第32話 伊勢川ミホカの再会(2)

 いまおれの眼前には、鳥居が立っている。

 小島の脇に控えている昼子を追い越して、一歩、前に出た。


 鳥居の中を覗くと、半ば海水に浸かった巌石が突き出していて、その上に祠があるのが見えた。やっぱり幸い部の外にあるのと同じだったけど、相変わらず何が祀ってあるかは判らない。


「ここを抜ければ、いける―――」


 おれが願ったのは、元の世界に戻るだけではなくて、その先へ行くこと。そこには、見たことのない景色が待っているのかもしれない。

 不安がないと言ったら嘘になる。だけど、それ以上にわくわくしてもいた。ここを抜けたら、何が起こるのだろうと。


「ありがとう、昼子。きみのおかげで、助かっ…」


 ふと振り向いた。しかし。


「あれ……?」


 少女の、日月昼子の姿はなかった。その代わり。

 

けん―――?」


 そう、あの剣だ。〈災い〉の化け物に襲われた時おれを助けてくれた剣が、小島の脇に刺さっている。

 さっきの強風を最後に、雨も上がっていた。雲間から日が覗いて海と陸を照らし、急拵えの橋の代わりに、束の間の虹が架かっていた。

 光と影を反射して、刀身が七色に煌めいた。


「まさか、この剣があの少女だったってことは――」


 ただの空想だ。そうだったら漫画やアニメみたいで、面白いというような。

 浜辺に立つ剣を抜いた。重いはずなのに、軽く馴染んで感じられる手触り。

 置いていくわけにもいかないし、これも持っていくしかなさそうだ。まあデザインがアレだし、子供の玩具か、舞台の小道具だと思われるだろう。


「ありがとう。さようなら」


 最後に、おれはなんだかんで、これまで自分を生かしてくれていた世界にお礼と別れを告げた。

 そして前を向き、鳥居をくぐる。


 あの剣と同じ、いや、もしかしたらもっと眩しい、七色の光が視界を満たして――――。


     〇


 激しいぬくもり。

 を、感じた。


 我ながら妙な表現だと思う。「ぬくもり」ってのは安心感を感じさせるもので、「激しい」のは大抵ひとを落ち着かなくさせるものだ。この2語を繋げたのでは、意味不明な表現にしかならない。

 形容矛盾。

 ではないまでも、形容不純。


 にもかかわらず、これこそが的確な表現であるかのような感触だった。視界は薄暗い。鳥居から出た場所に高低差があったのか、軽くつんのめった覚えがある。咄嗟に片手を突き出してたのだが、地肌が粗かったためそちらにはザラザラした手触りがある。けっこう痛い。

 一方、もう片手にあったはずの剣の柄の手触りが、綺麗さっぱり消えていた。代わりにマシュマロみたいな柔らかな手触りに置き換わっている。全身には暖かみと、ちょっとした異物感。なのに首のあたりに生暖かい風が吹きつけて、実に奇妙な……。


「し………シントさん……?」


 伊勢川ミホカの声がした。よかった、今度は正真正銘、本物のようだ。

 しかし奇妙なのは、それが物凄い近くから聞こえたことと、まるで驚きで声を失っていたものが、辛うじて言葉を発したかのような震えた響きであること。


「え?」


 気づけば、おれは校舎裏にいた。

 何を思ったのか、おれは目の前にいるミホカを、例の巌に押しつけ、身動きできないようにしていた。

 神聖な祠の前で中3女子相手に、なかなか罰当たりな、もとい勇気のある行動であった。事と次第によっては(例えば、動揺したミホカに叫ばれて人を呼ばれるとかしたら――)、おれの未来は真っ暗に閉ざされることであろう。そんなもの、最初から閉ざされていただろうという見方もあるが。


「えっ、あっ、いや! ごめん!」


 慌てて離れた。彼女は驚きのあまり顔を赤くし、無言のまま胸に手を当てて俯いた。

 ゆっくりと起き上がる。長いポニーテールが良質な綴れ織の帯のように、肩からこぼれ落ちた。


「ミホカはど…どうしたの? こんなところで?」


 どちらかと言うと、おれが尋ねられる側だっただろう。だけど混乱していたし、本当に気になったのである。どうしておれたち2人で、こんな所にいるのかと。


「い、いえ……それが…昨日部室に忘れ物しちゃったのに気づいて。休みのうちにやっとかないといけない宿題だから、取りに来たんだけど。そしたら、シントさんがこっちの方に入っていったのが見えたんです」


 ミホカは視線を逸らしがちに(火照っている顔を冷ましながら)、ポツポツと語った。


「おれが?」


「はい。後ろ姿だったから人違いかと思ったんだけど、気になってここまで来たんです。そしたらいきなり……」


 いきなりおれが現れて、行く手を塞いできたということか。それはさぞ、魂消たまげたことだろう。


「そ、そうだったんだ? おれの方はよろけて、さっきみたいな………」


「そうだったんですね?」


 ミホカの方も事情を呑みこめたらしい。困惑は溶けてなくなり、クスクスと楽しそうな笑いが取って代わった。すっかりいつもの調子だ。


「わたしも、タイミング悪くてごめんなさい。じゃあ、わたし行きますね?」


「あ、待って」


 咄嗟に、伊勢川ミホカの腕をとった。

 当然、何かと思って振り返る。


 いやあ、まったく。女子中学生相手に、おれも焼きが回ったらしいね。つづく言葉は、もう自然におれの口を突いて出ていた。


「ミホカ。もし、よかったらなんだけど………おれと、付き合ってくれるかな」


「え………。―――……えぇぇっ!?」


 彼女からしてみたら、驚きの連続だったろう。おれの背中を追ってきたら壁に追い詰められ、行こうとしたら突然の告白なんだ。0.5秒くらいは寿命を縮めたかもしれん。(ああ、だから魂消たって、えたって書くのか。勉強になった。)


 だけど。この機会を逃したら、もうおれの中に隠れていた気持ちを伝えられないだろうということも解っていた。

 だから。


「驚かせてごめん。でも、いまじゃないとうまく伝えられない気がして。どうかな?」


 ミホカは視線を外して、俯いた。


 ふと我に返る。おれってやつは、全部言ってしまってから、怖くてたまらなくなった。

 もしかしたら、自分はすごくバカなことをしてるんじゃないか? 彼女からの手紙に返事をしなきゃって気になってたけど、よく考えてみたらあれはもう何年も前のものだ。それも目の前で波に飲まれて消えてしまったし、元より夢に出てきただけの幻だったのかもしれない。


 要するに、断られるかもしれないんだ。そしたら気まずくなっちゃって、これまでみたいな関係には戻れなくなる。そんな当たり前なことを、どうして忘れていたんだろう?

 幻視する拒絶の光景。数え切れないほどの失敗の記憶。

 永遠にも感じられる数秒が、弓矢を当てたルーレットの結果を待つような緊張の中で過ぎて――――。


 やがて伊勢川ミホカは、答えた。


「遠くにいた頃から、ずっと好きでした。付き合ってください、シントさん」


 泣き笑いというものが実在することを、おれはこの日、はじめて知った。


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