拾玖ノ妙 おんぼろ骸骨

 犬飼さとみの横たわるベッドにむらがりうごめき合う異形いぎょうの数々を眼前にした棗は、壁の陰に身を隠し座り込んでいた。


 さとみは、益々ますます、苦悶の表情を強めている。


 全身が痙攣けいれんを始め、白目をき、最早、意味を成さない言葉を叫んでいる。

 このまま放っておけば、命を救えたとしても、精神に異常をきたすかもしれない。


 困惑の表情でうつむく棗。


 これらの怪異に立ち向かうということは、巨大な節足動物の中に飛び込んでいくようなものだ。

 これらのモノが見えてしまうが故に、さらに恐怖を増幅させてしまう。


 棗にとって、とても手に負える状況には思えなかった。


 さとみには、そして巫音に対しても、申し訳ないという思いはあるが、異形いぎょうの中に飛び込んで死ぬぐらいなら、ヤモリのあざに一思いに首をられたほうがらくではないか、とさえ思えて来たのだった。


 棗は、今一度、壁の陰から部屋の中をのぞき込む。


 引き千切られ、血に染まった制服。

 最早、立っているのもやっとといった様相の巫音。


 再び、巫音から眼を逸らし、壁を背にうずくまる棗。


 ――いやぁ、ダメ、ダメ、元からこんな世界に足を突っ込む柄じゃないんだ。


「ごめんよ」


 棗は小さく呟くと、その場から立ち去ろうと腰を上げる。


「!」


 その時、棗の脳裏にある疑問が浮かび上がる。


 再度、振り返り、部屋の中をのぞき見る。

 そして、棗の考えは、確信に変わった。


 巫音と狗神の攻防を注意深く観察すると、巫音は狗神のいる方向とは全く別の方向に対峙たいじし、まるで見えない何かと戦っているかのようなのだ。

 そのため、肝心の狗神には、好き放題に攻撃されている。


 ――おっ、織紙巫音、幻覚にまどわされてるんじゃない?


 何とか巫音に、このことを伝える方法はないかと考える棗だったが、狗神に気付かれることを思うと室内には踏み込むわけにはいかない。


 あれこれ思い悩んでいると、力尽きかけた巫音がふと顔を上げ、偶然にも棗と目が合った。

 焦点が合っているのかと思わせるような巫音のうつろな瞳。


 棗は、この機会を逃すまいと、なるべく短く簡潔に言葉を選んで、叫ぶ――かのように口パクする。


「Ο!、―!、Ο!、Ο!、○!、―!、o!、‐!」


「狗神には絶対に気付かれるわけにはいかない」と思っている棗が、出来る精一杯のことだった。


「Ο!、―!、Ο!、Ο!、○!、―!、o!、‐!」


「ん?」


 おぼつかない視野の中に棗の口パクをとらえる巫音。


「Ο!、―!、Ο!、Ο!、○!、―!、o!、‐!」


「えっ?」


「Ο!、―!、Ο!、Ο!、○!、―!、o!、‐!」


 繰り返し、口パクし続ける棗。


 巫音は、朦朧もうろうとしていく意識を集中によってせいすると、棗の口パクを読み取ろうと試みる。


 ――お、ん、ぼ、ろ、が、い、こ、つ。


 おんぼろ骸骨?


 巫音は、目をパチクリし、もう一度、棗の口パクに合わせて口を動かしてみる。


「Ο」、「お」

「-」、「ん」

「Ο」、「ぼ」

「Ο」、「ろ」

「○」、「が」

「―」、「い」

「o」、「こ」

「‐」、「つ」


「おんぼろ骸骨」


 確信したようにつぶやくと、ゆっくりと首を縦に振り、棗に向かって了解の意図を伝える。


 棗も意図を悟ってくれたものと安堵あんどし、やはり首を縦に振り、応援の意味を含めた返答を返す。


 巫音は闇の中を見渡し、微かに見え隠れする品々の輪郭を頼りに、何やら探し始めた。

 如何どうやら巫音は、狗神の御神体ともいえる動物の頭蓋骨が、この部屋の何処どこかにあることを、棗が伝えたかったのだと勘違いしてしまったようだ。


「本物は一つ!!」


 棗が伝えたかった本当の言葉。


「ほ」、「お」

「ん」、「ん」

「も」、「ぼ」

「の」、「ろ」

「は」、「が」

「ひ」、「い」

「と」、「こ」

「つ」、「つ」


 巫音の発想もどうかと思うが、一旦そう思ったら最後、最早、それ以外に読み取れなくなっている。


 狗神の頭蓋骨など、この部屋のどこにも存在しないのだが……。


 頭蓋骨を探すことに気を取られ、狗神の攻撃を全く避けられない巫音。

 深い闇が視界を閉ざし、頭蓋骨どころか室内の様子さえつかむことが難しい。


 巫音は、あきらめて眼を閉じ、意識を集中する。

 頭蓋骨から発せられる怨念ともいえる妖気に、全神経を集中させることにしたのだった。


 ――織紙巫音、何をしてんだ?


