四時間目 てかこいつ金的してきたしイシャリョーだろこれ!




 俺の家にはプールがある。

 水深は浅いが、站樁功で腰を落とせば、頭の先まで水に浸かる。

 そして沈めたサンドバッグを打つ。

 水を吸い膨らんだ中のクズ布を、打撃で絞る勢いで打つ。

 全力で一分打つ。

 後、三十秒。

 水圧で肺に負荷をかけ、己の肺活量と酸欠下での打撃力、そして判断力を養う。

 昨日の白畑しらはた空虎くうことの喧嘩では、最初の失神で判断力が落ちていたにも関わらず、それを自覚せずに無理な攻撃を仕掛けて負けた。

 もっと言えば、そんな状態にされた時点で負けていた。

 自分にマトモな判断力があるかどうか、それはマトモでないほど身誤りやすい。

 であるからして、自分が本当に十全に戦える状態であるかは、事前に判断力がある段階で考え、また事後に反省することでしか得られない。

 後四十秒。

 であるからして、このように余計なことを考えて酸素を浪費している今の俺は判断力が落ちているとも言えるし、そうでもないとも言える。自分の判断力が落ちていることを自覚しているからだ。

 ……

 …………

 ……………………ダメだ! 苦しい! 後五十秒! 逆だ十秒だ! ああ! 苦しい! 息を吸いたい! 死ぬ! く! 苦しい! ああ! 後五秒! 五! 四! 四! 三! 苦しい! 三! 三! 死ぬ! ニ! ニ! ニ! ニ、ニぃ!? 一は! 一が! 来ない! 苦しい! 死ぬ! 死ぬ! 死ぬ!

 ピピピピピピ――

「けぼばへぼはぁっ!」

「うわビックリしたぁ!?」「何回聞いてもなれれなあ、これ……」

 生きてるー♪

 息が吸えるぅ〜〜♪

 たまらない! 酸素がうまい! 生を実感できる!

「ハァ……ハァ……フッ……フフッ、フハハハァッ! やりとげたぞ!」

「お前それやんの十回目ぐらいだぞ。よく毎回そのテンションで感動できるな。」「なんか脳みその大事な部分壊れてねえか?」

 限界ギリギリまで追い込んでからの深呼吸は格別だ。

 俺はこの修行をする度に一つ一つ確信していった。

 これまでの俺に足りなかったのは、判断力が落ちた段階での戦闘能力だ。

 ならば最初から判断力を落ち難くし、たとえ落ちても戦えるようにすればよい。

 だがこれだけでは足りない。

 フィジカルとメンタルだけでは埋め難い差が俺とアイツにはある。

 ここはテクニックでもまた進化しなくては。

「おいとうとうコイツひとり言ブツブツ言い始めたわなんかヤバいエリアに入り始めたぞ。」「そもそも家にプールあんのに呼ぶのが女子じゃなくて俺らって時点でだいぶヤベーよ。俺らも入っちゃってるけど。」

「お前らも昨日の今日でよく入りにこれたな。」

 JとKはそれぞれうちにあった大きなうきわに寝そべっている。真ん中のドーナツ部分に尻を入れてプカプカ浮かぶ、アレだ。水に浸かると傷が染みるのだろう。

「まあ、やけ? やっぱ持つべきものは金持ちの友達だわ。あ、今の金持ちと友達で韻踏んでんな、良いリリックじゃんな。」「お気に入りだったTHE・リアルうんこがどっか蹴っ飛ばされちまうしガチガンなえですよ。あれ一個500円だぞ。」

「お前月のおこづかい500円じゃなかったっけ?」「そう。だから今月分パーだわ。」

 K、お前毎月のおこづかいをうんこのゴムボールにしてたのか。

「……安心しろ。俺が仇をとる。」

「いや無理だろ。」「実力差がレキゼンとしてるんだよね。」

「いや俺が勝つ。」

「勝つっつってもアイツバケモンみたいに強いぞ。負けずぎらいはわかるけどよー、限度ってもん知らねえと今度は殺されるぞ? アイツ目がヤバかったし。」「つーかプールで遊ぶなら女子呼べよ。」

