義姪、妻、義孫、義母、義妹、そして義姉

@samayouyoroi

義姪、妻、義孫、義母、義妹、そして義姉


地下の射撃訓練場では銃声が鳴り響いていた。くせのある黒い短髪にゴーグルと耳栓を装着して一心不乱に銃を撃ち続けている。命中率は高く、ほぼ全弾中央を撃ちぬいている。


「お見事です」

教官が短く称賛した。


「ありがとう」

彼女も短く返す。


それが訓練終了の合図となり、素早くゴーグルと耳栓を外すと控えの者を連れて訓練場を後にした。


元々はそうでもなかったが、今の彼女はあまり無駄な事は言わない。そして彼女はあらゆる意味で油断などできない立場だった。


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「おはようございます。こちらが今日の予定です」

侍女のエッダがすばやく資料を渡してきた。


「ありがとうございます」

射撃教官に対するより丁寧なのは、エッダがかつての上司だったからだが、単純に優秀な年長者に対する敬意でもある。


「10時から長兄伯父様との面談があります」

奇妙な言い回しには理由がある。ジークリンデ自身の血縁は両親しかいなかったが、夫の血縁は極めて複雑怪奇であり、生者も死者も皇族も元皇帝も犯罪者も敵も味方も入り混じっている。しかも同じ名前を名乗っている事も多く、若い頃は取り違えることも多かった。


そこでジークリンデは会う相手と内容を分類する符号を作ってエッダと共有しているのだ。これから会う「長兄伯父」とは21代皇帝マクシミリアン・ヨーゼフ1世のことで、「面談」という符号はさほど意味のない話である、という意味だった。


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「久しぶりだね。皇后陛下」

「大上皇陛下もご機嫌麗しゅう」


エッダが紅茶を置いて控えるとマクシミリアン・ヨーゼフ1世は苦笑した。


「大上皇はやめてくれ。言いづらかったら伯父上とでも呼んでくれ」

「ではお言葉に甘えて。本日のご来意は?」


ジークリンデがいささか失礼なのもしょうがない。夫と同名のこの先々代皇帝は、実は大上皇などという大それた尊号など持っていない。夫の父20代フリードリヒ3世の異母兄なのだが、その人生の大半は皇室と関係なく過ごしていた。それが「FL問題」「FIII問題」により一時的に帝位を継承したことがあるだけだ。


そして結果としては22代グスタフに継承するための中継ぎでしかなく「命がけで皇宮に引っ越ししてきた」だけの男であった。そもそもFIII問題により発掘されるまでは自分が皇室の血を引くことも知らず、本業は中小企業の会社員だった。


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先々代の皇帝といえば遥か大昔の人間のように思えるが、マクシミリアン・ヨーゼフ1世が帝位を継承したのは10年前の336年とそれほど昔ではない。当時の皇室の事情を知ってからは連日のように退位すると駄々をこねるのを周囲が何とかなだめすかし、見かねた義兄グスタフが病床から帝位継承を申し出るとその年のうちに帝位禅譲を宣言して逃げるように皇宮から去っていったのである。


それだけなら単なる笑い話なのだが、皇族としては何の財産も持ち合わせず、まさか今さら会社員に戻ることもできずで、つまり極シンプルに経済的に行き詰まってしまったのである。


たかが元会社員が一生困らない程度の恩給などサインひとつで決済可能ではあるが、政治的な混乱とマクシミリアン・ヨーゼフ1世自身の問題によりなかなかその機会は訪れなかった。


人間には手に入れた力に耐えるだけの精神的な骨格が必要である。マクシミリアン・ヨーゼフ1世には明らかにその骨格を欠いていた。短い在位期間で学習したのは陰謀への恐怖と贅沢の味だけであり、結果として会社員時代の貯金は散財と生活費で瞬く間に消えてなくなり、いざ皇宮におねだりに行こうと思っても足がすくんで動けなくなるといった有様だった。


