「そしたら、気づいたら、文則が火炙りにされてたの」

「炙るな」


 わけの分からん理由を語られ、朝からどっと疲れる文則。『お世話係』に任じられてから一年が経つが、未だに彼女の言動を理解することはできていなかった。


「とにかく……ちゃんと着替えろよ。そんなんじゃ目の毒だぞ」


 アメリアに背中を向けつつそう告げる。


「ん……」


 うなずいた気配。それから、ごそごそと着替えるような音が後ろから聞こえてきた。

 やがて、音が収まったかと思うと。


「終わったわ」


 と、アメリアが報告してくる。


「おう、じゃあ……って、終わってないじゃねえか!」


 振り返ると、そこにいたのは、というよりあったのは、再びこんもりと山を作ったシーツの塊。

 アメリアの声は、その塊の内側から聞こえてきていた。


「これなら目の毒じゃないわ」

「そういう問題じゃねえ! その姿で学校に行くつもりかよ!」

「文則はバカね。こんな格好で外に出たりするわけないじゃない」

「どうして俺が常識を問われてるんだよ! パンツ穿いて、制服に着替えて、学校に行ける準備をしろって言ってんだ!」

「どうして?」


 白い塊がかすかに動く。シーツの内側で、アメリアが首でも傾げたのかもしれない。


「俺とお前は学生で、今日は平日で、今が登校前の時間だからだよ!」

「……正しいことを言われたら頭痛がしてきたわ。だから今日は自主休講」

「正しいって分かってんなら弁えろ! それに、親と約束したんだろ。せめて高校だけは出るって」


 文則がそう言うと、シーツの隙間からアメリアが顔を出す。いたく不満を覚えているらしく、しかつめらしい顔つきであった。


 それでも渋々と、「分かったわ」と呟いたアメリアは、ごそごそとシーツから這い出してくる。


「わーっ! お前、人の目を考えろ!」


 シャツがまくれあがっていて、下半身が丸見えだった。


「文則しかいないわ。平気よ」

「俺の目も気にしろって言ってんだ!」


 そう叫ぶ文則を、ぽやっとした表情でアメリアは見上げ、


「普通の目ね」


 と、寸評を言葉にしてくれる。


「そういう意味じゃねえ!」

「穿かせて」


 そう言って、アメリアが尻を床につけたまま、しなやかな足を伸ばしてくる。


「コンプライアンス!」


 太ももの付け根が視界に入る前に、そう叫びながら文則は再びアメリアに背中を向ける。


「文則。パンツ……」

「自分で穿けよそれぐらい!」

「なら、仕方ないわね。パンツはいいわ」

「良くねえ!」

「だって、文則がしてくれないんだもの」

「言い方ァー! っていうか、お前、そのな、いい加減パンツぐらい自分で穿けるようになれよ!」

「文則の言うこと、ときどきよく分からない」

「俺、間違ったこと言ってないつもりなんですけど!?」


 そう言い返しながらも、文則は仕方なく床に這いつくばってパンツを探す。

 そしてようやく探り当てたパンツを手に、座っているアメリアへとそっと近づいていった。


「あのな。お前、自分で穿くって選択肢は……」

「ないわ」

「あるだろ! いや、頼むからあってくれ!」

「早く」


 そんな風に言いながら、ちょんちょんとつま先でアメリアが文則の膝の辺りを突っついてくる。そんな彼女の仕草もいちいち心臓に悪かった。


「くそ……なんだって、こんなことに……」


 アメリアの肌をなるべく視界に入れないように気をつけながら、彼女の足にするするとパンツを通していく。


 もう一年以上もアメリアにパンツを穿かせているのに、未だに心臓はこの行為に慣れてはくれていない。なんだか、悪いことをしているような気持ちになってしまうのだ。


「ふう……ほら、穿かせたぞ」

「なら上もよ」

「……おい」

「ブラジャーもつけて」

「おいいいぃぃぃぃぃ!?」


 勘弁してくれ! と思わず叫び出したくなる。ここに訪れてから、毎日こんなことばっかりだ。


 いつ、理性が焼き切れてもおかしくない。毎朝、自制心を試されているようなものだ。


「お前な、俺だって男だぞ! ほんと、いい加減にしろよ!」

「なにが?」

「なにが? じゃ、ねぇぇぇぇぇ!!」


 ――こんなことになっているきっかけは、そう。1年と少し前のこと。


 ――このアパートの管理人である叔母と交わした『家賃免除』の約束。


 それこそがまさに、この女優で声優でぐうたら社会生活不適合者な眠り姫、アメリア・エーデルワイスの『お世話係』をすることなのであった。

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