偏屈なリヒターさん

古博かん

時計の針を見て思う

 リヒターさんはいつも言う、「何事もバランスが大事だ」と。


 その日、モーニングコーヒーを一杯たしなみ、いつものように内ポケットから小さな懐中時計を取り出すと、きっかり八時十五分を指していた。

 そして、リヒターさんはふと思った、(なぜ時間というものは前にしか進まないのか)と。


「何事もバランスが大事だ。前進があれば後退もある、だからこそバランスが保たれるはずではないのか」


 そう一人ごちたリヒターさんの視線の先では、手入れの行き届いた十四金製の小さな秒針が、リヒターさんの懐疑かいぎなどお構いなしにコチコチと正確で無機質むきしつな一定音をかなでている。

 束の間、黙り込んだリヒターさんはお気に入りの安楽椅子からおもむろに立ち上がると、きっかり部屋を二度歩き回った。はじめは右回りに、もちろん次は左回りに一度ずつ、正確に二度。

 歩き回るたびに棚の上、引き出しの中、果ては再び内ポケットに手を伸ばして懐中時計を睨め付ける。そして至極残念そうに嘆息たんそくした。


「何事もバランスが大事だ」


 コチコチと淀みなく一定音を繰り返す小さな秒針は、内ポケットに仕舞われると音もなく時を刻み続ける。前へ前へと。それが道理だと言わんばかりに。


 リヒターさんは小さく肩を落とすと、ポンと内ポケットのあたりを軽く叩いて部屋を出て行った。


 手入れの行き届いた絨毯じゅうたん敷きの廊下は、靴底を通しても分かる程度には踏み心地が良い。

 飴色に変色した艶のある腰壁の上には等間隔に飾られた絵画と暗色の照明が辛気臭くも落ち着いた空間をいろどっている。重厚な扉に施された装飾は年季が入り、他にない存在感をかもし出していた。


 そんな扉に隔てられた一つ一つの部屋を、リヒターさんはくまなく調べて回ったが、どこもかしこも時間は前に前にと進んでばかりだった。

 愕然がくぜんとしながら大広間に足を運べば、この家で一番大きく無機質な旋律を奏でる一番古い柱時計もまた時間を前にしか進めておらず、リヒターさんは憤懣ふんまんやる方ない表情を見せて大きな大きな溜息を吐いた。


「外出してくる」


 そう言い残して山高帽子ポーラーハットとステッキをお伴に、リヒターさんは町へと繰り出した。


 フランクフルト近郊の町、イトシュタインは今日もお伽話とぎばなしよろしく可愛らしくも活気がある。

 石畳の広場、いびつな木組に彩られた色とりどりの商店の数々、町の玄関イトシュタイン駅、チラホラとカメラを片手に歩き回る観光客以外は、ほとんどが顔馴染みという地元民。


「やあ、旦那。元気かい?」

「どうも」


 朗らかな町の人たちには目もくれず、礼儀程度の挨拶を残してリヒターさんは足早に石畳を突っ切っていく。時折目にする時計のどれもが、どこもかしこも前に前にと進んでいく。


「全く、なんてなげかわしい」


 憮然ぶぜんとした表情で呟くリヒターさんが目指したのは、町で一番大きな時計の専門店だ。

 専門店と銘打つならば一つくらいはあるだろう、バランスのとれたやつが——そう思って立ち寄ったのだが、リヒターさんの希望に沿う物は一つも扱っていなかった。


「旦那には、こういったものはいかがでしょう? 文字盤の左右要素が逆転した鏡像モデルのランゲです。実に美しいでしょう?」


「いらん」


 愛想良く丁寧に対応する店主だったが、リヒターさんはもなく断った。文字盤要素がいかに逆転していようと、肝心の時間は前に前にと進んでいるのだから仕方ない。


「また来る」

「ええ、いつでもどうぞ」


 他の商店に立ち寄っても、リヒターさんの希望する「後退する時計」は一つとして見つからなかった。

 曲がりなりにも「専門家」とうたう者たちが、こぞって事の重大さに気付いてすらいないという事実に、リヒターさんは愕然とするばかりだった。


「まるで駄目だな」


 深い失望と共に家に帰ったリヒターさんは、背中で両手をきっちりと組んで大広間から家中をぐるりと一望した。

 もちろん、きっかり二度。

 何度め付けても、家中——いいや、世界中の時間という時間が前に前にと進んでばかりいる。


「何事もバランスが大事だ」


 このままではバランスが保たれないと考えたリヒターさんは、自分の部屋に戻ると、もう一度内ポケットから小さな懐中時計を取り出した。

 小さな十四金製の秒針はコチコチと、相変わらず大きさに見合った無機質なリズムを刻んで進んでいる。


 リヒターさんはお気に入りの安楽椅子に腰掛けると、そのまま執務机に向き直った。そして、おもむろに引き出しから大小様々のネジ回しやピンセットを一式全部取り出すと、台座に据えた小さな懐中時計の裏蓋うらぶたをパッカリとこじ開けた。


 拡大鏡を上げ下げしながら小さな懐中時計と向き合うリヒターさんは終始無言をつらぬいた。ただただ、手元だけがせわしなく動いている。その間も、家中の他の時計は前に前にと進んでいった。


 どれ程時間が経ったのだろう。

 リヒターさんが小さな懐中時計の裏蓋をぱこんと閉じる頃には、外からの灯りはすっかりと乏しくなっていた。


 掌に収めた小さな懐中時計をリヒターさんは満足げに眺めて頷いた。

 十四金製の小さな秒針はチコチコと一定のリズムを刻みながら、一秒また一秒と後退していった。それに合わせて、長針と短針もゆっくりと一定間隔で後退っていく。


「一つくらい、でなくてはバランスが保たれないじゃないか」


 一大事業を終えたリヒターさんは、お気に入りの安楽椅子にゆったりと身を預けながらパイプをくゆらせ始めた。ふーっと吐いた紫煙がゆらりゆらりと暮れる窓辺に立ちのぼる。


「何事もバランスが大事だ」


 満足そうにひとりごちたリヒターさんは、濃紫の広がる穏やかな夜をゆったりと迎えるのだ、チコチコと逆らう時間の音を聴きながら。

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