第二章 俺とあいつと彼女の事情

「次の男心検定だ。ある日、クラスメイトがお前に『陛下とはうまく行ってるのか?』と尋ねたとする。どう反応する?」

 俺は警護車であるスモークガラスのレガシィのハンドルを学校に向けて握りながら、後部座席のひそかに尋ねる。無論、青い外交ナンバーである。この車は治外法権であり、事実上は在外公館の延長線上になる。

「『うまく行っている』と返す……?」

「ちーがーう! 大抵の男は、本当にうまく行ってたらそこで惚気のろけるの! 陰キャでもない限り、男はダチ公に彼女自慢をするのが普通だ。しないんだったら『うまく行ってない』か『お前は友達じゃない』って意味になるぞ」

「……なるほど。どっちの意味でも、トラブルの種になるな」

「いい加減、『男心検定五級』から上がってきてくれよ。今の所バレてないからいいけどさ……」

「すまない。胸のサラシを締め直すとするよ」

「サラシでごまかせる程度に小さくて良かったな」

「た……忠彦っ!」

ひそかはサラシの上から、俺と同様に防弾チョッキを着ている。ボディーガードの努めとはいえ、結構な重装備のはずだ。

 信号が変わったので、スムーズにアクセルを踏み込み車を発進させる。すると、後部座席の右側に座ったナーシャが俺達の会話を聞きとがめた。ルームミラーの中で、金髪が揺れる。

「ひそか、忠彦。その方らは一体、なんの話をしているのだ?」

「潜入任務中のひそかが正体を露見させないよう、男子力を磨いているところだ。ナーシャも『彼女』として、女子力を磨いたらどうだ?」

「ふん、ばか者。余はツァーリぞ。余に必要なのは女子力ではない。君主たるの器である。それとも何か、余に手作り弁当を作れとでも言うのか? お嬢様言葉を使えとでも申すか? 余は皇帝である。お嬢様の『振り』をする必要がない以上、そのようなものに用はない」

「……すまん、失言だった。帝国の威信を著しく損なうな、それは」

「分かればよい。余はスマホでFXに戻るぞ」

 『お嬢様言葉』がなぜ必要かと問われれば、それは誰もが簡単に『お嬢様の振り』をできる便利な方便だからだ――。お嬢様学校に潜入していた経歴のあるひそかが教えてくれた真理だ。どうやらナーシャは持ち前の洞察力で、そういった返しをしたらしい。

「ふむふむ……ドル上昇、ソ連ルーブル下落、利益確定リカク……よきかなよきかな」

「まさか、亡命政府の財源がこんな怪しげなものに頼っていただなんて……せめて株とか上場投資信託ETFにしようぜ、ナーシャ。FXは、完全に金の亡者の世界だぞ」

「そうは言ってもな。余は亡命政府の職員を食わせて行かねばならん。多少、荒っぽい手を使ってでもな。戴冠の日から、余に摂政はいなくなった。余の采配で、今まで政府を信じてくれた人々の運命が決まるのだ。その重責たるや」

 摂政不在……それは、ナーシャが名実ともにロシア帝国の元首となったことを意味する。

 ロシア帝国の帝位継承法は、皇女アナスタシア一世のみが満州に落ち延びた『満露』時代まで女帝を認めていなかった。血筋の外からクーデターで帝位を奪った、エカチェリーナ二世の教訓からである。

 現在のロマノフ王朝には皇帝夫妻が身ごもる度に、夫側が一時的に『ニコライ』に改名する仕来りが存在する。だから、ナーシャの父親を現す『父称』――名前の真ん中に存在するものは『ニコラエヴナ』。ニコライの娘、という意味だそうだ。この仕来りには、現ロマノフ朝の大陸反攻への決意が込められていると聞いている。

