第3話 美しい怪物


 才能があると持て囃されたのは、スケートをはじめて早い段階だった。始めたきっかけは喘息を克服するためだったけれど、年の離れたお兄さんやお姉さんに混じって6歳の子供がダブルアクセルを飛べば、誰だって目を剥くものだろう。


「すごいわね。まるでワカサギみたいだったわ」


 そう頭を撫でて褒めてくれたのは最初は母だった。母に褒められるのが嬉しくて、私はどんどん氷の世界へとのめり込んでいった。滑り一つで、どうして違う世界が見せられるのだろう。当たり前のように氷の上に一日中いて、呼吸をするように技術を身につけていった。生まれたての魚も当たり前に泳げるのだ。同じことが、人間が氷の上でできないはずがない。ユーリャ、あなたは美しく、とても強いスケーターなのねという言葉が素直に嬉しかった。


 母が褒め、同じリンクにいる同い年の子供がすごいと口々に言い、そうして指導者の目に止まった。ロシアの指導者や先生は、才能というものを非常に愛している。それは才能を持った子供も同じだった。


「この子をもっと有名なコーチのところに習わせましょう。そうすればオリンピックチャンピオンだって夢じゃないわ」


 そう言ったのはエカテリンブルクで教わったはじめての先生だった。私が10歳になった時、彼女は紹介状を一筆したためて、私を自分の元から離れることを勧めた。

 当時五輪のことはなにもわからなかったし、はじめて教えてくれたタチアナは優しい先生だったから、離れるのはとても寂しかった。だけどタチアナは、別れ際に、あなたの滑りはいろんな人に見てもらうべきなのよ、ここで終わってはいけない、遠くからいつまでも応援しているわと言って抱きしめてくれた。


 エカテリンブルクのスケートリンクが潰れたのは私が離れた直後だった。


 そうして降り立ったサンクトペテルブルクは、別れの寂しさを忘れさせるほど美しい街だった。宝石のような街。この街で私はスケートを続けられる。それはものすごく楽しい想像だった。

 ……いま振り返ると、幼さゆえの楽観性とものの知らなさが成せる想像だったのだろう。来てすぐに、ここは宝石の街なのではないと思い知らされた。建物や装飾が美しいだけで、人間には私の故郷と同じように、余裕がない。街中では失業者が溢れ、道路脇でビール瓶を売る人の姿をちらちらと見つけた。ーー国がソビエト連邦からロシアになったことが確実に影響している。


 そんな人々とは裏腹に、スケートリンクは巨大だった。待っていたのは、あたらしい先生。そして、才能豊かなリンクメイトたちだった。

 私を指導することになったワジム先生は、当時40代後半の穏やかな男性だった。何人かのオリンピアンを育てた優秀な指導者だ。遠いところからはるばるようこそ、これからは私が教えるからねと言って温かく迎えてくれた。


 反面、リンクメイトたちの反応は冷たいものだった。初日に深々とおじぎをしてもまともに目を合わせようとしない。


「気にすることではない。君が特別すぎるからだよ」


 そうして練習を重ねる日々が始められた。

 一緒に来た母は、しばらく同じアパートで暮らしていたが、すぐに故郷に帰ることを余儀なくされた。理由は二つ。ペテルブルクでの労働許可が降りなかったこと。もう一つは、故郷にいる祖母が病気になり、看病が必要になったからだ。

 住んでいた当時のアパートは最悪だった。狭い上に、シャワーとトイレは共同。衛生的にもあまりよろしくはなく、共同部分はアルコールと尿と、すえた生臭い匂いが充満していた。化粧と香水のにおいがきつい女の人から、わたしの部屋に来ないかと言われたことがある。それからしばらくの間、大人の女性が苦手になった。


 一日の大半を氷の上で過ごす。筋肉トレーニングはランニングは併設のスポーツセンターで自由にできた。


 リンクメイトからは少しずつ、自分の内側が削られていくようなことをされた。氷の上では表立ってはされなかったが、靴を隠されたりロッカールームでいじめられることは日常的に行なわれた。……大人になった今でも、その時の記憶は鮮明に残っている。嫉妬も混じっていたのだと今になればわかるが、当時は怖くて恐ろしくて仕方がなかった。


