第31話 麻賀多シントの帰還

 白い服を着た、金髪の少女だった。美しくも、奇しき雰囲気を纏った少女。

 彼女は海を見ていた。おれと同じように、吹きすさぶ雨と潮風でずぶ濡れになっているのに、それを気にした様子はない。


 能面のように変化しない横顔を近くから眺めていたら、その面影に、見憶えがあることに気づいた。

 どうして最初に気づかなかったのだろう? それはおれが学校で出逢い、人となりもよく知っている――


「浅間! 浅間澪那じゃないか! 助けに来てくれたのか?」


 呼びかけられて、少女はおれの方を見た。だけど不思議そうに首をかしげて、


「? わたし、あさまじゃない」


「え? あ、ごめん、友達と似てたものだから………」


 他人の空似だったらしい。考えてみたら髪の色も違うし、浅間はここまで無表情じゃない。言葉が付いてこないだけで、コロコロ百面相をするやつだった。

 それ以上どうしていいか判らずにいると、少女が言った。


「わたしは、ひる。ひつくひるこ」


「へ?」


 てんで解らない。おまじないの呪文だろうか? 『引っ付く、蛭の子』という意味か。

 いや……もしかして、これは少女の名前か? だとすると、


「昼って、朝・昼・夜の昼か? 日月昼子?」


 問い返すが、答えはなかった。ただこちらを、じっ、と見据えている。

 やがて、


「どうしたい?」


 昼子が尋ねた。


「どう? …………」


 なんでか知らないが、そう訊かれたことに違和感はなかった。質問の意味をよく噛んで飲みこみ、自ら問うてみる。


 おれは、どうしたいのか?

 こういうのを走馬燈って呼ぶのかな。いろんな記憶が駆け巡ったことだ。そのどれもに意味があるような気もしたし、何ひとつ意味がないような気もした。

 夏休みが終わってこの方、あまりに妙な体験をしすぎてしまったからな。逢魔が時、出遭った化け物にはここまで生きてきた思い出を顧みさせられ、大事な過程をスッ飛ばして大人になったかと思えば、挙げ句の果てに三途の川っぽいところまで連れていかれる始末。いまなら自分がヨボヨボの爺さんになって、病院のベッドで死を待ってる姿さえ想像できてしまいそうだ。もしおれが本当はもう死んでて、『ここはあの世なんだよ』と神様から告げられても、『あ、そうなんだ』と、まるで去年の年末宝くじが外れた時のように、驚きもせず受け入れることができることだろう。


 そんなおれが、願うことは、


「――おれは、いきたい」


 呟いた。

 あたかも風が凪ぎ、小雨になっていた。強かった分の雨を言葉にしたように、いまの気持ちを語ることにした。


「この先、あの世界で生きてて、何か幸せなことがあるのか………本当は、よく判らないんだ。欲しいものは全然、手に入らなかったし。生きれば生きるほど、好きなものや嬉しいことが減っていって……嫌いなものや悲しいことだけ、増えていく気がしたから。

でもね、そんな世界でも時々は、何かがある気がしたんだ。誰かと、どうでもいいような話をするのが、やけに楽しかったり………。おれのことを待っててくれたのが、すごく、嬉しいと感じたり。

その時のことを思い出すと、まだ、歩いていける気がする」


「このさき、もう、たのしいことや、うれしいことは、ないかもしれない。それでも、だいじょうぶ?」


 そう問いかけられて、笑うことができた。

 なんだか、訊かれる必要もないような、すごく可笑しなことを言われたような気がしたから。そうやって、おれのことを笑わせようとしてるみたいに。


「そんなの、関係ないよ。だって、もしおれが生まれてこなければ、この魂は何ひとつ、感じることができなかったはずだから。

たった一度だけ、ほんの一回だけでも、嬉しいことや、楽しいことがあったのなら――それはもう、死んだままでは感じられなかった、幸せを手に入れたってことなんだ。

だから、もしこの先の未来が、悲劇や絶望だけだったとしても、大丈夫。幸せだったことを、何度でも思い出すよ。

そしてまた。数えきれない、新しいしあわせに出逢えるように。

ぼくはあの世界で、先へいきたい」


 そう、伝えた。

 少女は頷いて、


「わかった。なら、いこう?」

 少女は胸の前で、手を3度うち鳴らした。


「これは―――」


 少女の合図に応えて、海の底、四方八方から巨大な魚のような影が集まってきた。尾びれを揺らめかせる姿はサメやシャチの類いに見えたので一歩下がったのだが、そうではないらしい。

