#15『ジュラシックツリー』

 走る。

 とにかく、全速力で。

 足を一心不乱に動かし、前へ前へと進んでいく。

 スニーカー越しの地面は腐葉土の所為でよく踏み込むことが出来ない。

 おまけに体をひねって歩みを進める度、両手で抱えたポリタンクが揺れてバランスを乱してくる。

 しかしそれでも、進まなければならない。

 あと数十メートル進みさえすれば、自分の目的は達成されるのだ。

 フレッドは息を切らせながら、思った。

 これは生存競争だッ―




「例えば、アカシア。あれなんかは絶滅の歴史を乗り越えて来た立派な植物ですよ」

 植物学者と名乗った男は丸太に腰を下ろして目を輝かせて口を開いた。

「アカシアですか?」

 フレッドは汗をタオルで拭いながら植物学者の隣に座る。丁度、尾根に位置していたその場所からはウォレマイ国立公園の広大な大地が一望できた。

「サバンナに生えているアカシアと言う植物は動物に食べられると、途端に毒素を発生させてその実を防御するんです。それもほんのわずかな時間で」

「それじゃあ、まるで植物が、自分が食べられていることを分かってるみたいですね」

 植物学者はふふっとわずかな笑いを漏らすと続けた。

「凄いのはこのアカシア、一本が食べられ始めると特殊な花粉を放って周囲のアカシアに危機を知らせるんです。すると周りのアカシアも毒素を持つようになる」

「ほぉ………そりゃあ凄い」

「こうやってアカシアは動物に食べつくされることも無く、数百、いや数千年もの間種を守り続けて来た。いわば、生存競争です」

「生存競争か………」

 そう呟くとフレッドは鼻を指でかき、立ち上がり

「じゃあ私達はさしずめ、植物と生存競争をしに来たってわけですね」

 と笑った。

「森林の調整も大事な自然保護ですよ」

 植物学者がフォローを入れる。

 フレッドは自分の作業服を手で払いながら前に止まったトラックの荷台から機材を運び出していく。

 森林伐採業者であるフレッドは国から委託され、これから木を伐りに行く所だった。伐採と言っても資材を集めたりするのではない。森林の植生を健全な状態に保つため、古くなった木や日照を妨げる木を定期的に切り倒すのだ。


「おい、そろそろ休憩終わりだぞッ」

 トラックの影から声がして、髭を蓄えた顔が覗いた。フレッド達の班は彼を入れて4人。今声を掛けた班長、ケネスに続いてニック、ロニー。フレッドは4人の中で最も年少、今年から仕事を始めた新人であった。

「もうやってます、よ」

 フレッドは機材を降ろしながら素っ気なく応える。

「すみません。お仕事中に」

 植物学者もパンパンと腰を叩きながら立ち上がると、歩行用のピッケルを手首にセットし始めた。

「いえいえ。楽しいお話でした」

「ちなみにどこへ?」

 フレッドは尾根から少し上がった所にある崖を指さした。崖の上には周囲から切り離されたように巨大な樹が群生している。車道は愚か、トレッキング用の途中で切れているような場所だ。

「あそこですか?」

「はい。根が岩場に張ると厄介ですからね。早いうちに摘んでおくんだそうです」

「そうですか…………」

 学者は目を細めながら森を睨む。


「おい、フレッド。これも降ろせよ」

 荷台から声が掛かりフレッドは顔上げる。フレッドの先輩、ニックだった。ギョロギョロとした下品な目つきがどうもフレッドは気に入らない。

 ニックはタバコを加えながら足で半透明のポリタンクを蹴る。タンクの正面には腐食剤と大きく描かれたラベル。

「ちょっと、ニックさん。タバコはやめてください」

 荷台に上ったフレッドがポリタンクを掴みながら言うと、彼は舌打ちをしてタバコを放り捨てた。

「では、私はこれで失礼します」

 植物学者はフレッドに頭を下げると彼等とは逆方向に向かって歩いていく。

「何話してたんだ?」

 腐食剤の注入器を抱えた背の高い男がフレッドを見上げながら呟く。ロニーだ。

「いえ、別に……」

 数秒、彼の後ろ姿を見送りながらとフレッドは呟いた。


 