 ワジム先生は庇ってくれた。そして、守ろうとしてくれた。異常な速度で上達する私を、過剰なほど褒めてくれた。……だが、ワジム先生が守れば守るほど、庇えば庇うほど、褒めれば褒めるほど、その行為は激しくなっていった。私はその年の男の子と比べて小さく、また気も強いほうではなかったから、嫉妬をぶつけるには格好の獲物になっていたのだろう。田舎に帰れと罵る人もいれば、怪物だと恐れながら罵倒してくる人もいた。

 怪物。

 それは幼心に、言われるには嫌な単語だとはっきりと感じた。言われるだけで、自分が人間ではない、人の形を持った化け物のような気持ちにさせられたからだ。


 唯一助けてくれたのは、三つ年上のアルチョムだった。


 彼は、ワジム先生とは別のコーチに教わっている、サマーラからきた男の子だった。頭を抱えて小さくなる私に、手を引いて庇ってくれた。大丈夫か? と聞いた彼の目は優しかった。頷くと、彼は大きな掌で撫でてくれた。えらいな、よく我慢したな。


「何かあったら、俺に言えよ。一緒に頑張ろうな」

 彼は才能のあるスケーターだった。ジャンプはあまり得意ではなかったようだが、滑りの質が高く、一歩がよく伸びる。体格もよく、背も高い。がっしりとした彼の滑りに憧れを抱いたものだ。


「トリプルアクセルを練習しているんだ。アクセルはいちばん好きなジャンプだから、なんとかしてものにしたい」


 屈託無く私にそう語った。

 サンクトにきて数年はそんな風に過ごした。アパートでたったひとりでも、ロッカールームでいじめられても、アルチョムがいれば大丈夫だった。彼のことをチョーマ兄さんと呼ぶまで、それほど時間はかからなかった。私の滑りを、彼はワジム先生と同じような熱量で褒めてくれた。ユーリはすごいね。近いうちに、世界ジュニアの代表にもなれるかもね。そうなれば、オリンピックだって夢じゃないよ。


 ……私を救ってくれたのが彼ならば、彼を奈落に突き落とすのは私だった。





 12歳の誕生日を迎える直前の出来事だった。  

 それを見たワジム先生は、まず目を見開いた。


「ユーリ、今何を飛んだ?」


 ワジム先生のところには何人もの優秀な生徒がいた。その中には五輪に出場した選手もいた。その選手がやるように、3回半回って降りるだけ。何も難しいことはない。

 氷の上に、一本の線が残っている。スーッと伸びて切れ目がない。今まさに、私が作ったトレース。


「トリプルアクセルだよ! ユーリ、お前よくやったなぁ! いつのまに出来るようになったんだ?!」


 ワジム先生が大声で褒めた。私を抱えて頬擦りをする。

 時間が止まった。周りの人間は固まって私とワジム先生を見ている。驚いているもの、感嘆するもの……恐ろしい目で私を見るものと様々だった。コーチング陣は素晴らしい宝石を見る目をしていた。リンクメイトは化け物を見る目で固まっていた。


 真後ろで、氷よりも冷たい気配がした。ワジム先生の腕に抱かれながら、私はゆっくりと振り向いた。見るのが……確認するのが怖かった。

 アルチョムが、からっぽの瞳で私を見つめていた。


 そのまま彼は背中を向けた。


 ワジム先生が私から離れたと同時に、私は彼を追いかけた。氷から出て、エッジカバーをつける。その間にも彼はどんどん進んでいく。いつのまにか彼は着替えてしまっていて、必要道具を入れた鞄を肩にかけてしまっていた。……練習はまだ続くのに、リンクの入り口に向かってぐんぐん歩を進めていた。