 彼らはぎゅうぎゅうに犇めきあって、白い背や腹を次々と海上に浮かべていく。

 波打ち際に寄って見ると、正体が判った。


「災いの化け物!?」


 この世に存在すべきではないような、あの、人間を不幸にするという凶悪な化け物たち。いま、それが至る所から集まってきて、何百匹もの群れをなし、海上に白い道を作っていた。

 その道はこの浜辺から、祠のある岩場まで続いている。


「もしかして、この上を渡っていくの?」


「うん、そう」


「でも、浅間が……おれの友達なんだけど、その子が災いの化け物はすごく危ないって言ってたよ。その上を歩いて、大丈夫なの?」


「だいじょうぶ。どんなものも、ときにはひとの、たすけになるから。でも、」

 少女は細い首を回して、おれの瞳をジッと見つめた。


「やくそくが、あるの」


「約束?」


 出来上がった橋の上へ、視線を移しながら、


「このみちをわたっているあいだ、なにがあっても、ふりむいてはだめ」


「振り向いたらどうなるの?」


「のまれる………せかいに」


 世界に呑まれる? どういうことだか判らなかったけど、いまはこの少女の言うことを信じるしかないようだ。


「後ろを見るなって、アニメとか映画でよく見るやつだよな? よし、わかった」


 昔テレビか何かで、そんな話を見た憶えがある。『けっして振り返ってはダメ』なんて、なんか恐くってさ。でも、前にどこかで見たことあるやつだって思えば、乗り越えられる気がしたんだ。




 浜から離れた岩場へ続く、海渡りが始まった。

 海上に浮かぶ白い道を歩き始めてほどなく。風と共に沈黙していたはずの背後から、いろいろな声が聞こえてきた。


 知っている声に、知らない声。やがて中でも一番威厳ある声が、「そこにいるのは何者だ?」と呼びかけてきた。


「お前はなかなか、物わかりがよさそうだ。徒人ただびととは思えない。こっちを向いたら好きなものをやって、元の世界へ返そう」


 その鬼神の声が提示したのは、山ほどの宝、金、愛情、やりたかった仕事、夢、なりたかった者に、夢見ることさえ叶わなかった天才や英雄やスターのような栄誉。


 それに一顧だにしないでいると、「欲しいのなら、いま言ったものを全部やろう」とまで言い出した。周りで聞いたことの或る声たちが、おれを褒めそやし、それを受け取る権利があると説得してきた。


 それを全部無視していると、何者が割りこんできた。

 成人の知り合いなど少ないはずだが誰かと思っていると、どうやら昔おれが見た夢に出てきた男性社員らしい。麻賀多がもらわないなら、代わりにくれとせがんだ。


 最初は渋っていた鬼神も、おれが受け取らないのならしょうがないと、交換条件を出した。「これを受け取ればお前はその瞬間、命を失って世界から消え失せる。お前は生まれなかったことになるのだ。それでも欲しいか?」。


「欲しい!!」とそいつは迷いなく叫んだ。


 鬼神はおれに渡すはずだったものをその男に渡した。そいつは狂わんばかりに有頂天になった。「これがこいつの価値か! スゴイ、スゴいぞ! 天才の財産が全部おれの物になっちまった! いったい何億円、いや何兆円あるんだ? これがあればやつらに勝てる! 上のやつらをみんな引きずり下ろし、下のやつらはみんな蹴落とせるんだ! 俺もすっかり有名人だ! うわー、忙しくて大変だなあ!!!」


 それを聞いて、おれは正面を向いたまま言った。


「そうか。其奴は良かったな。満足したなら、泥棒は失せろ。お前の嘘には、もう誰も騙されない」


 振り向かずにいるとそいつの存在感はしゅるしゅるとしおれていき、そんな偽物など最初から産まれたことがなかったかのように、この世からもあの世からも消え去った。



 お次は悪口と罵詈雑言の嵐に突入した。

 それらの声は、おれがこれまでにしたことや、しなかったことを責め立ててきた。

 なぜそんなことを言われなければならないのか、真っ当な思考ではとても理解できず、何か言い返したくもなる。しかし己自身の目的を果たすために、聞こえないふりをして耐えた。


 とはいえ、中には少々こらえるのが難しい声も混ざっていた。例えば友達と思ってたマサヲがこれまで語ってきた話は全部おれを陥れる策略だったと述べたり、仲良くなった江ノ島さんがとうとうきつい拒絶の言葉を浴びせかけてきたりなんていうのは、意外とありえそうな感じがして、身がすくんでしまう。加えて、大人では珍しく信頼を置いている琴平美沙枝まで理不尽な叱責をしてくるのは、どうも気分のいいものではない。ちょっとくらいは後ろを見て、本当は誰もいないことを確かめたくなる。