また余りにも短く唐突なその在位期間と政治的混乱により、社会的知名度もほとんどなく、結果として名誉職に就くこともできず、337年のマクシミリアン・ヨーゼフ1世一家は生活保護を申請するほど困窮していたのである。


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「車が壊れてしまってね」

「承知しました。 エッダ、小切手を」

「すまんな」

「畏れ多く。またお目にかかれる機会を。では」


まるで台本を読むような二人のやりとりは、ジークリンデ側が忙しいという以外にも理由がある。即位当初まだこの魔窟の正体を知らず能天気だった頃のマクシミリアン・ヨーゼフ1世は、当時侍女だったジークリンデにさんざんセクハラをしていたのであった。


エッダが用意している間にふとマクシミリアン・ヨーゼフ1世がひとりごちた。


「今年の花は白いものが多いな」


車代くらい通信ひとつで済む話である。それをわざわざ皇宮まで脚を運ばせるのにはそれなりの理由があった。ジークリンデは小さく頷くと無言で退出した。


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僅か12分で面談を終えると少し時間ができたので夫の執務室へ向かった。いつもの通り司法尚書が臨席している。


「ご機嫌麗しゅう。陛下、司法尚書」

長兄伯父に対してとほとんど同じ言葉だが、定型句のあとの僅かな間が親密さを表していた。


「おはよう。ジークリンデ」

「おはようございます。皇后陛下」

晴眼帝こと夫のマクシミリアン・ヨーゼフ2世も司法尚書ミュンツァーも、ジークリンデを真似てか短い定型句の間に一拍置いて返してくれた。


当時からマクシミリアン・ヨーゼフ2世は「晴眼帝」と呼ばれていたが、それは必ずしも適切ではない。「晴眼帝」とは彼ら3人の政治改革プロジェクト名と言ったほうが正しい。何よりジークリンデは夫がそう呼ばれるのを嫌っていた。半盲の後天的障碍者を「晴眼」とは皮肉にもほどがある!


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「マクシミリアン・ヨーゼフ1世陛下より来駕の栄誉を賜りました」

夫も尚書も微妙な笑いを浮かべた。もちろん彼女と先々帝の因縁を知っており、その「来駕」の内容もほぼ予想がついたからである。


「あの方も不幸な方なのだ。あまりいじめないでおくれよ」

ジークリンデの心に少し苛立ちが生じた。もう!甘いんだから!


15年前に初めて会ったときからジークリンデはこの優しい男―というより青年―に苛ついてしょうがなかった。あまりにもまっとうで、あまりにものん気で、あまりにも心優しいこの青年がこの魔窟で生きていけるのだろうか。


まだ家政学校を卒業したての20歳だったジークリンデが、自分の経験不足も危険も顧みずにこの危なっかしい青年の面倒を見たのは、愛というより母性本能に近い。


ジークリンデはちらりと夫の顔を見た。かつてその苛立ちの源泉となった灰色の透き通った瞳はいまや白く濁っている。一瞬の悲しみと激しい闘志を得て彼女は奮い立った。負けるものですか!


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短い情報交換を終わらすとジークリンデは執務室を後にした。控えていたエッダから次の予定を確認する。


「11時より皇太后陛下との会合です」


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「相変わらず忙しそうね、ジークリンデ」

「皇太后陛下におかれましてはご機嫌麗しく。拝謁の栄誉を賜り光栄です」


ジークリンデらしくない言葉使いは苦手意識と嫌悪感を隠すための武装だった。皇太后クリスティーネは血統図上では義理の祖母にあたるのだが、その正体は義父である20代フリードリヒ3世の愛人だった。


19代皇帝レオンハルト2世の晩年の再婚相手なのだが、39歳年下の新妻に対して男としての役割を果たせるはずがなく、その若い精力を持て余したクリスティーネは、これまた若い精力と結びついてしまったのである。


