【黒鉄孝之、浅尾真綾(2)】

 外へ出ると、けたたましいサイレンの音が満月の下でより大きく鮮明に鳴り響いていた。旅館の周囲を見ても、ほかには誰もおらず、この状況は異様に感じられてしかたがない。

 やはり、何か災害でも起きて従業員たちは先に避難したのだろうか。だが、もし本当にそうであれば、なおさら宿泊客を置いては居無くならないだろう。

 孝之がそう考えを巡らせていると、敦士がブナ林の向こう側に光の帯を見つける。


「父ちゃん、あれ何かな?」

「ああん? なんや敦士、どれや?」

「あそこだよ、ほら! あれ!」


 よく見ればそれは松明たいまつの灯りで、遠くでいくつも連なり、その炎に照らし出された黒い人影が不規則にうごめいている。

 あれは村人たちなのだろうか?

 とにかく一行は、灯りのほうへと向かうことにした。


「しかし……このサイレンは、なんなんでしょうね? 天気は良いし、どこも焦げ臭くもないですよ」


 先頭を歩く藤木が、横を歩く金子に社交的な表情と口調で訊ねる。


「知るか! どうせアレやろ、祭りや、祭りぃ! 余興とちゃうんかい!」


 酒臭い金子がぶっきら棒に答えれば、それを聞いた敦士が、続けざまに無邪気にはしゃいで喜ぶ。


「やった! オレ、祭り超大好きっ!」


 祭りでサイレンの音を使うとは聞いたことがないので、絶対に違うだろう。金子親子以外の全員が、そう言いたそうな表情になる。

 すると、前方のブナの木のうしろから、1人の中年男性がゆっくりと姿を現す。

 その男は、たれ付きの麦わら帽子に白いランニングシャツと作業ズボン、地下足袋といった出で立ちで、手には不釣り合いな木製のバットを引きずって持っていた。


(こんな夜道にバットを持って、1人で何をしているんだろう? 草野球の帰りとかじゃなさそうだし、なんだか怖いな……)


 そう考える真綾の目の前で、なんの迷いも無く藤木が麦わら帽子の男に近づいて話しかける。


「あのう、すみません。このサイレンは、いったい──」


 話を終えるよりも速く、男は軽快なフットワークで藤木の真横へと移動する。そして、野球選手のようにバットを構えると、藤木のでんめがけて豪快にバットを叩きつけた!


「うぎゃぁあああああぁぁあああッッッ?!」


 それは、一瞬の出来事だった。


 その場の全員が、いったい何が起きたのかを理解するまえに、藤木が尻を押さえて前屈みの姿勢で崩れ落ちる。そして男は、さらに容赦なく藤木の尻にえぐるような角度で2発目を見舞った。


「きゃあああああああっ!」


 真綾が悲鳴を上げるなかで、孝之は慌てて男に飛びかかり地面に押し倒す。続いて金子も加勢し、暴漢の顔面を何発も殴り続ける。

 男の手からバットが離れると、それを素早く麻美が蹴り飛ばした。

 男は気を失ったのか、ぐったりして動かなくなり、ブナ林にはサイレンの音とは別に、孝之と金子の激しい息づかいと藤木のうめき声が加わる。


「藤木さん!」


 麻美は藤木に駆け寄り、すぐに尻の怪我の度合いを確認する。真綾のうしろに隠れていた敦士も、金子に「父ちゃん!」と叫んで抱きつき、声を上げて泣きだした。


「なんなんだよ、コイツは……」


 孝之は額の汗をTシャツの袖部分でぬぐいながら、地面に転がるバットを拾い上げる。

 わずかに射し込む月明かりに照らされたバットには、乾いた血のような痕がいくつかあった。

 すぐに藤木を見たが出血している様子はなかったので、ほかにも被害者がいるのではと孝之は思った。


「ねえ、孝之……この人……死んだの?」


 真綾は孝之の片腕を掴み、不安の眼差しを横たわる男に向ける。


「いや、死んじゃいない。気を失ってるだけだよ」


 真綾の不安をこれ以上駆り立てないように、孝之は血のついたバットをそっと伏せた。


「それよりも──」


 振り返ると、藤木が麻美の肩を借りて苦痛の表情で起き上がろうとしているところだった。


「大丈夫ですか、藤木さん?」

「ええ……私はなんとか。尻のほうは……悲鳴を上げていますがね」


 藤木は笑顔を見せたが、その額には大粒の汗がいくつも浮かんでいる。


「なんやねん、コイツは!? 通り魔か!? クソッ、このアホのせぇでこぶしやってもうたわ!」


 まだ怒りがおさまらない金子は、痛めた右手の拳をさすると、気を失って無抵抗になっている男の脇腹に何度も爪先で蹴りを入れた。


「金子さん!」


 やめさせようとする孝之に、金子は敵意を剥き出しにして睨みをきかす。


「なんや、われぇ。コイツが何したんか、まさか忘れたんちゃうやろなぁ? ああん!?」


 怒りの矛先を変えた金子が、今度は孝之の胸ぐらを掴む。その目は酒の影響もあってか異常に血走り、小刻みに身体や頭を左右に揺らすさまは、狂犬という言葉があてはまる危険な状態であった。


