【田中麻美(2)】

「ぎゃああああああああ!」


 最後に残った作業着姿の男が、叫びながら仰け反りうしろへ倒れる。

 激しい息づかいの麻美がそれを鋭い眼差しで見届けると、安堵の溜め息を洩らしてからその場にへたり込んだ。


「はぁ……はぁ……はぁ……やっとかよ……」


 両手にはたくさんの肉刺マメができてしまい、泣きたいくらいに痛みも感じていた。けれども、その甲斐は存分にあった。

 麻美を中心とした周囲には、紺色の作業着姿の男たちが20人ほど倒れている。その光景はまさに、彼女の強さの証明でもあった。

 今までは昔の過ちを恥じ、消し去りたいと思っていたが、きょうほどその経験値が活かされることはなかった。

 麻美は思わずにやける。

 これからは、かつての武勇伝を自慢して他人ひとに話そうと心に決めた。もちろん、酒の席で。

 だが、なぜか男たちは尻ばかりを狙ってきたので、たった1人でも立ち向かうことができた。これがもし、普通の喧嘩だったら──麻美がバットを杖代りにして立ち上がろうとした瞬間、頭上に気配を感じて急いで振り返る。

 背後には、あごが大きく外れた作業着姿の男が、両手に握るバットを天高く振り上げて麻美の頭に狙いをさだめて立っていた。

 赤黒い目玉をさらに血走らせ、男は驚愕する麻美を睨みつける。

 もう手加減などはしないと、充分過ぎるほどの殺意がハッキリと伝わってくる。


「あ……」


 避けるにはもう間に合わない。

 もはやこれまでかと覚悟を決めたその時、男の頭が一瞬にして『ぐしゃり!』とへこんだ。

 破裂した頭部から飛沫しぶきと脳ミソが麻美に降りそそぐ。だが、とっさに手のひらでうまく防いだため、顔だけは男の内容物からのがれられた。

 細くて白い指の隙間からは、頭が潰れて赤黒い目玉が左右に飛び出た男が、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちるのが見えた。

 そして、肉塊となって倒れる男の向こう側には、同じ紺色の作業服を着た、まるで巨漢力士のようなでっぷりと太った大男が、木製のバットを両手にそれぞれ握って立っていた。


「あっ、あっ、頭なんて狙っちゃなんねぇ。こっ、こっ、こ、こ、殺してどうすんだよ、馬鹿野郎。け、けっ、ケツを狙わねぇとな……ヒッヒッヒヒ」


 吃音きつおんまじりで喋る大男の顔は、ニコニコと不気味にずっと笑っている。細められた小さい目には、辛うじて赤黒い色がのぞいていた。角刈り頭からは汗が滝のように流れ出て、常に息づかいや鼻息も荒い。

 何事が起きたのか理解できないでいる麻美をよそに、巨体の男は周囲を見まわしながら「すげぇ」とだけつぶやく。それから重なるようにして倒れる男たちの元へゆっくりと近寄り、手にしているバットの先端で横たわる身体を突っついた。


「おっ、おっ、お、おめぇが……ひっ、ひとりでぶっ叩いたのか?」


 その問いかけに麻美が無言で答えていると、さらに男は表情を崩して嬉しそうに笑い始める。


「おっ、おっ、オラはなぁ、つ、つつつ、強いおなが大好きなんだぁ。おっ、おめぇの名前は? おっ、おっ、オラの名前は……しっ、し、昭吉しょうきちってんだ」


 昭吉と名乗る男は、相変わらず満面の笑顔のままで麻美を見つめた。

 この男は敵なのか、それとも味方なのか?

 逡巡しゅんじゅんする麻美を気にもしない様子で、昭吉は「あー」とゆっくり大声を上げる。


「まあ、いいや。じ、じじ、時間はたっぷりあるから、仲良くすんべぇ」


 細める目からわずかに見える瞳には、オス特有の卑猥な光が宿っていた。

 麻美はそれを見逃さなかった。

 バットの先端を床に突き、勢いをつけて素早く立ち上がってから正面へと走り出す。

 麻美はそのまま身体を捻りながら前へ倒れ込み、バットを昭吉の左膝の外側へ強烈に打ち込んだ。


「ぐぎゃぁぁああぁああああッッ?!」


 床に背をつける麻美はすぐさま飛び起きて、激痛で前屈みになる昭吉の背後に一瞬でまわり込む。そして今度は、ありったけの力で背中や腰を乱打した。


「このブタ野郎ぉぉぉぉぉぉ!!」


 だが、運悪く数発目でバットがへし折れてしまう。

 麻美は迷わずそれを投げ捨て、数メートル先に転がっていた別のバットを取ろうと、きびすを返して走り始める。


「あああああッ!?」


 しかし、強烈な一撃が無防備な臀部を襲い、麻美は顔面からコンクリートの床へ倒れ込んでしまった。


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