第二章 輪廻草と大樹の蜜 その五

 紫電樹の町は、元々紫電の大樹と呼ばれる大和で最も小さい二十メートル程の大樹に人々が寄り添ってできた村だ。時を経るにつれ、大樹の恩恵にあずかろうと人の出入りが増えて今では大和で最も栄える町の一つとなった。

 大樹を囲むように作られた円形の町には、現在三万もの民が暮らし、各地から旅行者や商売人が足を運んでくる。地面は石畳で舗装され、建物も木造ではなく石や煉瓦の造りが主だ。

 紫電樹は松によく似た大樹で、金属質の樹皮と葉を持ち、落雷を寄せて電気を蓄える習性がある。紫電樹が蓄えた膨大な電気を利用して町民は暮らしており、大樹から家々に電気を届けるための電線が人々の頭上を網の目状に走っていた。


 学者曰く紫電樹の町は、現在の大和で最も過去の文明に近い暮らしをしている町らしい。ただし以前の文明が膨大な電力をどのようにして捻出していたのかは謎に包まれている。

 秋雨の住む塔から二日かけて紬とヒスイは紫電樹に辿り着いた。ちょうど昼時である。

 初めて見る栄えた町並みと行き交う人々に、紬の目は新しいおもちゃを得た幼子のように輝いている。

 ヒスイは茶色い粒を一つ齧りながら一軒の定食屋に目を止めた。三階建ての煉瓦造りの建物の一階部分で営業されており、二階と三階は居酒屋になっている。


「紬、腹は減ったかね?」


 定食屋を指差しながらヒスイが尋ねてくる。

 紫電樹に着くまで二日間も歩き通しだったし、道中口にしたのは木の実や保存食の魚の干物ばかり。本音を言えば足を休めたいし、まともな食事をたらふく腹に詰め込みたい。食事処なんて故郷の村にはなかったものだから、一度でいいから入ってみたくもある。

 しかし紬は、ヒスイにとって足手まといの自覚があった。蔦虫の一件では、忠告を無視して迷惑をかけ、日々の食事もヒスイは自分よりも紬の分を多くしてくれている。

 だから紬もなるべく食べる量を減らし、疲れてもわがままを言うことは我慢した。やせ我慢も限界に近いが、今更曲げて甘えてしまうのもはばかられた。


「少しだけ、空いてますが……」

「遠慮しなくていいさね。疲れてもいるだろう?」

「本当に大丈夫です」

「紬」


 名前を呼ぶヒスイの声は、硬い響きだった。


「大事なことだ。正直に話してくれ」


 諌めるように。諭すように。

 本音を言わない方が却ってヒスイの迷惑になる気がした。


「すごく……空いています」

「そうかね」


 紬が白状した途端、ヒスイがいつも通りの飄々とした声音に戻っていた。


「仕事は、飯を食ってからにしようかね」


 ヒスイが定食屋の紫檀でできた扉を開けると、空腹をあおる良い香りがふわりと紬の鼻をくすぐった。煮詰まった醤油や魚の焼けた油の匂い。他にも嗅いだことのない多様な匂いが混ざり合って嗅げば嗅ぐだけ腹が空いていく。

 店内は三十程のテーブルがあり、半分が既に埋まっている。

 天井には電灯の明かりが灯っており、紬にとって初めて見る、人が作り上げた光だ。


「いらっしゃい!」


 小袖と袴姿の若い女性の店員が活気のある声で出迎えると、ヒスイは窓際の席を指差した。


「あそこ、いいかね?」

「どうぞ!」


 店員の了解を待ってからヒスイと紬は、窓際のテーブルに着いた。

 テーブルという家具を紬は本の挿絵でしか知らず、直に見るのは初めてだ。

 好奇心に任せて表面を撫で回す。すべすべとした手触りは、いつまでも触っていられそうだ。


「さてと、何を食べるかね」


 ヒスイがテーブルの上に置かれていた品書きを見せてくる。数枚の厚紙を紐でまとめてあり、料理の名前の下に絵が描かれていた。一番品数が多いのは卵料理で、次いで魚料理だ。

 現在の大和では、以前の文明のように獣肉の類は殆ど口にしない。

 獣の狩りは禁じられているし、人が獣肉を口にできるのは寿命による死期を悟った獣が自らの肉を他の生き物の糧となるように捧げた時ぐらいだ。この時も病であれば、他の生き物へ病を広げないため、肉を提供せず人に頼んで亡骸を焼いて処理してもらう。

 海で捕れる魚は獣と違い、言葉を発することもなく知恵も発達しなかったため、以前の文明同様食されている。海にまでは大樹の影響もなく恩恵にもあずかれないため、獣のように変じなかったのではないか、と言われている。


 川魚に関しては生涯を川で終える魚に限って獣と同様に人語を操るが、通し回遊を行う魚についてはこの限りではない。そのため人は通し回遊を行わない川魚は食さず、それ以外の魚全般を食する。