さらに彼女はそのおっとりとした態度と裏腹に極めて図太い女性だった。なんと皇宮内ですら不倫相手と噂されるその相手、フリードリヒを養子に迎えるように夫に進言したのである。「さがない噂を払うためにも」これが彼女の殺し文句であった。


夫以外に男を知らないジークリンデにとっては理解不能の怪物であり、その影響力も相まって特に警戒が必要な相手の一人だった。


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「ヘルベルトは元気なの?」

皇太后は茶飲み話のついでのようにそう言った。


ええ大変元気ですよ。

そう言いたかったが口から出たのは全く逆の言葉だった。


「変わらず失調状態が続いておられるようです。おいたわしく」

亡くなった祖母を無理やり思い出し悲しそうな顔を作ってそう答えた。


ふう

皇太后は溜息をついた。


「なんとかならないものかしらねえ」

独り言のように、言質を取られることを避けるように、皇太后はそう言った。聞きようによって義理の孫の様態を案じているようでもあり、待遇改善を願い出ているようでもある。


「カンファレンスを徹底させます」

ジークリンデは前者の意味と捉えて返答した。


「お願いしていいかしら。少しは外の空気も吸いたいでしょうしね」

まるで三次元チェスの名手である。まさかこの人、ヘルベルトとも関係があるんじゃないでしょうね。


ジークリンデは腕に鳥肌が立つのをはっきりと自覚しつつ丁寧に礼をした。クリスティーネの意向を了承したとも見せかけ、同時に退出の許可を求めたのである。相手は現役の皇太后である。長兄伯父と違って勝手に退出などできない。


「よろしくね」

それが了承の合図となり会合は終わった。


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親子3代と陰蜜な関係を築いた(とジークリンデが勝手に思っている)希代の魔女から逃げ出すと、彼女は思いっきり顔を歪めた。うわあやだやだ!


4代前の皇后たるクリスティーネに権力はない。しかし権威は皇帝すらしのぐかも知れない。清濁併せ呑むとは綺麗事ばかりでは人心は掌握できないという戒めだが、この「清」の時代だからこそ「濁」の象徴たる皇太后の影響力は計り知れなかった。


こほん、と咳が聞こえた。

濁の時代からの生え抜きであり、鬼教官でもあったエッダは、さりげなくかつての弟子を戒めたのである。


「そろそろ昼食のお時間です」

はい。


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チーム晴眼帝の昼食はパワーランチというより会議中につまみ食いをしているといった様相だった。


「かなり予算がまとまってきたわね」

「いえ、まだ某貴族の不正関与が疑われています」

「K?J?」

「Jですね」

「誰だっけ?」

「右のほうにいる方です」

「あの大げさな人ね」

「Cの方はなんと?」

「またHの事」


隠語を使うのは秘匿性を重視するというより、皇后に合わせて自然とそうなった結果だった。実は逆の意味であまり秘匿する必要がないのである。彼らにとっての本当の敵は、ある意味で無敵の存在だったから。


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大体の場合パワーランチはそのまま本格的な会議となる。今日は他の閣僚たちも合流して予算会議となった。パワーランチというより事前プレゼンといったほうが正しい。ちなみにマクシミリアン・ヨーゼフ2世が臨席してるのにも関わらず、彼自身の意向でこの午後の会議を「御前会議」とは呼ばないようになっている。御前会議と称してしまうと皇帝が発言しづらくなるのでそれを避けたのであった。