「いや俺が勝つ。」

「ボキャブラリー無くなってますよ。」「女子呼べよ。」

「呼んだがお前らが来ると言ったら『やっぱムリ』らしい。」

「FUCK! なにが不満なんだ! 俺は運動できるし頭も良いし顔も良いんだぞ!」「俺なんてリレーの選手だぞ!つべこべ言わずに尻出せよ!」

「そういうとこだぞ。」

 それに顔はどっちもせいぜい上の下ぐらいだ。

 テストの点数や五十メートル走の秒数のような数字で判断できるものはともかく、顔の良さのような客観的に判断しにくいものは、実際よりも良く判断してしまうのだろう。

 やはり、判断力が無いと自分を見誤るという俺の仮説は正しいようだ。

「さて、行くか。」

「どこ行くねーん。」「ロードワーク? 俺らまだいる気だけど。」

「いていいぞ。これから知り合いのボクサーのところで修行してくる。」

「修行ってお前ただでさえ昨日ボコられて今もアホな修行してたのにか? 死ぬべや!」「昨日も気絶して今日も十回は気絶しかけてんだぞ。どう見てもヘトヘトなんだよね。」

「つーか友だちん家来て友だちいなくなるのってめちゃ気まずいからな。最近なれたけどさ、メイドさんとかの距離感つーかそういうのにこまんだよ。」「てかメイドいるぐらい金持ちなのになんで公立通ってんだよ。」

「お前らがいるから。」

「え、なにそのいきなりのブッコミ。」「やだ、なにこの胸のいたみ、幼稚園の頃からのトキメキ……! てボケてんだからツッコめや! 俺転校してきたの去年だぞ!」

「そもそもお前行ってたの幼稚園じゃなくて保育園じゃねーか。」「ツッコむとこそこー?」

「そこそこそこそこー?」「こそこそこそこそー?」

 プールから上がると風呂に行き、軽くシャワーを浴びてウェアを着る。

 髪は走っているうちに乾くだろう。

 今はこの感覚のまま走りたい。

 全身ガタイ中にどっしりとかかる疲労が心地良い。

 今にも眠ってしまいそうな疲れを押して駆け出す。

 普段なら小一時間で着くところを二時間以上かけてイージスのジムへと着く頃には、正午を回っていた。

 途中で連絡を入れたとはいえ、遅刻だな。

「遅えぞ。こっちは昼メシ抜きだ。」

「すまない、イージス。」

 ドアを開ける。

 鉄サビとワセリンと汗の臭いに加えて、リングの上から声がかかる。

 床に出来た汗の水たまりを跳ね上げながら、イージスはシャドーをしつつ言ってきた。

 いい動きだ。

 あれだけ汗をかいてもキレのある動き、さすが保土ケ谷互柔賛拳会最高四位の実力はある。

 病さえなければ俺とトップの座をかけて拳を交えていただろうに。

「アップはやってきたよな?」

「ああ、走ってきた。」

「バス使えよ。」

「問題無い。この方が都合がいい。お前は。」

「見りゃわかんだろ。」

 タイマーをかけられたゴングがなる。

 三分だ。

「過去最高のアタシだぜ?」

 顔の形がわかるほどにピッタリとくっついた眼帯をゆがませて、イージスは笑った。

「五分後にスタートだ、用意しな。」

 イージスはボクシンググローブを取りつつ言う。

 ヤツのボクサーとしての能力は、白畑しらはた空虎くうこメタの一連の修行の総仕上げに必要になる。

 あの超動体視力と超反射神経、それによる一流のスピードと超一流のタイミングへの嗅覚。今の疲れきった俺のコンディションと合わせれば、白畑しらはたの目にも止まらぬ打撃の再現になるだろう。

 それに、ヤツとの喧嘩は一月ぶりだ。

 それを思うと、ランナーズハイに達した俺の肉体ガタイが更に高揚する。

 隻眼に対応したヤツのボクシング、公式戦無敗の女への勝利、本来の目的とは違うのに、イージスの二つ名を砕きたいという欲が抑えられない。

 俺は持ってきたグローブなどをカバンから出すと、すぐさま身に……着けるのはまずいな、ワクワクしすぎて焦っている。まずはストレッチだ。走ってきた肉体ガタイを喧嘩の体勢ガタイに整えねば。

 喧嘩だ、喧嘩だ! 喧嘩だ!!

