#8『さよならマリオカート』

 ずっとしまい込んでいたそれをいつきが思い出したのは、引っ越しの時だった。10年近く住んだ四谷のアパートを引き払う事になり、荷造りをする段になって、それは押し入れの底から、無印良品の紙袋に入って出てきたのである。

 中にはWiiの本体とコントローラー、幾本かのケーブルとゲームソフトが一本入ってた。その瞬間、鋭くて冷たい塊が樹の胸を突き抜けた。それは、数年前、病気で死んだ彼女の私物だった。


 あおいが樹の彼女になったのは、2007年の冬。当時二人はまだ大学生で、幼くもそれなりに真っ当な愛を育んでいた。

 共通の趣味はなかった。カメラが趣味だという葵に対し、樹の趣味はサッカーだった。お互いの趣味を押し合うのも悪くはなかったが、二人ですることと言えば専らゲームだった。

 人並みにゲームをして来た樹に対し、ほぼ未経験の葵ではどうしても力さの差があった。圧倒的に打ち負かしてやっても、葵は勝つまでもう一回と言って聞かず、樹もそんな彼女の負けん気が好きだった。


 病気が見つかったのは大学4年の夏。癌だった。病室で暇そうにしている彼女に樹はWiiを差し入れしてやった。ソフトはマリオカート。それは二人の間で最早定番と化したゲームで、シンプルが故に奥深く、手加減をしてやらないと、葵が絶対に勝つことの出来ないゲームでもあった。

 退院するまでに腕を上げておけ、と彼女に入ったが樹にとってそれは保険のような物だった。また、なじりあいながらゲームがしたい、いや出来るはずだ。当然の未来について約束することが、彼女の無事を保障してくれるような気がしたのだ。


 しかし、それは叶わなかった。若くして癌に罹患すると進行が早いといわれる。みるみるうちに癌は彼女の身体を蝕み、たった一年半ほどの闘病の後、彼女は死んだ。


 押し入れの底から出てきたWiiは彼女の両親が、形見にと樹に手渡したもの。しかし、それから一度もやっていない。色々なことを思い出してしまいそうな恐怖とそれを受け止めきれるのだろうかという不安。こんな場所へ隠すようにしまい込んでいたのも、そんな理由からだった。


 紙袋を床へおろし、自分も座り込む。ため息を吐いて、テレビの方へ這いずっていくと、おもむろにWiiを繋ぎ始めた。

 起動するとマリオカートが入ったままになっている。懐かしさを噛みしめながらコースを周回していると、過去をそれなりに咀嚼出来ている自分に気づいた。残酷だが、時間は最良の鎮痛剤だ。もうあの頃のような、全身を締め付ける苦痛はなくなってしまっていた。


 ひとしきり、ゲームをやった後、ふとタイムアタックに目を止めた。特に何も考えず、適当なコースを選び、ボタンを押す。

 スタート画面が表示され、はたと気が付いた。


 葵。彼女がお化けになって戻って来ていた。

 タイムアタックにはゴースト機能と呼ばれるものがあり、最速のレコードを記録した際のデータが半透明のプレイヤーとした表示される。


 半透明で覆いかぶさるように明滅しているヨッシーは紛れもなく、彼女のゴーストだった。


 両手が固まり、スタートダッシュで出遅れた。走り抜けて行くヨッシーを見て、笑みが漏れた。追尾するように発進すると、無我夢中で彼女を追いかける。

 上手い。コーナリングを攻めながら樹は思った。こんな華麗なドリフトを決めることが出来るようになっていたとは。彼女は病室で日がな一日、ずっとプレイし練習していたに違いない。


 コントローラーを持つ手に力が籠り、束の間、彼女の死や悲しみのことを忘れていた。

 最終ラップに差し掛かっても、伸るか反るかの大接戦だった。葵は華麗にインコースをドリフトでカットし、無駄な挙動を一切見せない。

 最後の勝負はゴールまでの直線に託された。ほんの僅かヨッシーが先取を守っている。回り込むようにドリフトをかけると、樹のデイジーが先頭を奪取した。ゴールは目の前にある。


 と、樹は手を止めた、一瞬の間もなく葵がすぐそばを擦り抜け、ゴールした。

 やはり手加減をしなければ葵に勝ってしまうな、そう心の中で呟くと、

「うっさい、大接戦だったじゃん」

と彼女は返す声が聞こえた気がした。


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