【田中麻美(3)】
倒れた衝撃で、麻美のこめかみから血が流れ出る。軽い
カアァァァァァァァァァァン!
麻美が横に転がって逃げるのと同時に、床に激しく叩きつけられたバットが工場内に快音を響かせる。
そのまま転がり続けた麻美は、近くに倒れていた作業着姿の男からバットを奪い取り、軽快に飛び起きて身構えた。
対峙する麻美と昭吉──
両者の沈黙が、工場内の様々な機械の作動音を際立たせる。
やがてそこに、相変わらずの笑みを浮かべたままの昭吉の靴音が加わった。ゆっくりと歩み寄るその姿は、まるで熊か何かの大型動物のようだ。
(どうする……これから先は……次は、いったいどうすればいい?)
麻美はバットを握ったものの、充分に戦えるだけの余力がもう残ってはいなかった。
次の手を必死に模索する麻美。
対峙する昭吉のその向こう側で、両開きの鉄扉が静かに開いていくのが見えて身体がさらに硬直する。
真綾だった。
逃げ出したはずの真綾が、なぜかここに戻ってきたのだ。
真綾は、人差し指を唇にあてて麻美に合図を送りながらゆっくりと鉄扉を開け、そして御丁寧にも、静かにそっと閉めてみせた。
(どうして……なんで戻って…………あの子、いったい何をするつもりなの……!?)
麻美は内心激しく動揺したが、それを顔に出さずにいることしか今はできないでいた。
しかも、ゆっくりと昭吉の背後に近づく真綾の手には、木製のバットが握られているではないか!
とにかく、真綾が不意打ちを喰らわせた隙に、自分が決定打を与えるしか勝機はない。麻美は大きな賭けにでる。
「ヒッヒッヒ……お、おっ、お楽しみは、こっ、こっ、これからだぁ」
いやらしく舌舐めずりする唇からは、
「ハッ! おまえ、マジでキモいんだよ!」
昭吉が真綾に気づかないように、麻美はバットを仰々しく構えて注意を惹く。
「に、ににに、逃げても無駄だぁ」
真綾が忍び寄る。
「バカかおまえ!? 逃げも隠れもしてねぇーだろうがよ!」
真綾がそっと近づく。
「あー……観念しただかぁ? ヒッヒッヒッヒ」
真綾が走りだした!
「テメェ、とっとと、かかって来いやオラッ!」
麻美は最後の力が振り絞れるようにと、いつでも走れる体勢になって構えるバットを左右に揺らし、昭吉の注意をさらに惹いた。
が──
「てやあああああああっ!」
真正面の昭吉の背後から、機械音をかき消すほどの真綾の大声が聞こえてくる。
(ええっ!? なんでこんな大事な時に叫ぶんだよ!?)
動揺する麻美をよそに、不必要な叫び声を上げながら、真綾はさらに加速する。
だが、倒れている作業着姿の男につまずいて盛大に転んでしまう。
「えっ、ウソ──きゃあ!」
「な、なっ、なんだぁ? あんれぇ…………な、なんでここに居るんだ?」
物音に振り返った昭吉は、数メートル先で倒れる真綾を不思議そうに首をかしげて見つめていた。
(今だッ!)