「待たせたな、準備できたぞ。」

「ククっ……遅刻しといてそっちは早えな。待ちきれないってツラだぜ?」

「俺はグローブだけだからな。そっちは?」

「アタシもマウスピースとかはいらね。今日は試合じゃなくて喧嘩だし、それに……」

 口を水でゆすぐと、イージスはリングへと上がる。

「誰もアタシには指一本触れられない。」

「フフッ……前もその前もそう言って地面を舐めたのに、いい自信だ……」

「今日勝てば2勝2敗でイーブンだ。アタシに勝ち越して勝ち逃げできるなんて思うなよ?」

 俺も上がる。

 『令和の本多忠勝』、『アンタッチャブル・ガール』、『百の異名を持つ百年に一人の逸材』、そのあだ名のとおりの相手を、三度沈めてやる!

 カァン!

「保土ケ谷互柔賛拳会第一位、横浜市立丘小学校五年一組、武田ルイです! 対戦よろしくおねがいします!」

「保土ケ谷互柔賛拳会第九位、横浜市立桜ケ丘小学校五年一組、本多愛鈴子です! 対戦よろしくおねがいします!」

 ゴングが鳴ると同時に喧嘩士特有の挨拶を交わすと速攻を仕掛ける。

 ローキックからのミドル、ハイの三連蹴りを、イージスは難なく躱す。

 さすがだな、ボクサーでありながら蹴りに対して微塵も揺らがずに対処してくる。

 隙を見せて攻撃を誘ったのにも乗ってこない。

 ボクサーとしてだけでなく喧嘩士としてのヤツも死んではいない! 嬉しい! だがら殴る!

「シィっ……」ジッ「……」キュッ「っす、ふっ」ギッギリッ「……」ギギュ「しゃっあ」ビン「……」オン!

 足りないな、キレが。

 疲れた肉体ガタイではヤツの動きを捉えるどころかフットワークですら見切れない。

 だがそれがいい。

 今の俺とヤツの戦力差は、昨日の俺と白畑しらはたよりも広いはず。

 最近減ってしまっていた格上との喧嘩の勘を取り戻し、白畑しらはたを倒す道筋をつけるには、この喧嘩が必要だ。

 そしてとにかく、俺は勝ちたい。

 飢えている、勝利に!

「しぁぱっ。」

 死角を突く。

 急激な視力低下により眼帯を着けた右目、突くのならばこの隙だ。

 しかし。

「っ!」

「ぎっ……!」

 届かない。

 対応されている。

 右からの攻撃に対しての反応速度、違うか、反応タイミングが早まっている?

 前までのなぜ当たらないのかわからないレベルの直前での回避から、打ち始める一瞬前に回避を終えている、そう変えている。変化している。成長している? それとも劣化か。

 好機か?

 あの動きならば前よりもより体力を消耗しやすい。

 試合ではワンラウンドで勝ってしまうためにイージスにはスタミナが無い。

 これなら三分と待たずにスタミナを削りきれる。

 イージスの絶対回避が破れたのなら、あとは一発あれば良い。

 どんな攻撃も躱してしまえるために、イージスは殴られ慣れていない。

 そこを突きた――

 バオン!

「ぐうっ!?」

 ボディ!? マズい! ガードを!

「……っ! ! っ!」

「ば、はっ、はばっ!」

 ――危ない! 油断できない! 強い! いいぞ! これだ!

 拳のラッシュ!

 叩き込まれるジャブ、ストレート!

 牽制であるとわかっているのにガードを取らされる!

