#5『1922年のスチームトラクター』

―1922年 夏 アメリカ アナハイムで―


 どぅどぅどぅ………と小刻みに振動音が聞こえる。

 煙突からはもうもうと排煙が吐き出され、あたかもこの巨大なトラクターは生きているかのようだ。久々に動かしたにも関わらず、トラクションエンジンの調子はすこぶるよかった。

「久しぶりに動かしてもらえてうれしいのか?」

 ザックは煤がついたスチームトラクターの横っ腹をどんと手でたたき、そう声をかけた。


 納屋の中でうなりを上げるそれは1922年にしてもかなり古く、年代物と言って差し支えない代物だった。

 それもそのはずだ。このスチームトラクターが作られたのは1898年。動力機関がまだ、蒸気で動いていたギリギリの時代に作られたものなのだ。



 ザックがこれを手に入れたのは半年前―

 住み込みで働いている親戚の農園主に新しい耕作機を買ってくるように頼まれ、町へ出た時だった。

 中古重機の販売店の隅でほこりをかぶっていたそれを、店主の老婆は「幸運を運ぶ素晴らしいトラクター」だと破格の値段をザックに見せた。

 その時のことをザックはあまりはっきり覚えていない。気が付くとそのトラクターを農場へ連れて戻り、試運転のため動かそうとしていた。


 それを見た農主のジョージは烈火のごとく激怒し、まだ十七にも満たないザックのほほをその太いこぶしで勢いよく殴打した。一度でも強烈なその攻撃は二度三度と、容赦なく繰り返された。

 殴られ終わり、地面へ這いつくばろうとしたその時、やっとトラクターの蒸気機関が作動し、ゆっくりと胎動し始めていた。


――お前の死んだ母親と偶々、血がつながってるからまだこの農園で働かせってやってるんだぞ! その恩をお前は分かってるのか? ったく、俺がどれだけお前の面倒を――


 農主が嫌味を口から吐き出し終わるのを待つ間もなく、トラクター上部の動力シリンダーに引っかかっていた古釘が勢いよく打ち出された。


 釘は弾丸にも似たそのスピードで農主の頭を砕く。


 バッと鮮血が花のように宙へ散開する光景は今でもザックの目に焼き付いている。

 貫通した釘はその速力を弱めることなく、納屋の柱へ深く食い込んだ。


 それを見たザックに驚きこそあったが、悲しみや恐怖はなかった。

 むしろ、自分を虐めこき使っていた農主が死んだことに喜びすら覚えていた。さあもうこれで農主の下でキツイ農作業などしなくてもいいのではないかという思いさえあった。





 納屋からトラクターを出すとゲイルが水浴びをしていた。

 朝の刈取りを終え、汗まみれで火照った体に水を浴びせている。


 農主は確かに死んだが、ザックの考えるほど現実は甘くなかった。

 この過酷な労働から解放されることはなく、ジョージの跡を継いだ彼の弟、ゲイルは下手をすれば兄よりもたちが悪かった。

「ザックッ!」

 トラクターとザックを見たゲイルが声を荒げた。期限が悪い時の呼び方だとザックは直感した。もっとも、機嫌がよい時などほぼなかったが。

「なんでそいつを使ってやがる! そいつは納屋から出すなといったろう!」

 サスペンダーを下へ垂らし、シャツを脱いで半裸になったゲイルが体をふきながらトラクターへと近づく。


「違うんです、ゲイルさん」

 ザックは弱弱しく答える。こういう時は下手に出るのが定石だと彼の体には染みついていた。

「何が違うんだ? えぇ?」

「おじさんの赤いトラクターの調子が悪いんだ。だから、今日はこいつを使わないと………」

 ゲイルが遮るように叫んだ。

「口答えするのかてめぇッ! お前などダラスの寄宿学校へやってもいいんだぞ!」


 ―そんな金もないくせに、ザックは心中でそう呟く。

「じゃ、じゃあどうすりゃいいのさ………」

「トラクターを直しゃいいだろ!」

「それじゃ日が暮れちまうよ」

「だったらどうした。日が暮れてから作業すりゃいいだろ」

 これ以上の抵抗は無意味だと思ったザックは小さい声で、分かりましたと答えた。



「ったく……忌々しいトラクターだぜ………そのうちスクラップにしてやるからな」

 ゲイルがスチームトラクターの車輪を蹴って立ち去ろうとしたその時になってやっと異変に気が付いた。

 足元へだらりと垂れていたはずのサスペンダーがトラクターに向かって突っ張っているのだ。サスペンダーのゴム紐が伸びた先にはトラクターの側面についたフライホイールがある。


 ゴム紐は今こうしている間にもじわじわとホイールの中へ引き込まれていく。手を軸に引き離そうとしても駆動するトラクターの体はボイラーそのもの。とても手で触れられるようなものではない。

 焦ったゲイルはサスペンダーを掴んで後退した。

「お、おいッ! ザック、今すぐこのクソトラクターを止めるんだッ!」

 蒸気機関が発する力はとても人間がかなうものではない。

 じわじわと近づく巨大ボイラーの熱さでゲイルの額に再び汗がにじみ始めた。


「ザックッ! なにボーっとしてやがるッ! 早く、早く止めろッ!」

 目の前の事態を呆然と見つめていたザックはゲイルの言葉ではっと気が付き、トラクターを止めにかかった。

 しかし、一度動き出した蒸気機関を瞬時に止めるのは至難の業だ。そばで怒鳴り声と罵声を浴びせる叔父がいればなおさらのこと。

 ゲイルはゲイルで地面に両足を踏み入れ、中腰の姿勢で何とか踏ん張って耐えていた。しかし、朝の農作業で疲れ切った足腰はそう長くはもたない。


「まだかッ! まだ止まらねえのかッ!?」

 ゲイルの言葉にザックは応答する余裕もない。


 ゲイルは中腰姿勢のまま、辺りを見やった。

 引き抜くことと、トラクターの停止が絶望的と考えた彼は目の前で回転するフライホイールを破壊出来るものはないかと探したのだ。


 納屋の入り口にスペードが立てかけてあるのが目に入った。


 それは彼を試しているかのような絶妙な距離にある。

 ゲイルは右足をトラクターと45度の角度になるように入れ、もう片方で外側へ足を延ばし、体を名一杯鋤へ近づける。体がスチームトラクターから少し離れただけと言うにも関わらず、涼しく感じられた。