その隙をついた麻美は、全力疾走して間合いを一気につめる。
猛獣のように大きく翔びかかり、昭吉の後頭部めがけて、両手で握るバットを稲妻のような速さで振り下ろす。
「──くっ!」
だが、突然こめかみに激痛が走って手元がわずかに狂ってしまう。外れたバットは、後頭部をかすめて右肩に直撃した。
「いだぁああああぁぁはああぁぁ!? こっ、このぉ
着地して片膝立ちになった麻美が視線を上げると、それを見下ろす昭吉の顔は赤黒い目玉がしっかりと確認できるほどの鬼の形相に変わっていて、今までの破顔は嘘のようにどこかへと消え去っていた。
狙いは外れてしまったが、手応えは確かにあった。肩の骨が砕けているはずの昭吉は、それでも右手からバットを離さない。この男は、まさに怪物だった。
「
四つん這いから起き上がろうとする真綾の目の前では、怒り狂う昭吉が2本のバットを天高く突き上げていた。
「やめてぇぇぇぇぇぇ!」
真綾の声も虚しく、そびえ立つ2本のバットはそのまま無慈悲に、麻美の両肩へ急角度で打ち下ろされる。
「あああああああああああああっ!!」
「ヒャッハッハッハッハッハッハ!」
麻美の悲痛な叫び声に呼応するかのように、昭吉が、赤黒い目玉を細めて歓喜の笑い声を高らかに上げた。
「麻美さんを……麻美さんを早く助けなきゃ!」
落としたバットを手探りで拾う。
真綾はすぐに立ち上がって駆け寄り、昭吉に殴りかかる。
「このっ! このっ!」
背中を何度叩かれてもまったく痛がる素振りを見せない昭吉は、まるで牛が尻尾で
お尻を撃ち抜かれた真綾は、声も出せないままに身体を反転させて数歩よろける。
苦痛にゆがむ頬に涙が伝うと、その場にバットを力なく落とし、お尻を押さえながら前のめりに倒れて悶絶した。
「ま……真綾ちゃん……」
身体を横向きにして倒れる麻美も、両肩の激痛で気を失いそうになってはいたが、歯を食いしばり辛うじて正気を保っていた。
このままだと、ふたりは捕まってしまう。
ロッカー室で泣き崩れる妊婦の姿が、麻美の脳裏によみがえっていた。
「──だはっ!? いけねぇ、いけねぇ!」
落ち着きを取り戻した昭吉が鬼の形相を穏やかな表情に変え、床に転がる麻美に大急ぎの蟹股歩きで近づいていく。
「ああ……んはぁっ!? お、おっ、オラとしたことがぁぁぁぁぁぁッ!」
大怪我に苦しむ麻美の様子に、昭吉は青ざめて両手のバットを惜しみ無く床に手放す。けれども、すぐにまたにっこりと頬笑みかけ、足元で横たわる麻美に汗まみれの笑顔を近づけて優しく囁く。
「だっ、だっ、だ、大丈夫かぁ? い、いた、いっ、痛かったかぁ?」
そんなあからさまな反応をされたにも関わらず、昭吉は気にする様子をまったく見せない。さらに笑顔をつくると、麻美の長い赤茶色の髪を左手で掴み、華奢な彼女の身体ごと軽々と自分の目前まで持ち上げた。
「うっ──ああああああッ!」
新たに加わった痛みに、たまらず美貌をゆがめる麻美。そんな彼女の唇を、昭吉は遠慮無しに音をたてて吸った。
「ジュルルルル……びちゅ! ズズズ、くちゅ!」
「ん……うぐっ、ンンンンン!?」
両腕に力が入らない。
払い除けられない。
ただ無様に、足をばたつかせることしか今の麻美にはできなかった。
すべてをあきらめたのか、麻美は抵抗をやめておとなしくなると、両目を閉じて昭吉の唇に舌を
麻美の突然の心変わりに驚いた昭吉は目を一瞬見開くが、すぐに表情をふやけさせて舌を熱心に絡めた。麻美もそれに応えて唇を開き、昭吉のたどたどしい舌を唾液の泉へと誘い込む。
さらに興奮して鼻息を荒くする昭吉は、穿いている作業ズボンの股間部のファスナーを震える右手で下ろしながら、さらに深く、快楽の蜜を求めて舌をねじ入れようと試みる。
「チュッ……うふふ、アハハハハ……」
麻美は、薄目を開けると頬をゆるませ、前歯で昭吉の舌を何度か愛おしそうに甘噛みをしてから喰いちぎった。
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