 早いだけで威力など無いのに、的確に急所を突いてくるそれは、まるでグローブが狙撃銃だ、拳というライフル弾が、俺の装甲を叩く。

 豆鉄砲でも弱点を突ければ殺傷できる。

 前に誰かが言っていた。

 鉄の塊のような戦車でも、隙間から一発の弾丸が入れば中の人間を殺せると。

 そうか、これかぁ!

 前は封殺してしまいわからなかったが、これがボクシングでの強さか!

 だが!

「じゃおらぁ!」

 下段回し蹴り。

 からの卍蹴り。

 からの足払い。

 カポエラの動きに派生。

 下段に構えたこの体勢ガタイ、ボクシングには無い低さ、どう対応する!

「っすっ!」「きゃあっら!」

 崩れたな、死ねい!

 下段突き「びべら」!?



「……知ってる天井だ。」

「おう、昼メシできたって。」

「……何分寝てた。」

「ワンラウンド。」

「……カレーか?」

「おう。ブタ。」

「……なんだそのメモ。」

「福神漬け切れたから買ってこい。」

「……」

「金は出さねえぞ。負けたんだからおごれよ。」

 俺は体幹を使って起死で跳ね起きる。

 そうか。

 負けたか。

 顎関節が痛い。

 フックを食らったな。

 こちらの下段が入ったところに合わせられたか、さすがのタイミングだ。

 だが俺の一撃でなぜヤツは沈まなかった。

 グローブを着けていたとはいえ、俺が疲れていたとはいえ、ヤツのタフネスの低さと、金的へのヒット、引き分けには持ち込める一撃だった。

 ……本当にそうか?

 ヤツならば、そもそも当たっただろうか。

 冷静に考え直してみろ。

 俺が万全のコンディションであっても、ヤツに打撃はまず入らない。

 ……まて、ならなぜ俺はあそこで下段突きを選んだ?