 だが、まだ足りない。


 片手で突っ張った紐を掴み、それを命綱にするかのようにしてもう片方の腕を鋤へ伸ばした。筋肉が伸縮しているのが自分でもわかる。 筋がぴしぴしと音を上げているのも聞こえてきた。


 人差し指の先がざらっとした鋤の取っ手へ触れた。


 あとほんの少し、あとほんの少しで鋤が掴めそうだった。もどかしさと焦りが彼を大胆にする。

 サスペンダーを引っ張り、体をゆすって少しでも距離を縮めようとした。

 ザックを呼びたかったが、声を上げてしまえば体に込めた力が一気に解放されてしまいそうで躊躇った。


 1cmも無い。ほんの数ミリの距離が彼を苦しめる。



 ―届けっ― それはゲイルの最後の思考だった。



 トラクターは鋤からゲイルを引き離すかのように身を震わせ、急速に発進した。

 ゲイルの身体が地面へ叩きつけられ、バウンドした後、フライホイールの中へ巻き込まれていくのをザックは見ていた。


 彼は見ながらは頭の中で―僕はトラクターを動かしていない―という事を何度も自分に言い聞かせ、手の感覚を確かめていた。

 しているはずが無かった。自分の手には炉を鎮火させる為に汲んだ水がバケツ一杯に溜まっている。トラクターは自分よりもだいぶ離れた所にあったのだ。


 ばじゅっと肉と骨が砕ける音がした。

 トラクターは血を巻き上げながら中速で農園の中を進む。


 数分農園を駆け巡った後、トラクターは勝手にザックの元へ戻り、停止した。


 黒いトラクターの車体は鮮血に塗れ、ぬらぬらと輝いている。

 止まっていたフライホイールが再び回転し、どろりと最早どこの物と判別の付かない肉塊を吐き出した。

 辛うじて髪の毛と爪の欠片だけがそれが以前ゲイルであったことを物語っている。


「うっ……」

 匂いと光景。それがザックの胃を刺激した。


 傍へ吐瀉物を巻きながらザックは思った。

 体の反応に反してその思考は冷静だった。


―これは幸運を運ぶトラクターだ。絶対そうだ―







 目の前にはスーツを着こんだ男が二人いた。

 彼らは早く話を付けたいのか、机の上に出されたアイスコーヒーに一度も口を付けていない。

 水滴がグラスに浮き出し、下へ向かってつぅぅっと垂れた。

「あなた達も懲りないな。アナハイムにあれを作った時から、もう何回目になるか?」

「4回です。新しく作る際には必ずお話を伺いに参っていますから」

 男は冷静に答えた。胸ポケットに刺さったペンの先にあのネズミのマークが彫り込んであった。


「なぜ、そんなにもあのスチームトラクターにこだわる?」

「創始者の意思、とでも言いましょうか」

「もう死んでるのにか?」

「意思を引き継ぐのが我々の役目ですから」

 ザックは男の言葉を聞くと大きくため息を吐いた。目の前の男達、いや男達が所属する会社、いやもっと言えばあのネズミを作り出した男、がなぜあそこまでトラクターにこだわるのか理解できなかった。確かに、あれは今となっては世界に数台しかない貴重な物だ。


 しかし、なぜそこまであのトラクターにこだわるのだ。


「毎度来てもらって悪いが……あれは売らないよ。俺が17の頃から大事にして来た物だからな」

 幸運を呼ぶトラクター。老婆の言ったことは事実だった。ゲイルが死んだあと、農園の所有権は親族の間を渡り歩き、最終的に広大なオレンジ畑はザックの物になった。

 妻と出会えたのもあのトラクターのお陰だった。


 そして何よりも、今こうして潤沢な貯金を持ち、悠々自適な生活を送っているのはあのオレンジ畑が売れたからだ。

 テーマパークを作るのだと農園の土地を買った男は言った。

 ザックはその時もトラクターとのお陰と信じて疑わなかった。

 だが、その男は帰り際にトラクターを見つけ、売ってくれと言った。

 無論、ザックは断る。理由は言わなかった。ただ、トラクターを大事にしているからだと伝えた。


 それから、何度も男は交渉に訪れるようになった。

―あの男は直感的に感じているのだ、このトラクターの力を―ザックは思った。


「今回も駄目ですか……」

 目の前の男は残念そうに言ったが、あくまでそれは演技だった。男達もザックが断ることを知っているのだ。

 男2人が腰を上げようとしたその時、ザックの背後から声が掛かった。


「あなた、いい加減売ってしまいなさいよ」

 妻だった。

「おまえは黙っていろ。何度も言っただろう、あれは……」

「場所を取るだけで動かない鉄くず。そんなものにこだわるよりも私は旅行にでも行きたいわ」


 結局、ザックは妻のその一言でそれを手放した。

 行先を聞くと日本の東京だという。

「東京か……」

 引き取られていくトラクターを見たザックは不思議と肩の荷が降りた気がした。



―ザック・シンディは数週間後、旅行中の飛行機事故で命を落とした―

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