 重い機材を抱え、30分ほど登る。まさに道なき道を行くという風に、登れば上るほど、近づけば近づくほど道は険しい。群生地に入ると山中を掻き分ける様な状態で進まなければならなかった。

 そこは薄暗く、しんとした森であった。高くそびえる木々が日光を遮っているのだ。もう数年、いや数十年はここへ立ち入った人間はいないのではないかと思えるほど、植物は自然のままに辺りを征服していた。

 絡まり合うツタ、絨毯のように敷き詰められた草。剥がれてボロボロになった樹皮が辺りに散乱している。松の匂いがそこから漂ってきているようであった。


 少し開けた場所にフレッド達は機材を降ろすと早速作業に取り掛かる。班長のケネスとニック、そしてフレッドがチェーンソーを、ロニーが腐食剤を使って木を始末する。

 静かな森にニックが引いたエンジン音が木霊して一斉に鳥たちが飛び立っていく。フレッドも一本の木の前に立つと仰ぐようにしてそれを見上げた。木は恐ろしいほどの高さで彼を見下ろしている。

「おい、よそ見してると怪我するぞ」

 ケネスの静かな声でフレッドは頭を下げ、手に持ったチェーンソーに手を掛けた。

「珍しい鳥でもいたのか?」

 続けざまにロニーが腐食剤の入ったポリタンクを持ちながらフレッドへ明らかな嘲笑を向ける。

 フレッドは何か言い返そうかと、奥へ進んでいこうとするロニーを視線で追う。

 数歩言った所で、ロニーの身体が前方へ流れるように沈み、ばったりと倒れてしまった。


「ッ!」

 痛みの声を上げて立ち上がるところを見ると何かに躓いて倒れたのだろう。ロニーは膝をしきりに抑えながらその場に蹲る。

「大丈夫か?」

 ケネスが木の影から身を乗り出し、尋ねるとロニーは首を振るった。ケネスはその様子を見て二三度顔を顰めると、チェーンソーを降ろし彼の元へ駆けつけて行った。

 フレッドはその様子をじっと見つめるのも気が引け、フッとニックの方を見る。

 ニックはロニーの様子などまるで気にしていない様にチェーンソーを大木の幹に食い込ませている。木片と木くずを撒き散らしながらチェーンソーはどんどん、中へ食い込んでいく。

 途端に鈍い音が聞こえ、刃の回転が止まった。珍しいことではない。木片がチェーンの隙間に詰まったり、特段幹の固い場所に触れたり、昔に打ち込んだ釘などに刃が触れ止まってしまう事はよくある。

 音は聞こえなかったが、口の動きでフレッドにはニックが舌打ちをしたのが分かった。

「フレッドッ」

 ケネスの呼ぶ声で再び視線を戻し、フレッドは彼の元に駆けて行った。

「肉離れだ。この様子じゃしばらく歩くのは無理だ」

 ケネスはロニーの太ももを指さしながら言う。たくしあげたズボンから露わになったロニーの足は中で虫が這っているかのようにぴくぴくと痙攣し、足首が伸びきったままになっていた。

「ッ………こんな場所に木の根になんて無かったのによッ…………」

 脂汗を顔に浮かべたロニーが指さす先には地面から盛り上がる様に太い根が姿を見せている。地面が岩場なので根が地中深くまで入り込めず、はみ出しているのだろう。

「とにかく、ロニーは動けん。フレッド、お前が薬の方は変わってやれ」

 頷きながらフレッドがケネスを見ると、その後方でまだチェーンソーと格闘しているニックが見えた。ざまあみろ― 不意にそんな感情が湧いて彼はにやけ顔を浮かべて下を向く。