「ずいぶんと削れましたな」

ヤンカー伯爵は大仰に賞賛した。


「ええ、伯爵のお力添えあってこそです」

にっこりとジークリンデが返事をした。


「いえいえ、私にできることがあればなんなりと」

またもヤンカー伯爵は大仰に声を張り上げた。


「ええ、また是非お願いする事もあるかと」

ミュンツァーはにこりともせずにそう言った。ヤンカー伯爵のクラバットには刺繍でJという文字が描かれていた。


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長い会議が終わるともう夕方だった。一日が早い。


「殿下の授業が終わるお時間です」

エッダに促されてまた皇宮内を移動する。エスカレーターくらいは欲しい。


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「ごきげんよう、母上。そしてお疲れ様です」

「ごきげんよう、殿下。ありがとう」


16歳のコルネリアスは実子ではない。系統を遡ればなんと5代前の18代皇帝フリードリヒ2世の系統に連なる皇族だった。マクシミリアン・ヨーゼフ2世とジークリンデの間には子供ができず、またFL問題の解消を兼ねると皇位継承候補者は彼しかいなかった。


FL問題とは16代から20代まで続いた皇統争奪戦のことで、遡れば15代エーリッヒ2世の治世末期から始まった一連の混乱である。エーリッヒ2世にはフリードリヒとレオンハルトという双子の皇子がおり、この二人の皇位継承権を巡る政争がそもそもの始まりだった。


一応は兄であるフリードリヒが16代皇帝として即位したが、短期間で体調を崩し、皇弟レオンハルトが17代として即位してしまう。以降はフリードリヒ系統とレオンハルト系統が都度「正当な継承者」を名乗って交互に皇統を継いでしまったのだ。


最初のフリードリヒとレオンハルトは双子ということもあって周囲も黙っていたが、時とともに、代を重ねるごとに、帝国の内部分裂の危険を孕んできた。またこの事は政治とはかけ離れたところで問題を生じた。


なにせ16代がフリードリヒ1世、17代がレオンハルト1世、18代がフリードリヒ2世、19代がレオンハルト2世、そして20代がフリードリヒ3世と続けば、今がいったい誰の御代で今上は何をやってる皇帝なのか分からない、という冗談まじりの皮肉が横行し、あまつさえ民間のクイズ番組ではしばしばこの問題が題材にされ、間違えた回答者に「不敬者」という帽子をかぶせるに至り、さすがにこれを改める気運が強くなってきたのであった。


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「今日は学友とフライング・ボールをしました」

コルネリアスが屈託なくそう言った。


「いいことよ。友達を増やして大事になさい」

そして味方として育成するのよ。


皇子とはいえ庶子の夫と、没落貴族の末裔である自分の組み合わせは、とにかく味方を確保することに苦労した。ミュンツァーという天祐を得なければとてもここまで戦えなかっただろう。


随分と後になってジークリンデはこの教育が失敗したことを嘆くのだがそれはまた別の物語である。


「皇后陛下、そろそろ」

エッダが次の予定を急かした。ああそうか、今日はお墓参りの日だ。


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本人の意向もあって小さな墓だった。


月に一度の墓参りは故人を偲ぶことと、コルネリアスの情操教育のためだった。義兄であり22代皇帝であったグスタフは「百日帝」という不名誉な通称を冠していたが、長兄伯父とは違った意味で皇帝になるべき人ではなかった。


生まれつき身体が弱く、幼い頃から皇位継承候補者として軽視されがちだったグスタフは、夫マクシミリアン・ヨーゼフ2世と似た優しい人だった。夫と違って現実的だったグスタフは、身体さえ丈夫だったら独りでもこの数十年にも及ぶ政治的混乱を解決していただろう。しかし現実には独りでは立ち上がることすらできなかった。


「かわいそうな方ですね」

コルネリアスは悲しそうにそう言った。いい兆候だ。


御免なさい、そして本当にありがとうございます。義兄上。

ジークリンデは心からそう祈った。


あくまで結果としてだが、ジークリンデはこの義兄を利用し尽くしたのである。


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マクシミリアン・ヨーゼフ1世が半狂乱になって皇宮を脱出しようとしていたあの頃、後に夫となるマクシミリアン・ヨーゼフを皇位継承者に推す声もあったのだが、ジークリンデは侍女の立場を超えて必死にそれを食い止めたのである。