 ……そうか、判断力、か。

 落ちていたな。

 気づかなかった。

「ポイントカードは持ってないです。」

 なるほど、これか。

 振り返って考えれば、あの時のあの一撃、悪手であった。

「交通系ICカードでお願いします。」

 それに、そうか、アイツ、わざと受けたな。

 自分のパンチ、おそらくはフックを当てるために、一撃を受ける覚悟で。

「袋はいらないです。」

 ヤツのスタミナを考えれば、あの絶対回避ができたのはあと数十秒ほど。

 それまでに勝負を決めるために、こちらの踏み込みを利用した。

「レシートお願いします。」

 それだけではない。

 あの金的、今覚えばミートを外されていた。

 パンチというものには適切な射的距離というものがある。

 ボクサーであるヤツならば、射的距離の内に踏み込むことで、威力が出ないタイミングで受けることも可能か。

 その可能性は考えていなかった。

 アイツに、自分から攻撃を受けていくという選択肢があるとは。

 「指一本触れられない」というセリフの段階で、いつものアイツと見誤った。

 やはり、いい喧嘩士だ。

「買ってきたぞ。」

「おう。おっちゃん! ルイ帰ってきたぞ!」

「おう。ルイ、食ってくだろ。」

「はい。いただきます。それと福神漬けです。」

「買ってきてくれたのか? こらお前お客さんパシらせんじゃねえ!」

「負けたんだからいいんだよ!」

「おやっさん、手と顔洗ってきました。皿運びます。」

「おう。お前も手伝え! の前に手洗ってこい! 何もせずに席座んな! スマホイジんな! 服を着ろ!」

「下はいてんだからいいだろメンドクセー!」

「それと福神漬けのおつりどうした! ネコババすんじゃねえぞ!」

「……落とした。」

「ウソつくなお前買いに行ってねえだろうが! ルイ、払わされたんだろ。すまん、後でアイツから千円巻き上げていいぞ。」

「ハァー? なんだよそれ! カレー代だよカレー代! てかこいつ金的してきたしイシャリョーだろこれ! 女子相手にやるかフツー! あと卵落として!」

「てめえで持ってこい!」

 ……こんなうるさかっただろうか、このジム。

 前に来た時はジムに所属するプロが試合前ということもありピリついていたが、今はだいぶ雰囲気が違う。

 それとも、こっちの住居スペースではこういう空気なのだろうか。

 そういえばジムそのものは何度か来たことがあるがここに入るのは初めてだったな。

「いただきます。」

「おう、食え。アタシが作ったからな。うまいぞ。」

「お前玉ねぎの皮剥いただけじゃねえか。」

「ジャガイモとニンジンもムいただろ!」

 しかし、コイツは本当におやっさんの前だとキャラが変わるな。

 喧嘩士が喧嘩の時とそれ以外で人が変わるのは珍しくないが、人相まで変わるのはコイツの他には『猫喰い』と『トゥース・コレクター』と『エル・メルティスノゥ』と……なんだ、結構いたな。

 む、このカレー、旨い。

 ポークカレーだが辛味がしっかりしている。

 うん、結構辛いな。口に入れた時と飲み込んだときで二度辛い。

 それでいて豚の旨味がしっかりとルーから感じられる。豚だけじゃない。野菜もだ。

 おやっさんがここまで料理が上手いとはな。これがカプサイシンの食欲増進効果か?

 ……すごい、食べているのに腹が減ってきた。

「なあどっちが悪いと思う?」

「お前だ。」

「はぁー!? ルイお前アタシに負けといて何だその態度はよーえーっ!」

 面倒なので話を聞いていなかったが、たぶんイージスが悪い。

 しかしこのカレー、わずかに酸味があるな。野菜由来か? それともヨーグルトを隠し味に? いかんもう食べ終わってしまった。

 これは、すさまじいな。

 一杯食べたのにもう二杯食べたくなる。

 理論上無限に食べられるんじゃないか?

「おっちゃんお代わり!」

「自分でよそえ。」

「ケチー。ルイ、どうす「いただきます」食い気味かよ。じゃよそってきて。」

 コイツ徹底的に動く気がないな。

 二人分の皿を持ってキッチンへ向かう。

 米をよそいルーをかける。

 さあ二杯目だ。

「あー! お前これご飯とルーがセパレートじゃねーかよー! これじゃライスカレーじゃねえか!」

「すまない。いけなかったか。」

「たりめえだろ! カレーはご飯の上にまんべんなくルーをかけるもんだろうが!」

「今までそんなことしたことねえだろうが、ルイ、気にしなくていいぞ。」

「あと卵も入れろー!」

「お前何個卵食う気だバカ!」

「バカじゃねーしハゲ!」

「スキンヘッドだアホ!」

 うーん、二杯目も旨いな。

 む、いかんいかん、福神漬けを忘れていた。

「ハゲ隠しのスキンヘッドだろ!」

「福神漬けもらっていいですか?」

「いいぞ! こっちは現役時代からスキンヘッドだボケ!」

「ありがとうございます。」

「じゃあげむえんじじゃあからハゲじゃむ!」

「口に物入れてしゃべんな汚え! 食うかしゃべるかどっちかにしろ!」

 !

 おぉ、これだ、これこれ。

 一口噛んだときの食感、これが今までのカレーで慣れた口に心地良い。

 味も匂いも既製品なのに、この食感がそれを感じさせないレベルに美味しさを引き上げてくれている。

 そして米を――食う。

 ホカホカのご飯に、ブタの脂身と根菜の溶けたカレールー、そしてシャッキシャキの福神漬け。

 ワクワクする昼食だ。

 ……しまった、もう食べてしまった。

 三十回噛んでたよな?

 むぅ……

 腹七分目、いや六分目……もう少し食べれてしまう。なんならあと二杯はイケるな。

 こうして考えている間にも、カレーが胃から全身へと行き渡っている感覚がする。

 うーん、心地良い……

「ごちそうさまでした! ルイ、食い終わったろ、マルチ手伝え。」

「皿下げろ! ルイ、まだ食うか?」

「いえ、ごちそうさまでした……イージス、先に行っててくれ。」

 ……名残惜しいが、ここまでだ。

 さらばカレー、旨かったぞ、また会おう。

 俺は二人分の食器を持つと、流しに立ったおやっさんに渡す。

 さて、手伝おうとは思うが、他人のキッチン、勝手が違うな。

 下手に手を出せば邪魔をするし、どうしたものか。

 む、福神漬けの袋が出しっぱなしだ。

「これ、冷蔵庫に入れておきますね。」

 おやっさんの後ろを通りながら言う。他人の家の冷蔵庫というのは独特の匂いがするな。家の冷蔵庫も、JやKからは俺が感じるのとは別の匂いがするのだろうか。アイツら勝手に開けるからな。

「……ちょっと、話さないか。」

「――はい?」

 なんだ?