 と、ルームミラーの中でひそかが体をわずかによじった。

「どうした、ひそか」

「恥ずかしい話なのだけど……警察が所持を黙認している警護用の拳銃。僕の決して豊かではない胸でも、あばらに食い込んで仕方ない」

「あー……そういう……。確か、後部座席にバックアップがあっただろ。ブローニングM1910。不二子ちゃんが使ってるやつだ。あれならどうだ?」

「これならなんとか……火力は非常に心もとないけど、ないよりはマシだ」

「学校では、絶対に人に触らせるなよ。体育のときは俺も盾になるから」

 ひそかは基本、嫉妬の感情と好奇の視線を浴びる存在だ。高嶺の花過ぎて一般生徒が手を出せないナーシャを、編入生の身で射止めたことになっているからである。

 ひそかは拳銃を交換すると、学ランのボタンを下から上までつけ直した。

 俺はアクセルをふかすと、学校の前にある淡島通りへと車を走らせる。

「そろそろつくぞ、二人とも。いつもの設定、作っておけよ」

「心得た」

「了解」

 二人が頷く。ちなみに俺は、亡命政府に雇われて送迎のバイトをしているという設定になっている。

 俺は学校の駐車場にレガシィを停めると――既に『待ち』がいる――、後部座席のドアを開け、ナーシャとひそかが降りられるようエスコートの段についたのだった。


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 音楽部有志がロシア帝国国歌『神よツァーリを護り給え』を演奏する中、ひそかに手を引かれて、ナーシャは車から降りたつ。

 ひそかはまるで乙女ゲーにでも出てきそうに無意味に白い歯を輝かせ、ナーシャはバッと日傘を広げた。ひそかの設定は初代送迎係にして、ナーシャが学校生活を円滑に進められるよう雇われた亡命政府の『雑用係』だ。

 ナーシャは演奏をやめた音楽部員に近づき、巾着から『いつものもの』を取り出した。

「ふむ、本日も大儀である。苦しゅうない。飴をやろう」

「ありがとうございます」

 お嬢様とも違う。お姫様とも今は違う。即位を終えたナーシャは、本物の『君主』である。寛容のうちに品格をひそめ、常に怜悧れいりにして威風堂々。『これ』があるからこそ、ナーシャは『難攻不落の姫君』として誰にも告白すらされず、男子校ライフを送ってきたのだ。

「ナーシャ、足元に気をつけて」

 そんなナーシャの手を取るひそかは、ゲームの中から出てきた王子様のような……中性的な佇まいに、落ち着いた立ち居振る舞い。長いまつげ。その二人の間には、誰も立ち入ることはできない……と、一般生徒が思っていてくれればいい。『四月事件』が発生した以上、第三者の介入は不確定要素にしかならない。

「今日の一限、二限は物理だよナーシャ。カバン、持ってあげるね」

「うむ」

 うーん……男から見た『理想の彼氏』と、女から見た『理想の彼氏』との間に、どこかギャップがあるような気もするが……。俺に言わせれば、ひそかは過保護すぎる。女の子って、そういう手取り足取り系の男がいいんだろうか。……まあ、今更オラオラ系に変貌したひそかなんて想像もつかないんだが。

 俺やひそかにとって登校時の風景は『仕事』だが、ナーシャにとっては『日常の一場面』に過ぎない。可能な限り、それは尊重したいと思っているのだが……と。

「三年B組、甘粕忠彦。三年B組、甘粕忠彦。直ちに校長室まで出頭のこと。繰り返す……」

 いけね、呼び出しだ。俺はひそかに「あとは任せた」とアイコンタクトを送り、レガシィの鍵をかけると校長室に急いだ。


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「かけたまえ、甘粕君」

 筑波大学附属駒場高等学校校長、ボリス・マクシミリアーノヴィチ・ヴォルコフ。ナーシャの信頼篤い、亡命政府の忠臣である。両指を机の前で組んで、鋭い目つきをその上に乗せていた。

「君達のいつもの働きには感謝している。今の所、計画に破綻はない」

「はぁ……それで、ご用件は」

「君に、渡しておきたいものがある。ロシア帝国政府が東京に疎開してきた折に、手に入れたメモだ。政府では『甘粕メモ』と呼んでいる。君の先祖が書いたものだ。ここに、謹んでお返しする」

「これは……」


『露國皇室守護の儀、一心大切に忠勤を存すべし。もし二心をいだかば、すなはち我が子孫にあらず。 甘粕正彥』


 手帳の切れ端に書かれた、その一文。その内容は紛れもなく、満露と行く末をともにして服毒自決したご先祖――甘粕正彦が、俺や親父といった『子孫』に向けて書いた『指令』だった。