「弟宮様に帝位など背負えるはずがありません!」

担当でもない侍女がいきなり病身の皇子の寝室に押し入ってそんなことを言えば大問題になる。それを大𠮟責で救ってくれたのがエッダだった。


グスタフは驚き、笑い、そしてとんでもない事を言った。


「ではそなたが終生あれを支えよ」


「伯父上の責務はしばし余が引き受けよう。エッダ、そちは余が証人として、またこの者の指導者として、長く傍に添え」


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結果として僅か3カ月の猶予は、しかしマクシミリアン・ヨーゼフとジークリンデにとりあえずの戦闘態勢を整える貴重な時間となった。即位式の陰でひっそりと挙式し、魔窟の吐息に侵されていない味方を探し、ミュンツァーという逸材を得た。


何よりも申し訳なく、心からの懺悔と感謝は、皮肉なことにグスタフの毒殺だった。元々身体の弱かったグスタフがそれであっさりと死ぬことにより、後に同じ毒を盛られた夫の一命を取り留めることに繋がった。つまり期せずして義兄を毒見役にしてしまったのである。そして今、養子の情操教育の教材として使っている。


本当にありがとうございます、義兄上。


グスタフの、あの力のない優しい笑顔が瞼の裏に蘇った。


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傍に控えていたエッダが小さな声で告げた。

「本日最後のご予定の時間です」


こればかりは言われるまでもない。


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帝国国立病院特別病棟は彼のためだけに建てられた病棟であった。彼を看護し、介護し、そして監視するためのもので、そして今や半ば彼の根城となっていた。


深夜とは言えない時間であったが、さほど照明が必要がないことから広大な通路は暗く、患者が一人しかいないことから医者や看護師の姿も少ない。その少数の医療従事者とは別に黒いスーツを着た男たちがそこかしこの部屋に待機していた。


この黒スーツの半分は味方で半分は敵であるが一目でそれとは判断つかない。また看護服を着たものの中には明らかに医療とは別の理由で彼の「看護」を担う女たちがいた。まさに魔城といった趣である。さすがのジークリンデもエッダだけではなく皇宮護衛官を数名引き連れている。


まず病棟の入り口でカード認証があり、次いですぐにゲートで指紋認証があり、さらにエレベータには虹彩認証があり、目的の最上階では護衛によりアポイントメント確認と質疑による本人確認があった。皇宮よりも厳重である。そしてついに開かれた魔城の扉の向こうに彼の病室があった。


ほぼフロア全てが彼の病室となっており、その規模も豪華さもジークリンデとマクシミリアン・ヨーゼフ2世の私空間の数倍はあろう。見える限りの情報ではそこでの生活に何の支障もないと思われた。そう、見える限りは、そこにいる限りは。


内側のゲートと彼の病室の間は巨大な硬質アクリルに覆われ、病室側からそれを開く手立てはなかった。その高貴な病室に彼は居た。


「お久しぶりね。殿下」

「久しぶりだな。義姉上、いや皇后陛下か」


19代レオンハルト2世の孫であり、20代フリードリヒ3世の息子であり、21代マクシミリアン・ヨーゼフ1世の甥であり、22代グスタフと夫の23代マクシミリアン・ヨーゼフ2世の弟であり、先の大戦では総司令官を務めた男。世が世なら彼らと同じく、或いは彼らに代わって皇帝となっていたはずの男。そして彼らのうちの何人かに危害を加えた男。夫と義兄の仇である男。いやひょっとしたら義父の仇でもあるかも知れない男、皇弟ヘルベルト殿下は怒りと狂気を含んだ笑顔を向けた。


「このようなところに何の御用かな」


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ジークリンデが皇宮へ上がった頃の皇室の混乱とはFL問題のことであった。当時としては重大な問題だったが、今から思い返せば所詮TV番組のネタになる程度の牧歌的な問題でしかなかった。それが極めて深刻なFIII問題に置き換わったのは、その名前の由来である20代皇帝フリードリヒ3世の御代からである。


