情景#02 清流の若楓

 高原のキャンプ場を適当にぶらついていると、なだらかな小川に出くわした。

「引き寄せられたのかな」

 せせらぎの音が耳に優しくて、無意識に音の方へと歩いてしまったのかもしれない。木々が並んで川を囲んでいた。その隙間から陽光が降り注いでくる。光の白いちらつきが跳ねる小川に木々は交差して影を重ねていた。視線をあげると、枝につけた緑葉の鮮やかさが、あらためて季節をつたえてくる。

 水面に写るそらとおぼろげな自分。右手のスマートフォンがそんな自分の顔を半分ほど隠していた。気になってしゃがみこみ、水面の近くに手のひらを寄せてみる。山の風にほんのり湿めけを含ませたような空気が小川の表面を滑っている。


 ふと思い立ち、立ち上がってサンダルを脱いだ。

 そのままサンダルを手に持って、足のつま先を川のせせらぎにちょことんとつけてみる。冷たかった。でもこれは、気持ちがいい方の冷たさだ。水につけた足の感触はとても心地良い。

「風も味方してくれてるし——」

 山の匂いをふんだんに含んでいて柔らかく、肌に優しかった。

 そして、向こう岸と目が合う。

 ——そういえば、昔はこうして裸足で川を渡ってたっけ。

 スマートフォンをかばんに入れて、離れたところに置き、そのまま真っすぐ歩いてみたくなった。

 今では、危ないとか汚いとか、川にガラスが落ちているかもしれないとか、そういうのが脳裏によぎってなかなかできない。普段なら、せいぜい足をつけて眺めるくらいが限界だった。

 それなのに、今は平気で足をつけて川を渡っている。高原の清流に触れて、そのへんの思考の澱のようなものが、いつの間にか吹っ飛んでいた。

「ひーっ。くすぐったい」

 深さは足の踝程度。川の勢いなんて、あってないようなもの。腰を屈めて重心を安定させつつ、足元に注意して一歩一歩、踏みしめるように小刻みに……。

「意外とイケるもんだな」

 渡れた。これが山効果か。

 さっそくタオルで足を拭きたくなった。岸に上がればさっそく砂が足にべたりとはりついてくる。それで、すぐさま向こう岸のかばんが恋しくて折り返した。

「滑ったらヤだよねぇ」

 またもや、腰をかがめてちょびちょびと渡る。光をちらつかせながら揺らぐみなもにつま先が触れる冷たくてくすぐったい感触がクセになりそう。元の岸にあがり、足の水気を拭ってしまってサンダルを履き直した。

 そのとき、ざぁっと音が立ち、風が周囲の木々を揺らす。見上げると、日差しがこちらを覗き込んできて、つい右手をかざした。

 ふいに一片の緑葉が、そばをひらひらと漂うように落ちてきて、肩に乗る。親指と人差し指でそれをつまんだ。

「若楓……ってやつ?」

 星の形をした一片の葉。高原と清流の風を吸って、瑞々しい緑の色をつけている。

 夏に触れた気がした。

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