 おやっさんのつぶやき? 普段と声の色が違う。普段というほどの付き合いは無いが。

 おやっさんは、食器を洗うのも後にして手を拭いた。

「お茶飲むか?」

「いただきます。」

 そして福神漬けを引き取ると、代わりに何か取ろうとして、テーブルの上をチラリと見る。麦茶の容器が汗をかいていた。

「まあ座れや。」

 なんだ、この空気は。

 喧嘩の時とは違う、粘ついた圧迫感のある空気。

 向かい合って座ると、それをより一層強く、感じる。

「アイツ、どんな感じだった?」

「楽しそうでしたよ。」

「……喧嘩士としては?」

「右側への警戒が前の比じゃありませんでした。過敏だとも思いますが。」

「…………変わったところは無かったか?」

「たくさんあります。なにより、前よりも強くなりました。ただ……」

「……ただ。」

「……ただ、もし右目さえ病まなければ、今とは違った形の強さを得ていたとは思います。」

 俺の言葉をどう受け取ったのか、おやっさんは数分間黙った。

 どこかでバタンと音がした。

 それをキッカケにしてか、おやっさんが動いた。

 手をテーブルへとつき、額を頭突きするような勢いで下げる。

「アイツの右目は、手術すれば――」

「おうルイ! おせーぞ!」

 ドタドタという足音と共に、イージスの声が響いた。

「……すみません、なんでしたか?」

「……いや、アイツの部屋行くときにお茶菓子持ってくだろ? ほら、歌舞伎揚げが戸棚にあるから。」

 な、と言って、おやっさんは俺がイージスの部屋に行くようにと促した。

 それで話は終わった。

 しかし、あの感じ。

 ああいう大人の空気は味わいたくないものだ。

 大の大人が、子供に頭を下げる時は二つ。

 自らの過ちを認めて誤魔化さずに下げる時と、子供の親に取り入る時、だ。

「おせえよバァカ。アタシ眠たくなったから寝っから。」

「……」

「なんだよ?」

「……俺も眠くなってな。今日は帰る。」

 今イージスと一緒にいれば気取られる。

「待てよ。家まで走って帰る気だろ。今度は二時間じゃすまねえだろ。」

「問題無い。食後の運動だ。」

「バカが気絶したヤツがカッコつけんじゃねえよ。寝てけよ。」

「どこでだ?」

「ここ。」

 床か、女子の部屋でか、マジでか。

「せっかくだが、遠慮しておこう。」

「ア? お前アタシに負けといて口ごたえする気か?」

 そう言われると弱いな。

 しかたない、応じよう。

「おう、アタシの部屋で寝させてやんだから感謝しろよ。」

「ああ。」

「お前寝んのそこな。それ読み終わった雑誌だから枕にしていいぞ。」

 人の部屋の床で雑魚寝か、変な感じだな。

「それと寝てるからって変なことすんなよ。いくらアタシはカワイイからって。」

「フッ。」

「おい今鼻で笑っただろ。」

「カワイくないとは言っていない。控えめに言っても中の上以上ではある。」

「ほめんならちゃんとほめろよ。まあいいや、とにかく、寝てるからって変なことすんなよ。さっきみたいに触ったりしたら殺すぞ?」

「ああ、心配するな。喧嘩の中でなけれればそんなことはありえない。それに。」

「それもなんか腹立つな。それに?」

「それに、俺の方がカワイイ。」

「もっかい気絶させんぞ、ア?」



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