 だけどそんな時、浅間澪那の声が、


《ま、麻賀多くんってマジ付き合い悪いよね! ウザいしキモいし最悪なんだけど~!?》


 と言ってるのが聞こえて、思わず噴き出してしまった。


「ぷっ……あはははっ! ちょっとま、待てっくれ。いまの、もしかして浅間か? レアすぎるだろ……いつか本人に、その台詞言ってもらおうかな」


 なんというか、キャラ崩壊が激しすぎた。振り返ることはなかったものの、もし『声を出してはいけない』とか、その手のお題だったら一発アウトだっただろう。いまの無茶な脚本を聞いて笑わないでいるのは、至難の業なんだから。



 やがて、苦しみにうめく人々の声が聞こえてきた。

 彼らは理由もなく降りかかった不幸に叫び、嘆き悲しみ、呻吟した。耳を塞ぐが、どんな大仕掛けなのかそれでも聞こえてきた。


 もし、本当に自分が助けられるのであれば助けるべきだし、それが正解だったかもしれない。

 しかし、それはいまのおれには無理で、己の成すべきことは別にあることが解っていた。だから、俯いて足を進めた。


 そのうち、伊勢川ミホカの声がした。


《シントさん、助けて……お願い…。苦しいよ……辛いよ……私には、シントさんしかいないんです……》


 ピクリと眉が動いて、歩幅が少し狭まった。


 が、それだけだ。すぐ、元の歩調に戻る。


「今度はおれを怒らせる作戦か? あいつはそんなふうに、自分が惨めなとこ見せて同情を誘うようなことはしない。遠くても近くても、それは同じだった。だから時々、困っちゃうんだけどな」


 どうやら、それがそいつの切り札だったらしい。耳障りな声どもは次第に小さく静まっていき、辿るべき道も、最後の数歩を残すのみとなった。

 おれは油断せずに足を運んだ。何か罠があるかもしれない。最期の足場も安全らしいことを確かめると、一気に橋を渡りき



「シント。私、あなたが好き……大好き……大好き……大好き……。愛しているの………心から」



 石清水いわしみずユアが、そう言った。


「……え? なんで―――?」


 どうして、彼女がいま、ここで出てくるのか? さしたる繋がりもなく、そんなこと言う理由も全然ないはずの、石清水ユアが?

 意味がわからなくて、わからなくて……わからなすぎたものだから、おれは振り返った。


 刹那。


「ああっ!!」


 風が、吹いた。


 おれが振り返りきるより先に、突風がポケットの中身を攫って、祠のある方へと吹き飛ばしていく。


 さっき見つけた紙きれ――。

 ミホカがずっと昔、おれに宛てて送ってくれた手紙だ。


 あれには彼女がおれにくれた、大切な言葉が書かれているんだ。失くすわけにはいかない。

 おれは夢中でそれを追った。吹き上げられた紙は大きく舞い上がり、運良く小島の方に着地した。よろめきながらも加速をつけて、急拵えの橋を渡りきる。

 鳥居の前に落っこちた手紙に、後ほんの数センチで手が届く寸前。


 再び強い風が、恋文を海の上へ吹き飛ばした。

 飛び上がったところを荒れる波が攫った。手紙はもう、深い海の中だ。


「あぁ………」


 力なく呟いた。

 あれは彼女が昔くれた、大切なものだったのに。せっかくの記念を失ってしまった。これじゃあ、せっかく見つけたことも、言ってやれないじゃないか。


「……っ。そうだ、さっきの声――?」


 そこで、たったいま石清水ユアに呼ばれたことを思い出して、振り返ったけど、もうそこには何もなかった。


 渡ってきた道も含めてだ。寄り集まって橋を形づくっていた白き者どもはすでに水面下に潜っていた。小魚が散るみたいに、化け物たちは水の中を四方八方へと泳ぎ去っていった。


「空耳、かな」


 考えてみれば、ここで石清水ユアが出てくるというのがおかしい。


 なんていうか、あの最後の声だけは他の声と違っていて、妄想でもなければ象徴でもなく、本当に現実に呼びかけられた気がしたんだよな。でも無関係な彼女がこんな場所にいるはずがないから、それこそ幻聴の証しだったのかもしれない。

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