#19:未→発見×エチタツィォーネ×追憶

 一面、白い空間で目が覚めた。ように感じたが、横たわった身体には形容しにくい「浮遊感」が纏わりついていて。これはまだ夢の中なのだろうな、という俯瞰的な認識を自然に受け取ってまどろむばかりの自分がいる。現実味の無い白空間の奥行きの測れなさ、それを「意識の薄目」みたいな感じでうっすら眺めている状態。


 いろいろ考えることはありそうだったが、考えるそばから思考野を零れ落ちていきそうであって。


ふと意識が行き着いた先は、随分と前の「過去」だった、わけで。


――なんで、人間には、「感情」があるんだろう。


――なんで、ぼく以外のヒトにはそれが視えないんだろう。


 思えば、今よりも子供の頃の方が「色」は視えていたと思う。鮮明に。そしてそれらがどんな感情を示しているのかも、精神の根っこのところあたりで、捉えられていたように思える。


 掛けられる言葉、向けられる表情。それが、


――視えている「感情いろ」と違うのは何でなんだろう。


 「建前」「本心」、そういったことは後付けで学んでいった。自分自身も、そのように立ち回ることも、幼心でも何とかこなせるようになっていった。それでもいつも分からなかった。


 押し殺し、偽るのならば、感情は何のためにあるのか。


 自己の中で蠢かすだけのものなのか。他者にぶつけるためなのか。なんで怒る、なんで哀しみ、昂ぶり、怯える?


 いつの間にか、僕は感情を表に出さない子供になっていた。出さなくてもそれ相応の扱いを受けるだけだったから、それで良かった。他人の上っ面とは異なる感情に触れ、それに対し更に噛み合わない感情を投げ返すことの方が、僕にとっては不自然過ぎて薄気味の悪いものだったから。


 孤独はさらに僕から感情の発現の仕方を少しづつ、やすりをかけるように削り奪っていった。いつしか「平常」でいること、平常心を保つということ、そのこと自体が僕にとっての平穏に繋がるようになっていた。無機質に、無条件に、相手の言葉をそのままに受け取り、それに対し単に応答するように言葉や行動を「返す」。それだけで事は足りた。「色」はだんだん霞んでいき、意識しなければ視えないようになっていた。


 僕は、感情に触れること、自らのそれを発現することを無意識に抑制するようになっていた。


 それでも完全にそれを排除することは出来ない。「六つの感情枠」の中で、どうともならない「怯懦」。【緊張】【過敏】【心配】【憤懣】【憂惧】【恐慌】【恐怖】。子供の頃の僕は押し殺すことの出来ないそれらに常に「怯える」という、「感情の入れ子構造」みたいな「匣」のようなもののすみっこで、いつも無表情で震えているようだった。


 そんな僕にも話せる友達が一人だけいた。施設の中階段の下の、用具入れの暗闇が、ふたりで見つけた「安心」の匣だった。


――ふみやくんは、大きくなったら何になりたいとか、あるの?


 僕の「何もしない」というずれた答えに対し、彼女は何と言ったんだっけ。


 忘れてしまった。でも今となってはどうでもいいことだった。数か月後、彼女は死んだ。近場にある銭湯の厚意で、月いちくらいでタダで入れるその日の帰りに、国道の交差点の信号待ちのその時、急に吹っ飛ぶような全速力で彼女は飛び出していき、右手からのワゴンの急ブレーキの音の中を、見上げても視界が追いつかなかったほどの高さで飛ばされていった。


 手を繋いでいた僕にも、その「感情」は分からなかった。そんなことをする気配なんて、まるで無かった。でも今なら分かる。分かってしまった。その時に視た、見上げた視界の先に……歩道橋の真ん中で立ち止まっていた「感情」……ヒトのかたちをした、「感情」。


 目が合った、気がした。その目を歪められた、ように思えた。ただその人影が、その場には場違いなはずの、【緑の幸福ハピィ】に彩られていることに、その煮詰め濁ったような色に、風呂上りに火照った身体の体温をすべて持っていかれた。せり上がってこない吐き気、みたいなのが臍の周りを回転しているかのようだった。叫ぶことも出来ずに僕は地べたに尻を突いていた。


 いつも通りの色褪せて擦り切れたパーカーと膝がてかてかになったジャージの下で、施設の講堂で行われた葬式に出て、いつも通りそのあと食堂で晩飯を食べていつも通り寝た。


 何も感じない自分に驚くことも無かった。「怯懦」の感情も無くなっていた。それどころか他のそれたちもひとつひとつ、様々な大きさの「直方体」にきっちりと詰められて意識の隅の方へ整然と積まれ置かれているような感覚を覚えていた。


――「感情」が視える? 「感情」を「箱詰め」に出来る? はっは、するっとそんなことを言えるってことは、相当なもんだ。


 村居さんと出会ったのは、今年の桜の季節……の少し前くらいか。学校帰りにふらっと寄ったんだった。何かに、誘われるように。それが何か、今なら分かる。


――やあ、よくこんな【活気】【興奮】が渦巻いているところで、そんなに凪いでいられるなぁ……キミは、「感情」っていうやつを、自覚していたりするかい?