「敗軍帝」こと20代皇帝フリードリヒ3世を評価することは極めて難しかった。その不名誉すぎる通称も、即位に至るまでの醜聞も、後の極めて深刻な政治的混乱も、実は彼自身が発端とは言い切れない。


16代フリードリヒ1世の系統に連なる泡沫皇族でしかなかった彼は、爵位すらない帝国騎士であり、代わりに当代の伊達男としてその名を馳せていたらしい。らしいというのは若い頃の画像や情報がほとんど残っていないからである。浮気や不倫の証拠を残さないための予防策であったと言われる。


その伊達男ぶりの行く末は周知の通りクリスティーネの推薦による皇室養子縁組だった。これについては全くの憶測だが、恐らくクリスティーネが積極的にこの話を進めてフリードリヒを自分の懐に収めてしまおうと画策したと思われる。


潔癖なジークリンデからすればそんな話だけで総合評価はマイナスなのだが、事実としてその浮気性のおかげで夫のマクシミリアン・ヨーゼフ2世が生まれたので何ともいえない気持ちになる。噂ではグスタフやマクシミリアン・ヨーゼフ2世の優しさは、若い頃のフリードリヒ3世の優柔不断がいい方向に開花した結果とも言われた。


しかしそれらの痴情のもつれはゴールデンバウム帝王家にあってはさほど珍しい話ではない。全てが狂ったのはその不名誉な通称の発端となる自由惑星同盟を自称する叛徒の発見からだった。


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今まで全宇宙を支配していると豪語していたら版図の最果てで農奴の末裔が勝手に独立国家を作っていたのである。怒りよりも驚きのほうが強く、当然のことながらこれは治安維持としての討伐軍を差し向けるべき事柄だった。敵だとすら思っていない。そもそも宙間戦闘能力すら疑わしい。


当時のジークリンデの記憶では、この討伐軍編成はまさにお祭り騒ぎ、超巨大規模の宇宙ピクニックだった。このお祭り騒ぎの総司令官にヘルベルトが選ばれたのは、逆にそれしか選択肢がなかったとも言える。


何せ負けるはずがない。行っただけで建国以来の大殊勲である。軍人だけではなく大貴族もこぞってこの遠征軍の総司令官の座を狙い収拾がつかなくなった。そこで第三皇子であり、皇位継承第一位であり、本人もそれを希望していたヘルベルトが選ばれたのであった。というよりヘルベルトでなければ収まらなかったのだ。


討伐軍出港の日は4時間枠の特番が組まれ、今思えば能天気な話だが、ジークリンデもマクシミリアン・ヨーゼフと一緒にそれを見ていたのであった。


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討伐軍の結果について今さら語る事はない。茫然自失のヘルベルトは虚脱状態のまま一旦離宮に隔離され、当時の軍事顧問は銃殺に処された。お祭りは終わり暗い混乱が始まった。


フリードリヒ3世が突然崩御したのはそんな暗い時代の最中だった。具体的な理由は全く不明。皇后となったジークリンデの調査でも未だ詳細は分かっていない。ただしひとつだけ確かなことがある。フリードリヒ3世が崩御したのはヘルベルトがこの特別病棟に移された直後のことであった。


そこからの数年間は正に暗黒時代だった。長兄伯父ことマクシミリアン・ヨーゼフ1世はその短い在位期間中に3度「食中毒」に見舞われ、1度はテロリストの銃弾に晒されたことすらあった。義兄と夫については今更いうまでもない。狙われたのは皇帝だけではなく皇族も貴族も政治家も軍人も同じだった。


そして今、それらの災厄の中で、病室に佇む皇子がジークリンデの眼前にいた。


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「いつもと同じよ、殿下」

ジークリンデは臆せず言った。


「伯父上と、二人の兄上に手を出したの?」

今更説得などはない。ただまっすぐに聞くだけだ。


だん!


