第三章 狙われた帝国(くに)

 校長の許可を得たわたし……いや、『僕』は、学校に停めてあった二輪警護車一号PCX160を駆って、かつての学び舎である『柚月野原女学院』を目指した。何かのときのために車に忍ばせておいた柚月野原の制服にコンビニのトイレで着替え、世田谷区成城の外れに向かう。筑駒から柚月野原まで公共交通機関で行くとするなら井の頭線、小田急線、小田急バスの三つを乗り継がなければならない。細い道が多い世田谷を最速で横断するには、バイクが最適だと判断した。

 富ヶ谷から高井戸まで高速を使い、一車線の道を何本も抜けて柚月野原の前に着くと、正門から校舎まで目抜き通りが百メートルほど伸びていた。その先には、瀟洒しょうしゃな建物が正門から見て斜めにそびえ立っている。聞くところによると、用地の関係でこういった位置関係になったらしい。

 申し訳程度にある駐輪場にバイクを停めると、ヘルメットを脱ぐ。長めのスカートの右ももには、ホルスターに収めた小型のブローニングM1910。左ももには特殊警棒。あとはこの体と防弾チョッキだけが、僕の頼みの綱だ。こんなときだけは、胸が控えめで助かったと思う。

 ――もし仮に、アーニャ……アンナ・アレクサンドロヴナ・ベリンスカヤと接触できたなら、僕は何を尋ねるべきだろうか? 忠彦に教えられた容疑が確定したのなら、彼女は……パパの仇ということになる。

 アーニャに携帯の番号を教えた記憶はない。でも仮に彼女が『四月事件』の実行犯なら、僕の番号を知っていた理由も納得できる。この学校には、僕の番号を端末に入れている生徒もいるからだ。となると――『三枝警備四課』所属という僕の素性も、当然アーニャにバレていると思ったほうがいい。

 この学校は二年で中退した扱いになっているけど、制服を着ていれば学内への潜入は事実上フリーパスだ。僕と面識がある三年生に見咎められないよう、コンビニで買ったマスクをして校舎へと歩を進める。

「ごきげんよう、お姉さま」

「……ごきげんよう」

 下校途中の下級生に声をかけられ、思わず柚月野原の流儀で会釈する。絵に描いたようなお嬢様学校、という形容が妥当だろう。リボンの色で入学年次が分かるようになっているので、現三年生の制服を着ている僕は『お姉さま』と呼ばれたというわけだ。

 さて――急いでここまで来たけれど、着替えの時間を含めて四十分かかった。現在の時刻は三時四十分。まだ下校していないといいのだけれど……剣道部の部室は、武道館の二階にある。

 僕は校舎を抜けるとグラウンドを通り、武道館へと向かった。柚月野原の生徒は、いかなる時も優雅に――。だから学校の中で走ることはできない。気持ちだけが焦る中、マスクを外すと武道館の入り口を通って二階に上がる。外履きの靴音を響かせて、剣道部の部室を目指す。更衣室を通り過ぎると、その先が目的地だ――。

 と、その刹那。更衣室の扉が開き、不意を突かれた僕は背後から中へと引き込まれた――!

「な――!」

 思わず声を上げ、相手に向き直る。そこには――アンナ・アレクサンドロヴナ・ベリンスカヤの姿があった。

「ごきげんよう、ひそかさん。わたくし、貴女を待っていましたのよ。もっと早くいらっしゃると思っていましたわ?」

 首を傾げながらあでやかな笑みを浮かべ、彼女は僕にそう告げる。余裕と気品のある態度だ。

 緑の瞳に、軽くウェーブのかかったロングの金髪。柚月野原の制服がよく似合う、貞淑ていしゅくな雰囲気。僕の知るアーニャが、そこにいた。

「歓迎いたしますわ。なんでしたら、アナスタシア五世陛下も呼んではいかがかしら?」

「ふざけたことを……その狂った笑顔をどこで習ったんだ? フィンランド大使館三等書記官、アンナ・アレクサンドロヴナ・ベリンスカヤ!」

 黒、か。いまこの瞬間、彼女は僕の不倶戴天ふぐたいてんの敵になった。――なって、しまった。

「手駒の全てが外交特権持ちというわけじゃないだろう? 日本の公安をなめるな。組織網を徹底的に洗われれば、君達の計画は暴露される。ここは手を引け。僕の個人的な報復は、今現在の目的じゃない。僕の護衛対象者に危害を加えるのなら、容赦はしない」

「公安……? 怖いのは三枝ひそか、貴女だけですわ。ですから貴女には、ここで死んでいただきます――!」

 アーニャはまなじりを決すると、右腕の袖から小型拳銃デリンジャーを振り出す。僕は遅れじとスカートの中のブローニングに手を伸ばしたが、刹那せつなの遅れを取った。

 マズルフラッシュが銃口から漏れ、炸薬の破裂音とともに肋骨に衝撃が走る。同時に右手の拳銃を蹴り落とされ、僕は一瞬よろめいた。――防弾チョッキがなかったら、これは死んでいたかも知れないな。

「せいっ!!」

 腰を落とし左足を引き、左ももの特殊警棒を全身のバネを使って抜き打つ。そのまま警棒はアーニャの右手をしたたかに打ち、相手もデリンジャーを取り落とした。

「くっ……」

「……形勢逆転だな。だけど、君を倒すのは僕の仕事じゃない。これは警告だ。アナスタシア五世陛下に、二度と手を出すな」

 僕は警棒でアーニャを威嚇しながら、取り落とされたブローニングを右もものホルスターにしまう。

「高度に政治的なことを考えるのは、僕の領分じゃない。だけど――君の出方次第では、『僕の領分』になる。それを忘れないでいてもらいたい」

 特殊警棒を短くすると、左もものケースに収める。

「ご歓待ありがとう。これで失礼するよ」

 瞳に力を込めてアーニャを射抜くと、きびすを返して更衣室をあとにする。――それが、かつての学友に対する僕なりの訣辞けつじだった。

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