女の物語

 乾いた銃声で目が覚めるとわたしはお世辞にも清潔とは言い難いけばけばだらけの毛布にくるまれていた。なんだか頭の芯がぼうっとする。

 今日は何日? 足の踏み場もない六畳間に起きあがると洗濯物を干すのにも難儀な程狭いベランダに出て外の空気を吸った。

 刺すような冷気。もうそんな季節? ここは二階のようだ。

 目の前に古い三階建てのマンションがある、トタン屋根の外階段。

 当たり前のようにサッシの脇に置かれた双眼鏡で覗き込み倍率を調整する。

 わたしの操作は迷うことなくマンションの一室だけを捉えた。そこではカーテンが引かれることもなく、一人の女が着替えをしている。


……今気が付いたのだが、咄嗟に、居たたまれなくなり、わたしは奥の狭いユニットバスまでごちゃごちゃとした紙屑や雑誌類に足を取られながら走った。

 走るほどの距離はなかったにしても――鏡を覗き込むとそこには無精髭の生えた、体裁良かからぬ若い男の顔があった。


 一体どういうこと? 何故男になってしまったの? そしてわたしは忘れていた何かに気が付きもう一度ベランダの双眼鏡を手にした。


 そこには着替え終わった女が煙草を蒸かしている。

 それはわたしだった。つまりわたしは得体の知れない向かいのアパートの男に変わってしまい、自分自身を観察しているということだ。

 そうだ、このアパートは向かいにあるプレハブの学生向けアパートだった。

 その事実に気が付いてもわたしは向かいのマンションで紫煙をくゆらす女に目が離せなかった。

 くたびれた三十女、下着にだけやたらと金をかけて。


 見ていても埒があかないから外へ出た。

 というよりも女に我慢ならなかったのだ。


 今日は休日なのだろうか、曇天のうえ、ジャージのポケットにねじ込まれたスマホは電源が切られており、充電していないらしく日付も判らない。

 サンダル履きでふらふら歩いて、わたしもよく利用するコンビニエンスストアの入り口をくぐった。

 まだ朝だ。

 スマホ同様ポケットには数枚の千円札がねじ込まれていた。

 菓子パンと缶コーヒーを買う。

 とりあえず頭を整理しなくては……足が自然と向いたので雑誌コーナーで立ち読みすることにした。

 わたしも好きな男性向けのちょっと変わった雑誌だ。

 素人臭さが売りの男性向けグラビアに混じって『世界の死刑』なんて特集の混じった雑誌。

 表紙を手に取ると扇情的なアオリに混じって『実録! ストーカー男』というコピーがわたしの目を引いた。

 そこにはお馴染みストーカーがドキュメンタリーと銘打って紹介されていた。


 対象のゴミを盗む、盗聴器を仕掛ける、中傷のラクガキをする、向かいの建物から双眼鏡で二十四時間監視する……こめかみが痛む気がしてわたしはコンビニエンスストアを後にした。