「やめてください!」


 真綾が慌てて止めに入った、まさにその時──けたたましく村全体に鳴り響いていたサイレン音がピタリと止んだ。



 一同は、息を呑んで周囲を見まわす。



 サイレンの音に代わり、近くの棚田からカエルの鳴き声が聞こえてくる。

 怒り狂っていた金子も孝之から手を離し、辺りを警戒し始めた。

 孝之がブナ林の外を見ると、松明の群れがこちらに近づいて来ていた。

 松明を持って歩いて来るのが村人たちであることに間違いはなかった。人相とまではいかないが、炎の灯りで姿が確認できるほど、こちらに近づいて来ていたのである。

 しかし、このまま村人たちと合流してよいものなのか──孝之は葛藤していた。


 倒れて動かない村の男を目にした彼らが、どういった反応を示すのか?


 急に襲われ、尻を狙い撃ちにされたと話しても信じてもらえるのか?


 サイレンが鳴り響くなか、今まで彼らはどこで何をしていたのか?


 そもそも、あのサイレンは、いったいなんなのか?



 答えが何も出ないまま、目の前では松明を手に村人たちが無言で近づいてやってくる。この場の全員、同じ不安を抱いているのか、誰もなんの言葉も発しなかった。

 すると突然、敦士が涙声で口火を切る。


「ねえ、父ちゃん。アイツらもバットを持ってるよ」


 泣き腫らした目をこする少年の指摘に、全員の視線が遠方の人影へとそそがれる。

 よく目を凝らせば、掲げられた松明の揺らぐ炎の下、村人たちのもう片方の手には何か長い棒状の物が握られているではないか。おそらくそれは、バットに間違いないだろう。


ウソだろ……」


 孝之は最悪の事態に、思わず声を洩らしていた。

 やはり、この村で異常なことが起きていた。理由はわからないが、起きていたのだ。


「クソッたれ! アイツらも全員、頭のいかれたバット野郎やんけ!」


 金子はそう吐き捨てると、敦士を肩に軽々と担ぎ、別れの言葉も残さずに来た道を走って戻っていった。

 敦士の泣き声が遠退くなか、孝之も村人たちから逃げる決心をする。


「真綾、オレたちも逃げるぞ! 藤木さん、オレの背中に乗ってください!」

「ありがとう孝之君! 藤木さんも、さあ早く……!」

「いやはや、申し訳ない」


 うまく身動きのとれない藤木は麻美に手伝われ、しゃがみ込む孝之の背中に乗った。麻美と真綾は、孝之たちを前後で挟むかたちで旅館へと急ぐ。


 逃げる最中、背後から村人たちの笑い声が聞こえた。孝之たちをはやし立てているのか、カンカンカンと、何か硬い物をリズミカルに小突く音も聞こえてくる。月夜のブナ林に木霊こだまするそれらは、孝之たちの恐怖心をさらに刺激した。

 それだけではない。村人たちは、自分たちを標的とした狩りかゲームを楽しんでいるようにも思えた。なぜならば、走って逃げる孝之たちに対して、村人たちがその歩調を変えることは決してなかったからだ。


 息も絶え絶えに旅館裏へ辿たどり着いた孝之たちは、そのまま走る勢いを弱めることなく、正面入り口横の駐車場をめざした。

 駐車場には、孝之が借りたレンタカーと金子の黒いランドクルーザーが並んだままだった。てっきり金子親子は先に逃げだしているものと思っていたが、孝之はその理由にすぐ気がつく。



 車のキイが無い……!



 旅館を出るまえ──サイレンを最初に聞いた時、温泉へ入ろうとしていたので車の鍵など持ってはいない。貴重品はすべて、部屋の金庫に預けたままだった。金子も車の鍵は持っておらず、おそらくは部屋へ取りに戻ったのであろう。


「はぁはぁ……た、孝之? どうしたの?」


 息を切らしながら、真綾と麻美はその場で立ち尽くす孝之を怪訝そうに見つめる。


「……鍵が無い。車のキイは、部屋の金庫の中なんだよ」


 呆然とする孝之の返事に麻美が目を丸くすると、間髪を入れずに真綾が「わたしが取ってくる!」と早口で言い残し、数寄屋門を走り抜けて旅館の中へと消えた。


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