 洗足池。そうだ。最初に逢ったのは、正にそこだった。そこで僕は呼び止められたんだった。池月橋から、力無く滑り落ちるようにして水面に落ち込もうとしていた、その時に。


 「感情」を共有できるヒト……共通認識として捉えられるヒトに、初めて出会った。死にたいと思う感情は、不思議とかき消えていた。


 「色」を取り戻した僕の世界は、なにか、いろいろ変わって見えた。村居さんの「感情」はいつも自然だ。それが何より心地よい。


 他者に対して、自分の「感情」を、素の感情を出す、ということ、出せるということは正直難しいし、特に僕なんかは無理なことだとは思う。それでも僕は村居さんとの言葉を交わす、「感情」を交わす生活の中で、少しづつそれを分かりたいと思い始めている。


――「感情」を制する者は……世界を制する。なんてね。そう単純に構築された世界じゃあもう無いわけで。だが良からぬ輩はいつの時代も、等量存在するものだよ。そいつらを制する存在がいても、勿論ボクはいいと思うねぇ。そして……キミならその可能性があると言ったらどうする? ふふ、世界を守る、『ヒーロー』になってみないかい、藤野クン?


――わたしはね、『地球勇者アルセイバー』!! わるいやつらをやっつけて、みんなを、せかいをまもるのだっ!!


 ふたりの言葉が、思考の中でカクテルされて、それを一息に飲み干したような感じ……みたいに形容するのはアレか。けど、すとんと腹の底に落ちたのも確かだ。


 ……わるいやつらは、やっつけなければいけない。


 意思を持った覚醒。今度こそ僕は、確かに自分の身体の一部である両瞼を押し開いていく。


「やあ、お目覚め。腹減ったんじゃあないかい? だいぶガンバったからねえ」


 天井から下がったかぼちゃのような形の照明……何て言うんだろう……に視点が合ったと同時に、気配を察したのか、僕に背中を向けて何やら端末に打ち込んでいた御仁から相変わらずの気の抜けたような声が掛かる。【配慮】と【楽観】。やはり、心地よい。


「姫宮さんは……?」


 気の利いた返しをするのがこの場の正解というか礼儀なのかも知れないが、僕は頭の中にずっと留まっていた懸念点を口に出すので精一杯だ。上半身を起こす。身体全体が重い。


 三ツ輪クンと一緒にフロに行ったけどそろそろ戻ってくるんじゃないかな、キミも行ってきたらどうだい、そのスーツじゃくつろげないだろう、との言葉を受け、汗でべとつく顔や首まわりを自覚する。


 それよりも彼女……ひとまずは落ち着いていると、そういうことだろうか……「六面」を全身に配置するというあの対応が、正解かどうだったかは分からない。まったくの無駄だとしたら、うぅん……色々となじられそうだが、まあ謝罪するにしろ何にしろ身を清めておくに越したことはない……と、浴衣やら下着やらタオルを掴んで大浴場へと向かう。


「あ」


 ロビーは夕暮れの赤みを帯びたオレンジの光に包まれていた。ちょうど風呂あがりの二人の姿を遠くに認め、思わず足が止まってしまうが。あっさり三ツ輪さんに見つかってしまう。清め前だが仕方なく歩を進め、彼我距離を詰めていく。


 陽光に彩られ、その身に着けた浴衣の色は判別できなかったが、俯いたままの姫宮さんの首元には例の「猿ぐつわ器具」が無骨なネックレスのように下げられていて。やっぱり無理だったか。無駄だった……のか。


 まもるべきせかいは、ままならないな、とか、


 自嘲じみた、何にもならない思いを固まった顔と脳内に浮かべていたら。


 ほれ、とハの字眉に何か鼻の穴を広げた三ツ輪さんにその背中を押されて、しっとりとした質感の、クリーム色がオレンジに染まった髪を揺らしながら、その頭頂部に僕が設置した「面」を貼りつかせたまま。姫宮さんがおずおずといった感じで僕のすぐ前まで歩み出てくる。


「……」


 いや、この間をどうしろと? といたたまれなさを抑え込めずに非難めいた視線をその後ろで静観の構えの御仁に向けるが、変顔を解いたその紅潮した顔は何か自然な、それでいて意味ありげに眉間には変な皺の寄った、微笑の表情を形作っていたわけで。と、


「……起きたら、すごい、自分の中が静かだったのね」


 ぽつり、姫宮さんから紡ぎ出される言葉。


「……感情四十二個がね、なんか数珠繋ぎで整然と並んでるんだけどね、『嬉しい』とか思ったらね、意識の表層みたいなところに、すーって浮かび上がってくる感じなの。それに引っ張られて違う感情とかも持ち上がってきたりで、一個がまた別の一個にぶつかって共鳴したり……あ、こんなに感情って複雑なんだ、豊かなんだ、って思ったのね。思えるように……なったのね」


 語尾の「ね」がだんだん震えてきたように、僕には聞こえた。


「嬉しいのに……涙が出ることもあるんだね……」


 僕の目を見て一瞬、笑顔を見せてくれた姫宮さんは、次の瞬間、顔をくしゃと歪めて、声も出さずにその細い身体を縮こめてしまうけれど。


 いきなり世界を守れなくても別にいいと思った。まずは僕の目の前で、その小さな両手で顔を覆っている女の子のように、手の届く範囲でのヒトたちを、少しでも助けていくことが出来たのなら。


 君が夢見た「ヒーロー」に、数ミリずつでも近づけるのかも知れないと思った。

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