 棗の脳裏に嫌な予感がよぎる。


 その間にも、狗神の爪が巫音の脹脛ふくらはぎや二の腕をえぐる。


「痛ぅ」


 苦痛に顔を歪ませながらも、なおも目を閉じたまま乱れる意識を一点に集め直す。

 部屋の隅々すみずみに神経を巡らせ、狗神の頭蓋骨から発せられるであろう微細な妖気を逃すまいとする巫音。


 そして、このことが結果的には功を奏する。


 視覚を遮断して、意識を集中させたことによって、巫音は、視覚に惑わされることなく、気配によって狗神本体の動きを捉え始めた。


 リーン、チリーン。


 髪飾りの鈴の


 意識の闇の中に、微細な気配を捉える巫音。


 ――見付けた!


 くうを切り裂く爪、風切り音。


「!」


 動かなくなりつつある体にむち打ち、渾身の力を振り絞って折り鶴を放つ巫音。


 ミギャギャー。


 狗神が、絶叫のような鳴き声を上げる。


 肩で息をしながら、膝から崩れ落ちる巫音。


 深く暗い闇のもやが徐々に薄れ、月明かりが部屋の中に入り込む。

 うごめき合っていた数多あまた異形いぎょうも闇と共に消えていった。


 狗神は、わずかに残った闇の中にうずくまっている。


 ひたいには、しゅせつと書かれた止縛しばくの呪符。

 呪符の呪縛によって、狗神は身動きできない。


 巫音は、狗神の動きが封じられていることを確認すると、ヨロヨロと立ち上がり、足を引きりながら、さとみに近寄り、声を掛ける。


「し、しっかり!」


 白目をき、今にも気が違いそうになっているさとみの上体を起こし、肩を揺する巫音。


 ピシッ!


 止縛しばくの呪符に亀裂が走る。

 狗神が小刻みに震えながら呪縛を破ろうと霊力を放つ。


 何とか意識を取り戻したさとみが、薄く開いた瞳に光を取り戻す。


「犬飼さん」


 少し安堵あんどして、話しかける巫音。


 さとみが声を発しようとしたそのとき、呪符が真っ二つにくだけ散り、呪縛から狗神が解放される。

 されるがいなや、素早く、狗神が、さとみに跳び掛かった。


「あっ、しまっ」


 不意を突かれて、声を上げる巫音。


 さとみが異様な声を上げる。


「オゴ、アゴ、ウゴ……」


 狗神が、さとみの口から体内に潜り込もうと頭を突っ込む。


「オゴ、ウゴ……」


 さとみの口が裂けるのも構わず、強引に躰をじ込んでいく。

 狗神をみ込んださとみは、口角から血をしたたらせながら、焦点の合わない眼で空を見つめる。


「……」


 突然、さとみの全身に赤黒い血管が浮き出る。

 眼がり出し、妖異の眼が持つ特有の色をし、口角は裂け獣の牙をのぞかせる。


 全身の筋肉が膨れ上がり、身に着けていたシルクのワンピースがはじけ散る。

 皮膚を引き裂くように獣毛が伸び、まるで、さとみの内側から猫の狗神が表出ひょうしゅつするかのように変容していく。


 ミギャー。


 嘲嗤あざわらううかのようにのぞく牙。

 するどい巨大な釣針つりばりを思わせるような爪。


 どちらも一撃らえば、命のともしびは軽くき消えると共に、その亡骸なきがら姿形すがたかたちとどめないことは容易に想像できた。


 巫音の眼前に、猫と言うよりは巨大な熊といった様相で壁のようにそそり立つ狗神。


 巫音が折り鶴を……??


 止縛しばくの呪符で折った折り鶴を使えば、たとえ狗神が巨大だったとしても、その動きを封じることは、決して無理なことではないのだが……。


「えっ」


 ――折り鶴がない!


 巫音は、つい先ほど屋根からバルコニーに侵入するさい、棗にスカートの中をのぞかれ、――棗からしてみれば、あらぬ言い掛かりなのだが、かなりの数の折り鶴を無駄に投げ付けていたのだった。


 ブンッ。


 狗神の前足が空を切り、鋭い爪が巫音をおそう。

 狗神としては、軽く手首をひねった程度のことだった。


「妙!」


 巫音の結界。


 サッシのガラス窓が大きな音を立ててくだけ、同時に、巫音がベランダのフェンスに激突する。

 結界ごとはじき飛ばされ、窓ガラスを突き破り、フェンスに激突したのだった。


 しかし、この程度ですんだのは、結界が衝撃を吸収したからに他ならない。


 フェンスに叩き付けられ、微塵みじんも動く気配のない巫音。


 棗は、恐怖で荒ぶる呼吸を呑み込み、壁に背をグッと押し付ける。


 背にした壁の向こう側に狗神の脅威きょういを感じつつ、唯々ただただ瀕死ひんしの巫音を見つめ続けることしか、棗にはできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る