ヘルベルトが硬質アクリルを殴った。


「控えろ下郎!誰の前だと思っている!」


いくら異母兄弟とはいえこれが夫と義兄グスタフの弟とはとても思えない。しかしたった一箇所、確かに血縁を感じさせるところはあった。


皇弟殿下はその濁った灰色の瞳に狂気の怒りを秘めていた。それは意味も理由も違っていたが夫の今の瞳を彷彿させるものだった。


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「下郎、そう、そうね」

ジークリンデはその言葉を反復した。


「確かに私が皇后なんておこがましい限りよ」

そう認めるとヘルベルトの顔に怪訝な表情が生まれた。


例えどれほどの驕慢児であっても、精神の均衡を失っていても、彼は確かに帝王学を身につけた正真正銘の皇位継承第一位皇子だった。その素養はこの狂気の中でもしばしば見え隠れする。相手が何かを言い切るまでは待つ。それは指導者として重要な資質だった。


ジークリンデは一瞬、同情路線か挑発路線かを迷ったが、怒りと嫌悪感が先に来た。


「でもね、甘やかされた無能なお坊ちゃまよりはましよ!討伐軍総司令官?ハッ!聞いて呆れるわ!ステファン閣下のご賢察の通りよ!あなたはおだてられて調子に乗っただけの無能だわ!そんな豪華な病室なんかもったいないくらい!」


だん!


「殺してやる」

ヘルベルトはむしろ平坦な口調でそう言った。


「グスタフ様みたいに?」

ジークリンデは聞き返した。今なら何かしゃべるかも知れない。

しかしヘルベルトはふいににやりと笑い余裕を見せた。


「兄上を殺したのはお前だろう」

狂気の顕現か、帝王の叡智か、ヘルベルトは意外な点を突いてきた。


「先天性の心臓疾患があった兄上を帝位に就けたのはお前だろう」

ジークリンデもまた相手の出方を伺った。


「下郎が、偉大なるルドルフ大帝の血を引く我が一族に…」

それ以上は続かなかった。ヘルベルトは続く言葉を選んでいるうちに、彼にしか見えない何かに怒りをぶつけ始めた。なるほど。


ヘルベルトの精神は刻一刻と蝕まれているが、まだある程度の知性と教養を保っていた。決してただの狂人ではない。まだ、今は。


そしてこの状況でもまだ彼の支援者はおり、それは皇宮内である程度は情報を掴むことができる人間だということも分かった。でなくては今までの話はあり得ない。


今日はここまでね。


「では殿下、またお目にかかれることを」

最後だけは丁重に礼をして踵を返した。背中からは皇弟の声が聞こえてきた。


「…ンゴルシュ…貴様」


---


「鈴蘭にはとても強い毒性があるそうです」

車に乗り込むと誰に言うでもなくエッダはぽつりとつぶやいた。


スズラン…? ああ、思い出した。

そう、午前中に長兄伯父からの警告があったのだ。


連日の公務で気が立って、心の中でさんざん長兄伯父をけなしていたような気がするが、考えてみれば夫の言う通り、長兄伯父ことマクシミリアン・ヨーゼフ1世という人はかわいそうな人だった。


中規模医薬メーカーの営業課長をいきなり皇宮に連れてきて、大した説明もせずに、今日からあなたは銀河帝国の皇帝です、なんて冗談にもならない。あの半年にも満たない在位は長兄伯父にとって夢のようであり、また悪夢でもあっただろう。


「陰謀も怖かったけど、とにかくここに来るのが怖くてね」

久々に再会したときに長兄伯父はそう言っていた。あの時は本気で同情したのを覚えている。セクハラのことも忘れはしなかったが。


皇帝としては何一つ実績を残せなかった長兄伯父だが、製薬に関わる見識である程度は毒物を見抜き、結果としてその知見は自分の命を救った。そして即位してすぐに毒殺を謀られたチーム晴眼帝は、あれほど頻繁に「食中毒」に見舞われた伯父がなぜ無事だったのかに疑問を抱き、召喚して事情を知ったのであった。