 帰路、すれ違いざまに、あからさまな嫌悪を示して女が通り過ぎていった。

 なんだか臭う? 家に帰ろうとしたがもうあそこはわたしの家ではなかった。

 今はあの怠惰な女がゆるりと過ごす城だ。

 結局学生向けアパートに戻ってきてしまった、そういえば出かけるときに鍵をかけて出なかったが、勿論荒らされてはいない。

 仕方なしに着られそうな新しい洗濯物を整頓できていない洗濯物の山から選び出し、カビだらけの風呂に入った。

 生まれて初めて髭を剃った。

 そしてなんとか自由に歩き回ったり出来る場所が確保できるまで部屋を整頓するともう日が高くなっているようだった。

 昼食に朝の残りの菓子パンを食べながらわたしは双眼鏡を覗き込んだ。


 相変わらず開きっぱなしのカーテン、椅子に腰掛け女は下着姿でペディキュアを塗っている。

 毒々しい黒。

 背徳の黒。

 サバトの黒。

 密儀の黒。

 小麦一枡は一デナリ、大麦三枡も一デナリ、油と葡萄酒を損ねてはならない、秤を手にした乗り手の馬の黒。

 そして黒化ニグレドの黒……べたべたしたクリームサンドパンはさながらイエローケーキのようだ。


 それを水道水でやっとのこと嚥下する。

 向かい側の女はまた煙草を吸っている。

 サッシを開けた。

 部屋は煙で白く霞んでいる。

 染みついた煙草の臭い。


 それにしてもわからないのはこの男がなぜわたしを観察していたのかということだ。

 わかってはいても自らの醜態を眺めているのはやりきれないので、わたしは男の素性を探る。

 部屋を整頓していて判ったことだが彼はかなりの好事家であるということだ。

 スライド式の本棚にびっしりと本が詰まっている、ハードカバーの単行本に図鑑、雑誌の増刊特集。

 漫画は一冊もない。

 男は学生なのだろうか? 教科書然としたものもいくつか見受けられる。

『ドイツロマン主義における芸術批評の概念』? いったい何を勉強していた、あるいはしているのかしら。


天上のものたちの


ひとりをもたらすならば。だが、そのための


ふさわしい手をもたらすのは われら自身なのだ。




 ? 得体がしれないわ。

 置きっぱなしの財布に免許証や学生証の類がないか捜してみたけれどそれも徒労に終わった。

 見つかったのは車の鍵だけ。

 表札は? 残念、出ていない。


 なんだかバカらしくなってわたしはその作業を中断した。


 そして未洗浄の食器が散乱したシンクの台所にある、あまりかわいくない、ウサギの絵柄が内側の底部に描かれたマグカップに、湿気たインスタントコーヒーを入れて湯を注いだ。

 なんとか器を置けるくらいに片付けた折り畳み式テーブルに向かって座り、コーヒーを啜ると少しは考える力というものが湧いてきた。


 そもそも、目が覚めたらわたしはこの男だった。

 では目覚める以前は何だったの? わたしは本当に『彼』が双眼鏡で覗く部屋の女だったの? ああ確信が持てなくなってきたわ。

 こうやって女口調で思考しているのもおかしくなってきた。

 だとしたらあの部屋で怠惰に過ごしている女は一体誰なの。

……その方が整合性が取れている。

 わたしは目覚める以前からずっとこの男だったけれど記憶が錯綜しており、自らがストーキングしている向かいのマンションの女であると錯覚に陥っている。

 でもあの銃声、あれは何? 確かにわたしは銃声を聞いた。

 映画で使われているような仰々しいサウンドエフェクトではなくて乾いた『パン』ていう音。あれがリアルな、ほんものの銃声に違いないわ。

 あれはなにか目覚めの契機だったに違いない。

 でも誰が? それが鍵な気がする。それさえわかれば全てが解けるような……

 薄く入れたコーヒーが徐々に減ってゆき、底の絵柄が再び現れる頃にわたしはひとつの考えに行き着いていた。


 もしわたしが以前は向かいのマンションの女で今は、反対側のアパートの学生らしき男であるならば、女であった以前はいったい誰だったのか? もしかしたらやっぱりこの男だったのかもしれないし、あるいは他の誰かだったのかもしれない。

 するとこの二人の男女を往復しているという可能性と、あるいは全く別の人間を絶えず渡り歩き演じ続けているという二つの仮説が成り立つ。

 だが男がわたし――と思われる女性を観察していたという事実から前者である可能性が高いと思われる。

 では、わたしとは一体何なの? どちらにしろ本来の自分というものは存在しないの? 二人にしろ、たとえ大勢にしろ虚しくほかの人間をやり続けてきた。


 だからこそあの下着姿の三十女に吐き気こそすれ愛着もない。


 わたしはアパートを出て二三角をを曲がった駐車場に来ている。

 この近くで駐車場はここだけだからだ。

 湿った枯葉がところどころ色の変わった砂利に貼り付いている。

 男の車を捜すためだ。鍵に付いている釦でドアが開くタイプだったので、しらみつぶしにいろんな車のドア付近で釦を押してみることにした。

 ここに車がなかったらどうしよう。あるいは二輪車の鍵だったら? だがわたしの不安はすぐに消えた。薄汚れた黒いセダンのロックが解けたからだ。

 冷たいシートに座ってみる。すでにわたしの《はら》 肚は決まっていた。


 今度は近所のスーパーマーケットの生活用品売場に来ている。

 もう夕暮れだ。暗くなるのも早い。

 そんな季節になったものね。

 とりあえず一通り売場を見て要り用なものを買うことにした。

 ビニルの透明レインコートと文化包丁だ。

 それをジャージのポケットの中の金で支払って、外へ出た。


 そしてあのアパートの階段をゆっくりと昇るのだ。わたしは今やただ一人の人間、わたし自身でありたいと思っている。

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