第17話 起結


 真安の腕の中で、上月はかつてない安らぎを感じていた。

 長い間、塞き止めていた涙が瞳から零れ落ちる度、一つ、また一つと背負っていた苦しみや、辛さがはらはらとそぎ落ちていく。

 腕にかかる男の力は、少々痛いくらいだが、逆に自分をこの時間、この空間に繋ぎとめていてくれるような気がした。


(暖かい……)


 今まで己の五感が感じてきた温もりというものは、実は違うものだったのではないか。

 そう思えるほどに心地よく、上月はうっとりと目を閉じる。

 それを最後に、上月の泣き顔は微笑みへと転じた。

 もう、冷たい涙はこぼれない。


「上月……、すまなかったな」


 その様子を察したのか、黙して上月を抱きしめていた真安がつぶやいた。

 低い、よく通る声が、上月の耳元に熱い息と共にかかる。


「俺がもっと早くに来れば、お前をあんな目に合わせることもなかったろうに」


「いや……。来てくれただけで……、その……、嬉しい…‥」


 真安の胸に額をつけたまま、もじもじと上月は答えた。

 そんな上月の頭を優しくなでながら、真安は更に己の指に女の髪を絡みつけた。


「俺が何をしに来たのかは、聞かないのか?」


 静かではあるが、いつもの悪戯味を帯びた真安の声。

 上月は真安の胸に頬を擦り付けた。


「……もう、どうでもいい。お前が最期に来てくれた。

 それだけで、私はもう満足だ」


 真安が祭殿に現れた理由。それを聞きたくないと言えば嘘になる。

 しかし、聞くのが怖い。真安の口から、直接その理由を聞くのがとても不安だ。

 それならば。

 いっそのことこのまま最後の時間を過ごしたい。

 自分が果てるその時まで。


「馬鹿野郎!」


 言うなり真安は強い力で上月の肩を掴み、顔を上げさせた。


「何寝ぼけたこと言ってやがる!

 俺はそんな馬鹿な奴を、助けにきたわけじゃねぇ!」


「……っ!」


 己の両腕にかかる強い力以上に、真安の真剣な表情。

 上月はその両の瞳に射抜かれ、金縛りにあったように真安の顔をみつめた。


「俺はこれを今生の別れになんてする気は、ねぇぞ。

 お前が死ぬのも、今のお前が消えることも許さねぇ。

 お前は俺のもんだ。俺もお前のもんだ。

 運命にも神様とやらにも、誰にもやらねぇ……」


「真安……。……んっ!」


 開きかけた口が何かで突然塞がれた。

 視界が暗くなり、上月は息を呑む。

 唇に感じる柔らかな暖かさ。

 そのまま無言の時が流れる。

 上月が自分が接吻されていたることに気が付いたのは、真安が己の唇を開放した後だった。


「真安……」


 先ほどから自分は、この男の名前を呼んでばかりだ。

 上月はふとそう思った。まるで、その言葉しか知らないかのように。


「上月、よく聞け。1回しか言わんぞ。

 恐らく、死ぬまでもう、言わん。

 だからちゃんと聞いてろよ」


 真安は、上月の両肩に回した手の力は緩めずに一気に言うと、一瞬深く目をつぶった。

 そして、蒼と碧の目を見開くと、まっすぐに上月の黒い瞳を見つめて言った。


「上月……。俺はお前を愛している。

 昔も今も、これからも。お前だけだ」


 上月の漆黒の瞳の中で、真安の姿がゆらぐ。

 決して大きな声ではなかったが、吹き荒ぶ嵐の騒乱の中、その声は何よりも強く、大きく上月の耳に届いた。


「真安……」


 上月は胸の内から言いようもない感覚が湧き上がってくるのを、身震いとともに感じた。

 身体の芯の部分が、熱く滾る。

 しかし、頭のどこか冷静な部分が、それを否定する言葉をつむぎ出した。


「お前は分かっているのか。

 今、この瞬間の言葉だけで、私がどれだけ救われた気持ちになっているのか。

 だが、私は今日までの命。これからなど……」


「お前の命は今日までじゃあ、ない。俺が助ける」


「……気休めはよせ、先ほどの田吾作の言葉を聞いただろう。

 もうすぐ私の腹を突き破って、次代の巫女が顔を出す。その時が"私"の最期だ。

 今まで十六の儀をくぐり抜けて生き残った巫女はいない。

 不思議だとは思っていたが、そうか。死んでいるわけではなく、己の転生を繰り返していたのか……」


ふ、と顔を背け力なく笑う上月。


「ははは……。母だと思い込んでいたのが己だったとは。

 所詮、私は裕観の……玉姫の力から離れて生きていくことはできない。

 笑うがいい、真安。所詮私には人生を選択する自由はない」


「そうやって、物事をすぐ悪い方向に考えるのは、昔からお前の悪いクセだ」


「この状況で、何をどう良い方向に考えろというのか!

 お前がいかに強大な力を持っていようとも、何ができる?

 二百数年、この邑に続くこの儀式を跳ね除けることができるというのか!

 これは神が巫女に与えた所業ぞ。誰が神に対抗することができようか!」


「落ち着け、上月」


 肩をゆする真安に、抗うこともなく上月は言葉を続けた。


「私は十六年間、考えた。考えに考えた。

 しかし、私がこの儀式を済まさぬことには、この邑には雨は訪れぬ!

 蛇神がこの地に与えた恩恵と共に下された試練。

 この私だけがそれを避けることは許されぬ!

 所詮は……定めよ」


「……上月!」


 真安の手が上がる。

 殴られるかと思い、首をすくめる上月。

 しかし、肩から離した真安の両手は、そのまま上月の両頬に添えられた。


「落ち着け、上月」


 同じ台詞を繰り返す真安。

 向かい合う形で座り、上月の頬を支える真安。

 身体は離れていても、頬に添えられた両の手から、じんわりと2人の体温は伝わりあっていた。


「誰が決めた定めだ?」


 上月の顔を挟み込んだまま真安は言葉を続ける。


「誰が何の為に起こした所業だ?

 よく考えろ、上月。

 物事には必ず"起"がある。

 その"起"を煎じ詰めて考えれば、おのずと"結"は見えてくる」


「……お前には何か見えているのか?」


「ああ、それを見つける為の八年だ。

 お前に……お前達にかけられた呪詛の解明と、それを破る力を得る為の八年だった」


「その為の……?」


 目を丸くする上月の顔を見て真安はふ、と笑うと、そのまま左手を上月の後頭部に、右手を上月の背中のあたりに回して体重を前にかけた。


「え……?」


 周囲の景色が倒れる。

 いや、倒れたのは自分の身体か。

 気が付くと、上月の身体は真安に押し倒されていた。

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