「チョーマ兄さん」


 彼に追いついたのは、リンクからでてすぐのところだった。

 優しい先輩は私の声に反応して、足を止めた。彼は一歩、街へと踏み出していた。私はスケートリンクの扉に手をかけていた。見えない境界線が引かれているように感じられた。

 氷の世界の住人と、そうでないものの。

 私に向き合った彼は、先ほどのからっぽの瞳で笑った。顔には彼らしくない、荒んだ色があった。


「お前、すげえな。そんなに小さいのに綺麗な顔して、あれだけ滑れて。俺がどれだけ練習しても飛べなかったトリプルアクセルを簡単にとんでさ」


 自分のことを綺麗だと思ったことは一度もなかった。すごいと思った事も一度もない。私の何がきれいなのか誰も教えてくれなかった。私の何がすごいかも、言うだけ言われて理由や原因を教えてくれない。


「ほんと……怪物みたいだよな」


 体が凍りつく。血の気がすっと引いた。……1番聞きたくない言葉を、1番言って欲しくなかった人から言われた。


「ごめんな」


 それは私に放った言葉への謝罪ではなかった。

 話を掛けるな、というサインだった。


「お前はすげえよ。だけど、お前見てるとさ、滑ってる自分がどんどん嫌いになるんだよ。それって物凄く辛いんだよ。……わかんねえよな、お前には」


 彼はそう言って立ち去り、二度と練習に来ることはなかった。辛いような泣きたいような、諦めた笑い顔。正真正銘、それが彼をみた最後だった。

 故郷のサマーラに帰ったとワジム先生から聞かされたのは最後に見た2週間後だった。集まったリンクメイトはもったいないと口々に嘆いた。あからさまに私を睨む人もいた。よっぽどショックだったんだよ。あんな痩せた鶏に先を越されて。……そんな声が聞こえてきた。


 気がつけば、私はリンクから飛び出して、吹雪吹き荒れる宝石の街を彷徨っていた。練習着のまま出てしまったから、切り刻まれるほど皮膚が痛い。


 できるなら、このまま切り刻まれてしまいたかった。


 怪物だと言われて、私が傷つかないとでも思ったのだろうか。私は、私が出来ること、できたことをそのままやっているだけだ。それの何がいけないのだろう。何が悪いのだろう。何が……そんなに恐ろしいのだろう。


 だが彼も、彼自身の心のより深い部分で傷ついていたのだろう。彼は練習熱心で、雑味のないきれいなスケートの持ち主だった。苦手なジャンプもトリプルルッツまでなら完璧に飛べる。だけどあと一歩、あと一歩のところで届かなかった。私のことをかばい、守りつつ、私のことを皆と同じように恐ろしく見つめていたのだろう。抑えきれない、泥のようなものも抱えていたのかもしれない。


 そこに私が追い討ちをかけた。

 結果的に私は、一人の有望な人間の未来を潰したのだ。


 死者を埋め立ててまで飾り立てた、超然的な街。聖ペトロの街。

 美しい街。美しくてーーものすごく疎ましい。私のような人間がいるべきではないと言っているようにも、私にこの街のように、この街の一部になりなさいと言っているようにも聞こえた。それは他者を踏みつけてでも、強者であれ、美しくあれと語っていた。


 容赦のない冷たさが痛い。


 滑るのは好きだ。でも、ただ滑るだけでよかった。なんでエカテリンブルクから離れてしまったのだろう。オリンピックに行きたいわけじゃない。競技者になりたいわけじゃない。


 怪物と言われるぐらいなら、才能なんかいらない。


 夜、たったひとりで冷たい布団に入ると、練習中のワジム先生の温かい言葉や褒め言葉より、ロッカールームでのリンクメイトの罵倒の方が蘇ってくる。

 昔の温かい時間に戻りたい。だけど、私を迎えてくれる氷はもうどこにもない。

 なんでこんなところにいるんだろう。


 私の奥底を凍りつかせたまま、時間はどんどん過ぎていった。体も変わり、技術も変わった。でも心はそのままだった。

 自分が何のために滑っているのか。自分がどうして滑らなくてはいけないのか。何もわからなくなってきたときに、世界ジュニアの代表が決まった。

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冬の魔王と百の花 神山雪 @chiyokoraito

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