【浅尾真綾】

 開け放たれている旅館玄関口を走り抜けながら、真綾はショートデニムパンツの右うしろポケットにしまってある鍵を確認した。大浴場へ向かう時に、部屋の鍵を預かっていたのである。

 続いて、部屋のテレビ台下にある備え付け金庫の暗証番号4桁を思い出してみる。


『数字はどうしようかな……? あ。真綾の誕生日にしちゃおう!』


 財布を金庫にしまいながら、笑顔の孝之がそう話していた。

 ロビーを勢いよく通過して2階への大階段を上り始めた真綾は、留め具のちぎれた金のネックレスが落ちているのを見つけてすぐに足を止める。それは、金子がしていたネックレスと同じデザインだった。

 息を切らしながら、大階段を見上げる。

 口元に髭剃り痕が残るあの仲居が、片手に木製のバットをぶら下げて立ち塞がっていた。

 綺麗に整えられていたはずの彼女の髪は激しく乱れ、白目は赤黒く染まっている。ブナ林の中では暗くて気がつかなかったが、ひょっとしたら、先ほどの暴漢の目も同じ色だったのかもしれない。


「仲居さん……」


 思わずそうつぶやけば、それに答えるように、仲居はニタリと不気味な笑みを浮かべながら階段をゆっくりと下りて近づいてくる。

 真綾も本能的にそれに合わせて、階段を同じ歩調で後退りする。

 視線は外せない。

 だが、なんの武器も持ってはいない真綾は、バットにあらがすべを思いつかなかった。とにかく、隙をついて全速力で孝之たちの元へ逃げ帰ろうとだけ考えていた。

 仲居はゆっくりと階段を下りている。

 タイミングを見計らい、もう少し後退ってから走りだそうとしたその矢先──視界の片隅に、ロビーの大きな植木鉢の陰に隠れる敦士の姿が映った。

 ひどく怯える少年の姿。

 そして、先ほど見つけた金のネックレス。

 金子は無事ではないことを真綾は察した。

 まだ子供の敦士を、ここに1人で置いて逃げることなどできない。真綾は、素早く周囲を見まわす。

 腕力に自信は当然ないし、相手はバットを持っている。

 何か武器はないものか──

 仲居に注意を払いつつ、後退りながら探していると、土産物コーナーに木刀があるのを見つけた。

 その瞬間、真綾は木刀めがけて全速力で走りだす。

 それに気づいた仲居も、バットを振り上げて全速力で後を追う。敦士は震えながら心のなかで〝がんばれ!〟と声援を送った。


(やった! ねえちゃんが武器を──あっ!?)


 だが、少年の声援も虚しく、真綾が木刀を掴んだのと同時に、うねりを上げたバットが容赦なくショートデニムパンツの尻を激しく打ち抜いた。

 人生の今までで大きな怪我といえば、小学生の頃、校庭で遊んでいて不意にんできたサッカーボールが顔面に直撃して鼻血が出たことくらいだった。

 しかしそれは、恋人との初旅行で更新されてしまう。

 雷でも落ちたのかと思うほどのとてつもない衝撃。その後に残されたのは、経験したことのない激痛。

 木刀を手にしたのと同時に真綾はバットで尻を打ち抜かれてしまい、土産物コーナーに陳列されているケツバット饅頭と共に崩れ落ちた。

 声は出なかった。

 出せなかった。

 声の代わりに、涙がとめどなくあふれ出た。

 苦悶の表情で尻を押さえる。

 触っているはずなのに、痺れているのか、感覚はまるで無かった。

 真綾は、お尻に自信がある。

 ボトムはスカートよりもパンツを好んで穿くので、ヒップラインが綺麗に見えるよう、ほかの部位よりも集中的にストレッチなどの運動をして鍛えていた。

 結果的にそれがクッションの役割を果たしたのか、強烈に痛むけれど、自慢のお尻は辛うじて無事のようだ。

 なんとか四つん這いで起き上がり、涙目で振り返る。無表情の仲居が、バットを振りかぶって次の一撃を見舞おうとしているところだった。


「──ひっ?!」


 まるで赤ちゃんが母親に向かって急いでハイハイするように、真綾は床に転げ落ちた木刀をめざして四つん這いで逃げた。

 逃げたが間に合わず、真綾の美尻にふたたび雷が落ちる。


「きゃああああああッ!」


 胸から倒れた真綾は、苦痛に耐えながら身体をよじらせた。やがて辺りには、すすり泣く声が響き始める。

 冷たい眼差しで真綾の背中を見下ろしていた仲居は、鼻を短く鳴らしてから次の獲物を求めてロビー全体を探るように見まわす。

 敦士は見つからないように両手で鼻と口を押さえ、さらに身を屈めて植木鉢に隠れた。


(くそっ……なんなんだよ、もう!)


 どうすることもできなかった。

 同級生や下級生たちとは違って、突き飛ばしたり頭をひっぱたくなんてできる相手ではない。

 いつも虐めている相手は白目が赤黒くないし、それに大人でもなければバットも持ってはいない。

 中型犬くらいまでなら棒で叩いたことはあるが、今回ばかりはレベルが違い過ぎた。敦士が好きなTVゲームで例えるなら、最高難易度ハードモードの状況である。

 さっきは自分の父親がやられて、村人たちにどこかへと連れていかれた。今度も真綾がどこかへと連れていかれるはずだ。その時が逃げるチャンスだと、薄情なことを敦士は考えていた。

 もっとも、子供ならば当然だし、それが最善策なのだが、日頃の素行を考えると、彼の母親はそれを決して許さないだろう。


「あーら、よっ!」


 突然のかけ声。

 続いて聞こえてくる鈍い炸裂音。

 真綾への尻叩きが無慈悲に再開された。


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