 卵に関しては鳥にとって孵化しない無精卵は価値がなく、人の育てる作物との交換に使えるため、実質的な貨幣としての扱いである。人からすれば天候や海の状態で不漁になることもある魚より、鳥たちから安定的に供給される卵が主要なタンパク源となっていた。


「紬。どれがいい?」


 紬は即答できなかった。

 卵だけでも卵焼き・オムレツ・目玉焼き・野菜と煎り卵の炒めものなどあるし、魚も単なる塩焼きから蒸したり揚げたり、村では口にすることのできなかった調理法が並んでいる。


「少し考えてもいいですか?」

「ごゆっくり」


 ヒスイから品書きを受け取って凝視する。どちらかと言えば魚よりも卵が好みだ。特に母親のすずが作ってくれた甘い卵焼きは大好物である。とは言え、天ぷらや洋食のムニエルも本で読んだだけで一度も食べたことがないから捨てがたい。


「どれにしようかな……」

「二つ注文したらどうだね?」


 ヒスイからの魅力的な提案になびきそうになる。

 だが紬も年頃だ。食べた分はきっちり体形に反映されることを思い知っている。


「さ、さすがに。それは、太るので」

「若いんだから、気にせずいくらでも食べればいいさね」

「誘惑しないでください……屈しそうになるので……」

「では、一つに絞らんとなぁ」


 卵焼きは大好物だが、食べたことのある美味より、食べたことのない美味への好奇心が紬の中で勝っていた。


「じゃ、じゃあ……天ぷら定食を」

「俺もそれにしよう。天ぷら定食二つ」

「はい!」


 店員の活気の良い声で一層期待感が増していく。

 一度も食べたことのない料理への渇望は精霊成りとなっても消えないらしい。

 まだかまだかと待つ時間は一分であっても長く感じられた。


「まだですかね?」

「揚げ物は時間がかかるからなぁ」


 五分待ってもまだ来ない。


「まだですかね?」

「うまいもんを作るのは、時間がかかるもんさね」


 七分が過ぎ。


「まだ……」

「そうさね」


 十分が経ち。


「まだ――」

「お待ちどうさま! 天ぷら定食です!」


 店員の声と共に、本の挿絵でしか知らなかった料理の乗った盆が目の前に置かれる。

 紬の手では少々持て余す丼にこんもりと白飯が盛られ、油取り紙の敷かれた皿の上には海老・鱚・穴子の天ぷらが一尾ずつと、あとは舞茸・獅子唐・茄子の天ぷらが一つずつ。

 黄金色の衣から香ばしい匂いが湯気にくるまれて立ち上り、紬の食欲を堪えがたくあおった。

 他にも天ぷら用のつゆが入った小鉢があり、汁物は豆腐とわかめの味噌汁で、箸休めに瓜の漬物がついている。


「おいしそう……」

「普段は俺もあまり喰わんが、うまいぞ」

「では……頂きます!」


 まず紬が箸を伸ばしたのは海老だ。つゆにつけてから身の半分程まで一気に齧ると衣がさくりと解け、弾力のある紅白模様の身から旨みと油が混じり合って口の中に広がった。


「おいしい!」


 残った海老を平らげて、次に鱚を頬張った。こちらも衣の心地良い食感と鱚のほろりとした身が合わさり、心地良さすら覚える。まだ口の中に残っている風味を追いかけるように飯をかっ込んだ。


「ご飯に合う……ヒスイ様、この土地と私の相性はどうなんでしょうか?」

「相性?」

「私ここに住みたいです! ご飯がおいしい!」

「お、お前さん意外と食い意地が張ってるな」

「そんなことありません! この天ぷらを食べたら誰だってこの町を安住の地にしたいと考えるはずです!」

「そうかね……まぁ、ここはあまり向いとらんかもしれんさね」

「え!? そうなんですか!?」

「人が多いということは、自然が平静を保つのが難しいということさね。人とは自然を変えずに生きていけるモノではない。獣や精霊とはそこで一線を画す」

「人が多くいるだけで自然の平静が崩れるということですか?」

「そういうことさね。良きにつけ悪しきにつけ、人はいるだけで場を変えてしまうものだ」

「残念です……」


 そうなると今後天ぷらを食する機会は多くなさそうだ。

 すっかり萎れてしまった紬を見かねてか、ヒスイは自分の皿に乗っていた海老と鱚のてんぷらを箸でつまみ、紬の皿に置いた。


「ただ、すぐにどうこうってもんでもない。とにかく今はうまい飯を堪能することさね」

「……はい! そうします!」


 気を取り直して、紬は天ぷらと飯を交互に口に運んだ。飯が虚穴にでも吸い込まれるように進んでしまう。どんぶり飯を見た時、食べ切れないかもと不安を覚えたが、杞憂に終わることを確信した。

 育ち盛りの男児のように天ぷらを食べ進める紬を眺めるヒスイの笑みは嬉々としている。


「たくさん食べな」


 紬に聞こえるか聞こえないかの声量で呟き、ヒスイは穴子に箸を付けた。

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