 『甘粕メモ』――。『歴史』の重さに、背筋が震える。甘粕正彦は将来、『ロシア帝国』が危殆きたいに瀕することまでも見越して、敗戦の混乱の中でこんな手形を――。

 俺に、ナーシャを守りきれるのか……? 自問自答する。――いや。守りきれるのか、じゃない。守りきらなきゃならないんだ。

「もちろん、その書き付けに法的拘束力はない。歴史の渦に再び投げ捨てるなり、心に留めておくなり自由にしてくれ」

「……ご先祖だろうが内閣総理大臣だろうが、関係ありません。そんな紙切れなしじゃ女の子一人守れないような生き方、俺はしてませんので」

 校長は口の端に笑みを乗せると、話の穂を接いだ。

重畳ちょうじょうにして御膳上等だな。これは昔話になるが……私はかつて、チェチェン紛争でソ連軍と干戈かんかを交える立場だった」

「――初耳です」

「敗残兵となった同志を待ち受けていた運命は過酷だったが、私を含めた仲間はロシア帝国に亡命することに成功する。日本という極東の異邦に存在する、『敵の敵』――それがロシア帝国だった。それに際して、異教徒の我々に対し幼年の陛下はこう仰せられた。『我が大ロシア帝国は多民族国家、臣民もまた然りである』と。――私にはその時の言葉が、どうにも忘れられない。陛下は私に、もう一つの生き方を与えてくれた方だ。ロシア名を陛下に捧げた私がなすべきことは――言うまでもあるまい」

 戦場帰りの漢の忠義心を、ナーシャの振る舞いが呼び起こしたのか。やはりあの子は、生まれながらにして『君主』なのだろうな。

「そうだ。別件だが、日本警察とロシア帝国オフラーナの合同捜査で、『四月事件』の犯人の目星がついた」

 オフラーナ……日本の公安に相当する、『ロシア帝国警務総局警備局』のことだ。ロシア革命中は赤軍側とかなり激しくやりあったので、ソ連とは当然ながら犬猿の仲である。

「誰なんですか? 警護業務遂行上、お伺いしておきたいところではあります」

「ソ連地上軍少尉補、アンナ・アレクサンドロヴナ・ベリンスカヤ。所属はソ連軍参謀本部情報総局第三局、極東担当。本土では正教会系の反政府組織に潜入していた過去がある。現在はソ連の属国であるフィンランド大使館の三等書記官として籍を置く傍ら、都内の『柚月野原ゆづきのはら女学院』に通っている。フィンランド国籍は養子縁組によって得たものだが、一応は外交特権持ちだ。従って、日本警察は強制捜査に踏み切れない」

 言って、校長は俺に『ベリンスカヤ少尉補』の情報がプリントされた紙をよこす。

「柚月野原……ひそかの前任校ですね。バリバリのお嬢様学校だ」

「奇しくも、な。現在のところ、確度は八割といったところだ。用件は以上。退出して結構だ」

 その声に背中を押されるように、校長室を辞する。手の中には校長が『甘粕メモ』と呼んでいた紙片――これをどうするか。

 いや、自問自答するまでもない。俺には、彼女を守り通さなければならない理由がある。ご先祖に言われるまでもなく、だ。

 俺は紙片を生徒手帳の内側に挟むと、一時間目の授業が行われる物理講義室へと足を運ぶことにした。


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 筑駒のHRは毎日ではなく、月曜日と木曜日の六時限目を使って行われる。だから、朝の始業はいきなり授業からだ。

 物理選択者が集まる階段式の物理講義室に顔を出すと、いつもの白衣にメガネの茶沢えり――えりツィンが授業の準備をしていた。

 出席簿を教卓に叩きつけると、えりツィンはかつてない深刻な顔で話の口火を切った。

「さて紳士諸君、おはようございます。今日の授業のテーマは特殊相対性理論。大天才のボクは独自研究により、特殊相対性理論の反証となる実験結果を得ました。ただし学会から追放された身の上なので、誰かに披露する機会がありません。よってここでそれを述べます! 延々と、かつ執拗に二時間ぶっ通しで! テストには出さないから、聞くなり眠るなり内職するなり、とにかく静かにね。たとえ茶沢えりのことは嫌いになっても、物理学のことは嫌いにならないでください!」

 国民的センターのようなことを言うと、えりツィンは黒板にやおら数式を書き始めた。正気が疑われる人の授業を受けても仕方がないので、俺は机に突っ伏す。

 話によるとこのえりツィン、タイムマシンを実用化するための研究を本気で行っているそうだ。そりゃアカデミック・ポストは絶望的だろうし、文科省から理数系の予算が優先的にあてがわれるSSHの筑駒に着任するのも無理はない。