 彼が直接その瞬間を見ることが無かったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。

 フレッドが下を向いたその瞬間、ぎいぃゃああッ―という凄まじい男の声が耳をつんざき、そしてけたたましいモーター音がそれを掻き消した。



 ニックの顔面にチェーンソーが食い込んでいた。それを顔と認識するのは難しいほど、ニックの顔はどす黒い鮮血と飛び散った肉片に塗れている。チェーンソーの重みに押し切られる様にして彼の身体が地面に仰向けに沈むとケネスが反射的に走りだしていた。

 体が震えていた。辺りにはまだ止まることを知らないチェーンソーの音が響き渡っていたがフレッドの耳には何も聞こえておらず、唖然とした口を閉めることすらも意識が回らなくなっていた。

 木に食い込んだチェーンソーを引き抜こうとして跳ね上げを起こし、怪我をするということは聞いたことがある。しかし、ここまですさまじい物だと誰が思えるだろうか。

 ケネスがチェーンソーをニックから引き剥がし、停止させる様子がフレッドにはスローモーションのように見えていた。

 ケネスがニックの身を抱えながら何かを叫んでいる。

 と―

 人の頭よりも二回りほど大きく黒い、巨大な塊がどさっとケネスの頭へ落ちて行った。

 ケネスの頭に直撃したそれは、煙を上げるようにして崩れていく。巻き上がった煙の中からは無数の小さな粒のような物が渦を巻くようにして彼の周囲を取り囲み始めた。

「は、ハチだっ………」

 震える声でロニーが呟く。

 こんな高地に蜂なんているはずが― しかし、フレッドの考えとは対照的に、それに全身を覆われてしまったケネスは数回体を震わせると地面へ伏した。

「そ、そんな事って………」

 風が吹いた。高原にしては生温かく、湿った厭な風である。風の中に微かな鉄の香りと、濃い松の香りが混じっていた。

 揺れる木々のざわめきが森に木霊してごぅごぅと腹に響く音を立てる。

 風が通り抜けていくと森はまた、異様なまでの静けさを取り戻した。

 胸の動悸をフレッドは手で押さえ、頼るような気持ちでロニーの方を振り返る。

 ハッと息を呑んだ。先ほどまで半身を起こしてたロニーはいつの間にか地面に倒れ伏している。

「ろ、ロニー……さんッ」

 見ると首にツタが巻き付き、締め上げている。

「うぁぁあッ!?」

 引き抜こうと手を掛けたツタはシッカリと、既に数年も前からそこにあったかのようにして、ロニーの首へ巻き付いている。

 息は無く、唇は既に青白く色を失っていた。

 もがき苦しむ暇も無かったのではないか、ロニーは四肢を真っ直ぐ寝そべる様にして死んでいた。


 この森が俺達を殺そうとしている― フレッドは直感的にそう思った。考えが頭を過ると薄暗い森の空気がずんと重くのしかかってきているように感じた。頭上を仰ぐと数十メートルもある無数の大樹が自身をを見下ろしている。

 少しづつ呼吸が荒くなった。

 恐怖だ。圧迫感と無数の目に見張られているという感覚が胸を締め上げ、汗腺を刺激してくる。

 震える足を止めたのは、意地ではなくフレッドの怒りだった。

 目の前のロニーそして向こう側で死んでいるニックとケネス。確かに100%いいやつではない。しかし、いくらかの情はあった。

 怒りが胸に満ち始めると途端に恐怖が消えて行き、仇を取ってやろうという安易な発露を見せたのだった。

 ロニーの脇に置かれたポリタンクを掴むと、目を細めて数十メートル先に放り出された注入器をサッと見た。

 生唾を飲み込むと、松の香りを肺いっぱいに吸い上げて走り出した。


 走りながら植物学者の言葉が頭を過った。

 生存競争― そうこれは生存競争だ。植物が死ぬか、それとも自分が死ぬか。衝撃的な瞬間を連続で体験した為冷静な判断が出来なくなっていたのかもしれない。しかし、今のフレッドにはそうとしか思えない事態であった。