以来彼は課長時代のネットワークを活用して薬物専門の情報屋となり、おねだりにやってくるという体で情報を提供をしてもらっていたのである。ただし彼側からすればおねだりが本来の目的なので本当にそれだけの理由で来ることも多く、前述の因縁も相まってついつい冷たい態度になってはしまうが。


そしてもうひとつ思い出したことがった。


---


侍女とは単なる使用人ではない。同じ屋根の下で長く共に暮らせば主従を超えた感情ができても不思議ではない。かつて自分がマクシミリアン・ヨーゼフ青年に抱いたように。当時のあれはどう考えても恋愛感情ではなかったと思うが。


生後すぐに虚弱と診断され、実母からすら見放されたグスタフをあやし、見守り、育てあげたのはエッダだった。自らを厳しく律するエッダはグスタフに対してあくまで侍女として接していたと聞いたことがある。


そのエッダはヘルベルトとの面会中、ついに何も言わなかった。今日だけではない。いままでもずっと。そして恐らくこれからも。


ちらりとエッダを見た。小さい女性だった。もうおいくつなのだろう。誰も見ていないのに背もたれに身体を預けずにぴんと背筋を伸ばしている。もちろんこちらの視線に気づいているに決まっているのに何も言わない。


視線を窓に移すとふいにエッダがぽつりと呟いた。

「御幼少のみぎりには兄宮様の御看病をなさる事も」


かなわないなあ。鬼教官。


---


「様子はどうだった?」


特にそうと決めていたわけではないが、ヘルベルトとの面会翌日の朝食はチーム晴眼帝で摂るようになった。


同じ部屋で寝起きしてるにも関わらず朝が弱い夫は、ジークリンデが朝の射撃訓練を終わらせて、シャワーを浴びて、着替えて着席して先に紅茶を飲んだあたりでようやくのこのことやってくる。寝ぐせくらいとかしてから来なさいよ。まあ余りよく見えないから気にならないんだろうけど。


夫よりは早く着席していたミュンツァーは姿勢正しく挨拶をした。彼も気になるはずなのに3人揃うまでは敢えてその話題を口にしなかった。


「まだ支援者はいるわね」

男ふたりは僅かに眉根を寄せてうなずいた。やはりか。しかしまだか。


現時点ではヘルベルトを殺す事はできなかった。法的にはかつてその敗戦の罪はインゴルシュタットという討伐軍顧問になすりつけられ銃殺とともに昇華してしまった。政治改革を進めるチーム晴眼帝はその理念により誅殺はできなかった。


グスタフ暗殺をはじめ多くの状況証拠があるにも関わらず、彼の犯罪を暴く証拠は未だ見つかっていない。それも仕方のない事情がある。


皇帝と皇后と司法尚書というトリオは権力的には極めて強力な組み合わせだったが、彼らは全員元々それぞれの主流ではなく、地盤が極めて弱かったのだ。いくら権力があってもそれに従うものがいなければどうしようもない。


この数十年に及ぶ政治的混乱により皇族も貴族も閣僚も官僚も軍人も極めて保守的になっており、まさかのダークホースであるマクシミリアン・ヨーゼフ2世の御代などいつまで続くか誰にも分からず、当初は午後の会議ですら出席者が3人という有様だったのだ。この9年の治世により少しずつ信頼を回復してきているが、まだまだ道は遠かった。


彼らの本当の敵とはヘルベルトではない。彼のような人間を生み出してしまったこの閉塞感や不公平こそが本当の敵だったのだ。敵は強大であり決して気は抜けない。しかし決して負けない。そう、負けるものですか!

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