 声は出すなとのことなので、ルーズリーフに校長室でのやり取りを書いて、ひそかに回す。

『前の学校で、アンナ・アレクサンドロヴナ・ベリンスカヤっていたか?』

『ああ。僕の同期で、剣道部の部長だった。勉強もよくできたよ。フィンランドから来ていた一期上の留学生に、付き人のように従っていた』

『四月事件の容疑者として、公安とオフラーナから警護チームに情報提供があった。思い当たるフシはないか?』

『ない。まさか、と思っている。深窓の令嬢然とした、可憐な子だ。あの子はロシア系フィンランド人という話だったけど』

『衛星国に、養子に取らせているんだよ。おそらくは、正真正銘のソ連人だ』

『話は分かった。彼女とは個人的に面識もある。今日は帰りの警護を校長に引き継いで、前の学校に情報収集に行ってくるよ』

『校長の許可が得られればそういう手もあるにはあるが……危険だぞ』

『そうは言っても、外交特権の関係で警察が動けないなら、僕たち民間が一番小回りがきく。向こうは形式上、正規の外交官だ。いざとなれば、本国召喚という手が取れるんだから』

『ひそか。俺達の仕事は、四月事件の犯人を押さえることじゃない。ナーシャを護ることだ。そこを履き違えるな。間違っても、私怨なんかで動くな。それをやったら、プロ失格だ』

『分かった』

 おそらくは複雑な感情を込めて、ひそかは短く返してくる。任務上でのことなのだから、前社長である父の死についてナーシャに対する遺恨はないだろう。しかし――実行犯に対しては、当然別だ。

 もしもかつての学友がその張本人なのだとしたら――ひそかはどうするだろうか。

 ――いや、当事者ではない俺が考えても仕方ない。俺はひそかの立てた案を校長に具申するべく、スマホのメッセージアプリを起動したのだった。


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 四時間目、日本史の時間。校長が教壇に立ち、厳かに授業が行われている。

 校長は週に一コマだけ必修の日本史の講義を持つが、講義の範囲はプチャーチン来航から始まる日露関係限定だ。

「……さて。さきほどまで日本が一九〇五年二月、天下分け目の奉天会戦で敗北するも、一九〇五年五月の日本海海戦では――ロシア語では『対馬沖海戦』と言うが、勝利した話をした。これにより満州――現在で言う『中国東北部』はロシアに編入され、鴨緑江おうりょくこうを境界線として朝鮮半島は日本の勢力圏下に置かれる。日韓併合は、その五年後だ」

 カツカツと黒板にチョークを滑らせ、当時の地図を克明に描いていく校長。教室の空気は張り詰めていて、私語をする者はいなかった。怒鳴りはしないが、指摘するときの『圧』が凄いのだ。

「これらの大規模な戦いの間、ロシア本国では『血の日曜日事件』を発端として『ロシア第一革命』が進行していた。のちにソ連が成立する、一九一七年のロシア革命の先駆けと言える。このロシア革命により、ロマノフ王朝は白軍……つまり皇室側の軍隊を引き連れてロシア領満州に大移動を開始。臨時首都をハルビンに定める。現在の臨時首都はトウキョウ州であるから、ロシア帝国の遷都は二度行われている。そしてロマノフ王朝は日本と同盟を結び、ロシア革命の中で満州の領土だけは守りきった。それ以来、ロシア帝国とソ連の両国は互いに国家承認をしていない。中国と台湾、韓国と北朝鮮の関係によく似ている」

 さっき描いた地図の脇に、もう一つの満州の地図を描いていく校長。現在のロシア帝国にとって、満州は既に『故地』と言っていい存在だ。ロシア政府職員の校長が講義すると、そこはかとなく重みがある。

「ロシア内戦で弱体化したロマノフ王朝は、在露日本陸軍の力を借りて帝政を維持。実効支配地域は満州に限られた。いわゆる『満州ロシア帝国』時代だ。この時代、ロシア帝国には日本や中国からの入植者が相次ぎ、ロシア帝国はさらなる多民族国家へと成長していった。だがその繁栄は第二次世界大戦末期にソ連軍が休戦協定を破り、満州に侵攻したことで終わりを告げる」

 ……そう。この時期に起こったのが有名な、ロマノフ王朝の『東京疎開』だ。ロマノフ王朝は麻布にあった在日本ロシア帝国大使館を政府庁舎と定め、再びの遷都を行う。

「蒋介石が台湾に脱出したのと同じく、ロマノフ王朝は日本に疎開した。その後、ロシア帝国は日本を本拠地として『亡命政府』体制へと移行。戦後のソ連は台湾と同様に『モスクワ駐日文化経済代表処』を日本に設置して対外的な窓口とするも、国交はまだ樹立されていない。――以上が、日ソ国交正常化ムードが漂う現在までの大まかな歴史だ。何か質問は?」