 走る。

 生きる為と言うよりも、植物を始末する為と言う気持ちの方が強かった。数百、数キロ離れている訳ではない。ほんの数十メートル。届かない距離ではなかった。

 しかし、十数メートル走った所でフレッドは何かに躓いてその場へうつ伏せに倒れ込んだ。柔らかい土は幾分衝撃を吸収してくれたが、投げ出されたポリタンクのキャップが飛び、とくとくと薄緑の液体が辺りに撒き散らされている。腐食剤は注入器で幹に直接薬剤を撃ち込まない限り効果はない。

 フレッドの目はグッと顰めるように険しくなる。

 足にははみ出した木の根っこが当たっていた。ほんの少し前までは確かにそこには何もなかったはずなのに。

 ツンと鉄―血の生臭い薫りが鼻を突く。

 目の前では目も当てられない程損壊したニックの顔が転がっている。視線に入れない様にフレッドはゆっくりと立ち上がると、何かを思いついたようにニックのポケットへ手を突っ込んだ。

 胸ポケットは血でぐじょりと湿っており、弄るだけでも不快だった。程なくしてフレッドは手を抜く。

 彼の手には血塗れになってほぼ湿ったタバコとまだ辛うじて生きているマッチが握られていた。

 荒ぶる鼻息を押さえ、フレッドは意味も無い雄叫びを上げた。声は森の中を反射し、遠く遠くへ響き渡っていく。同じほどのボリュームで続ける。

「俺の勝ちだッ! 注入器なんかいらねぇんだッ!」

 風がまた拭いた。今度は腐食剤のケミカルな匂いが辺りに充満する。

「腐食剤は火気厳禁だぁッ!」

 叫びながらサッとマッチを擦った途端、気化した薬品がどっと引火して空中に巨大な火の塊を作った。

 


 森が燃えていた。

 乾いた樹皮と草木がパチパチと火花を散らし、業火が辺りの木を包んでいく。いくら風が吹いても腐食剤に引火した炎は消えない。それどころか、炎は酸素を喰らい、どんどんその体を広げていく。空中に散開していたハチもその姿を何処かへ消し去っていた。

 舞い散る火の粉の中でフレッドは茫然として立っていた。

 彼を我に返したのは何者かの呼び声であった。声は後方、それも大分近い。叫び方からしてしばらく前から問い掛けていたのかもしれなかった。

「だ、大丈夫ですか?」

 汗だくで息を切らした植物学者がそこに立っていた。彼は茫然としたフレッドの顔を少し見て、視線を泳がせる。

 傍に転がったニックの死体を見たらしき植物学者は深く目を閉じ、

「何が………あったんです?」

 と尋ねた。

 緊張と恐怖を押し殺したその声は微かに震えている。

 鼻を何かが打ち、ツーッと流れて行った。フレッドは顔を上げて天を仰ぐ。梢の隙間から覗く空が黒く染まり始めている。

「生存競争です………」

 フレッドが静かに呟くと、大粒の雨が少しずつその量を増やしていった。




 あの事件から数年経った今でもフレッドはたまに思い返す。

 あれが仮に生存競争だったとして、自分は勝ったのだろうか、と。

 結局、降り出した大雨が山火事を消し、自分は生き残った。しかし、あの場所に群生していた植物もまた、無傷のままそこに残っている。

 いや、それだけではない。

 植物学者があの大樹を発見してしまったのだ。まさに奇跡、運命と言う言葉を思い浮かべずにはいられなかった。

 あの大樹は新種だったのだ。それも、人類が生まれるずっと昔、巨大な爬虫類が闊歩していた時代から連綿とその遺伝子を繋いできた、太古の植物だった。

 ジュラシックツリー、その植物はそう呼ばれた。

 植物は保護され、より厳重に管理されることになったらしい。

 それを聞いてフレッドは思うのだ。

 あの植物は生存競争に勝ったのだと。

 植物学者に発見されたのも、雨が降り出したのも、そしてフレッドが火をつけた事さえも全てあの植物の計算通りだったとしたら………



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