 ございません、という感じで教室に静寂が落ちる。時を同じくして、四時間目の終わりを告げるチャイムが響いた。

「――結構。ではまた来週、君達の壮健なるを祈っている」

 言って、校長は教室を退室した。えりツィンとは大違いの、堅実な授業だ。何というか風格が違うんだよな、風格が……。

 っと、もう昼休みか。

「ナーシャ、ひそか。部室行こうぜ」

「うむ。昼食は既に手配済みである。安心せい」

「ありがとう。ナーシャ、カバン持ってあげるね」

「うむ、大儀である」

 よし、午前の授業は終わりだ。飯の時間にするぞ。飯はいつもの通りウーバーイーツの宅配、場所は一階にある一年C組横のROR団部室だ。


 俺達はナーシャが団長を務める『ROR団』の部室に集まり、昼食を取ることにした。俺が副団長、ひそかが会計。ここはこの三人しかいない、文化部の辺境だ。ちなみにRORとはリストレイション・オブ・ロシア――『ロシアの王政復古』という意味である。

 さて、ナーシャは君主である。そういった立場の人間にとって、『奢られる』ほど屈辱的なものはない。臣下や部下に自腹を切らせるということも、彼女のルールにはない。

 よって、俺やひそかもお相伴に預かっているのだが……今日の彼女のセレクトは下北沢のスープカレー、『マジックスパイス』。チキンの『虚空』、トッピングはピロシキである。相当に辛い代物だ。

 俺は同じくチキンの『天空』、ひそかは七段階で一番辛くない『覚醒』だ。トッピングは二人ともない。ちなみに物理の授業中に申請しておいたひそかの案は、校長によって無事承認された。

「うん、特に異常は感じられない。ナーシャ、食べていいぞ」

 毒味係は、いつも俺だ。運転担当の俺と警護担当のひそか……毒にあたってもいい方が、というわけである。

「うむ。宮廷内なら専属の毒味係がおるのだがな」

「ぜいたくを言うな。……それじゃ、いただきます」

 合掌して宅配されてきたメニューに手を付けると、紙ナプキンをつけたナーシャが素っ頓狂な声を上げた。

「こ、これは何事か!?」

 思わず振り向くと、ナーシャはスープに浸ったピロシキをフォークで口に運んでいるところだった。

「このピロシキ、春雨が入っておる! なんたることか!!」

「? ……そりゃ、ピロシキって春雨が入ってるものだろ?」

「愚か者、それは日本ローカルぞ! ローマ人は味と色彩を論じないと言うが、余はロシア人である。春雨の入ったピロシキなど、何があっても認めぬ!」

「そ……それは日本人がカリフォルニアロールを寿司として認められない、みたいな話か」

「うむ。まさにそれよな。邪道を口にしてしまったわ」

 言って、ナーシャは残りのピロシキを脇に寄せた。辛いもの自体は好きなようで、残りの激辛スープカレーを平然と食べている。

「か……辛っ……」

 一方、ひそかは涙を流しながら『覚醒』を食べている。こいつは昔から、辛いものには弱いのだ。購買で好きなパンでも買って済ませればいいのに、ぼっち飯してると『彼氏』感が出ないからと付き合っている。律儀なやつである。

「あ……ナーシャ、ほっぺにカレーがついてるよ。取ってあげる」

「そ……そうか? 苦しゅうない」

 ひそかはティッシュを取り出すと、ナーシャの頬を拭う。……誰も見てない部室でまで『彼氏』してなくてもいいのに。

 まあ、もともと女っぽい性格じゃないからな。武道の経験も関係しているのかもしれない。いつも冷静で、公平で、筋を通す。そういうやつだ。

 ……と。俺はひそかの仕草に、前々からうっすらと感じていた『違和感』の正体を見て取ってしまった。

「あのな、ひそか。言いにくいんだが……お前の『彼氏』演技、何が不自然なのかなんとなく分かったわ」

「え……?」

「プラトニックすぎて、下心が見えないんだよ。男の本音ってのは、結局そこだ。男を本気で演じるなら、その……なんだ、ナーシャの胸に時折目をやるくらいはしろ。女だってバレたら、この任務失敗なんだぞ」

「そ……そうか、指摘してくれてありがとう。努力するよ。胸なんて、僕には脂肪の塊にしか見えないから……重いと大変らしいんだよ、あれ」

 脂肪の塊……すごい表現を聞いてしまった。

「いいか? この任務が解かれるまで、男であり続けろよ。幼馴染のよしみで、できるだけの指南はしてやるからな」

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