第二十九話 期待





翌朝目が覚めた時、俺はまず、“どうしたらいいんだろう”と考えた。


おかねさんは昨日、大家さんから「好きに生きなさい」と言われ、ただ、「そうですか」と返事をしただけだ。


彼女はまだ、俺を恋人にするとも、亭主に持つとも言っていないし、そもそも俺は、「惚れた」だの「好いた」だのと言われたわけでもない。


だとするなら、俺はまだ彼女から何も告げられていないことになる。


でもやっぱり、おかねさんが言った、「お前さんにこの傷を嫌がられやしないかと思って」というのは、恋心のようなものには違いないんだろう。


俺がそう考えている時、衣擦れの音がして、俺の横でおかねさんがむくりと起き上がった。


「あっ…!」


俺は、“おかねさんが俺に恋しているかもしれない”なんていうことを考えていたので、慌てて声をあげてしまった。それに、なんだか恥ずかしくて顔を上げられない。


「お、おはようございます…」


俺は、彼女がこの朝に何を言うのかを考えていた。“まさか「おはようございます旦那様」なんて言いやしないだろうけど、何がしか俺への優しい言葉があったりはしないか”と、やっぱり期待していた。


「おはよう。水を汲んで、お米を炊いておくれな」


はっとして顔を上げると、おかねさんはどこか怒っているような顔をしていた。でもそれも一瞬見せただけで、彼女はさっさと起き上がって布団を畳み、井戸へ行くために家から出て行ってしまったのだ。



「…あれ…?」







言われた通りに俺は桶を持ってあとからついていって、井戸で洗面と歯磨きを済ませたら水を汲み、お米を炊くために竈に火を入れた。


その後ろでおかねさんは、今日稽古に来るお弟子のおさらいは何なのか、書きつけた帳面をめくり直したり、お米が炊ける頃合いになると、棚の中からお気に入りのたくあんを出したりしていた。


「いつもの通りに切っとくれ」


竈の様子を見ている横からたくあんを差し出され、「はい、わかりました」と受け取る。うちはいつも朝はおかずはたくあんで、俺が二切れ、おかねさんは三切れだ。


そして俺はたくあんを包丁で切って小皿に盛り付けると、そのあとでごはんを茶碗によそった。


“そうだ。そういえば今朝は、お膳はどこに…?”


俺はちょっとおかねさんを振り向く。おかねさんは俺を見ていなかったけど、ごはんができあがるのを待ち切れないで、いらいらしている様子だった。


「あの、おかねさん…お膳はどこに置きましょう…」


すると彼女は、こちらを振り向き、俺を睨む。


「何言ってんだい、いちいち聞くんじゃないよ。お前さんはそこ、あたしはここだろう!」


おかねさんが「そこ」と指さしたのは、俺が元々膳を据えていた、土間からすぐの畳だった。



ええ~っ!?昨日のあれ、なんだったの!?



でも、動揺を見せるわけにはいかないしと思って、俺は「はい、すみません」と返し、膳を元の通りに据え、皿と茶碗を置いた。そして俺たちは「食べよう」、「そうしましょう」と言って食べ始めた。


ここで一つおことわりだが、江戸中期には「いただきます」と「ごちそうさま」は、まだ一般的ではなかったようだ。


俺が前に一度だけ「いただきます」を言った時、「なんだいそりゃあ」とおかねさんにいぶかしがられたので、あわてて「なんでもありません、ひとりごとですよ」と訂正したことがあった。







そして俺が膳を片付けるころになると、おかねさんはまた帳面をめくって、今日の稽古のための準備をしているらしかった。


「ここがね…ここも、もっと…もう少しきつく言ってやらなけりゃだめかね…」


おかねさんはぶつぶつと言いながら、きりりと眉を吊り上げている。俺はそれを後目に、井戸まで食器を運んで洗った。









お稽古はいつも通りに済んだ。と言いたいところだが、そうはいかなかった。



「何やってんだよ!そこはそうじゃないと言っただろう!」


「へいっ!すみません!」


おかねさんはその日に、とうとうお弟子に向かってばちを投げつけてしまったのだ。


投げつけるだけで、撥で殴ったりはしていないものの、俺はそのお弟子の帰り際に、表で問いただされた。


俺はその時、井戸端まで洗濯物を運ぼうとしていたところだった。そこへガラガラと戸が開いて、俺の後から出てきたお弟子の「助三郎すけさぶろうさん」は、俺を捕まえ、こう言ったのだ。


「師匠は何があったんでい。あれじゃあまるで気でもちがったみてえだ。あの剣幕けんまくぁおめえさんも見たろう」


「は、はい…特に今日は、ご気分がすぐれないようでして…本当にどうも、すみません…」


「いや、おめえが謝ることでもねえけどよ、おれぁこの分じゃ、ここへの出入りをかんげぇるぜ…じゃあよ」


「はい、お気をつけて…」


俺は助三郎さんが気の毒だと思っていたし、肩を縮めて見送るしかなかった。


助三郎さんは、確かに腕がまずい。それはそうだけど、その日のおかねさんはお世辞も出ないどころか、最低限の礼すら欠いていた。



俺は洗濯が済んで家へ帰ると、出かけようとして少し化粧をしていたおかねさんの前に進み出る。


「お師匠。あれではあまりに、助三郎さんがかわいそうです」


俺は下男だ。多分まだ、そうなんだろうと思う。でも彼女は、俺の言うことには耳を貸してくれるかもしれない。そのくらいの信頼関係なら、作ってきたつもりだ。


そう思って畳に手をついて、背中をかがめた格好ではあったが、俺はしっかりと顔を上げておかねさんを見つめた。


するとおかねさんは、ぷいと横を向いて唇を突き出す。


「うるさいね。お前さんが教えてるわけでもないだろ」


「ですが…」


「いいんだよ!あたしはお菜を見に出かけるから、お前さんも飯の支度をしな!」


「はい…」






俺たちはその晩、狭い四畳半に布団を並べ、それぞれ横になって薄掛けにくるまった。行灯の火は消え、部屋の中は真っ暗だ。


おかねさんは壁に向かって寝転び、こちらに背を向けている。彼女が寝転んだ時、そんな気配がした。


“彼女のあの言葉は、もしかしたらただの気まぐれだったのだろうか…”


“そうだとするなら、俺が「恋が叶った」と思っていたのも、ただのぬか喜びかもしれない…”


“でも、これで元に戻ったとするなら、彼女はまだ苦しみを手放していないことになる…”


俺は仰向けになって見えない天井を見上げ、そうやって考え事をしていた。しかし、その時おかねさんは急にぐるりとこちらを向いたようで、耳元で「お前さん」と聴こえたのだ。


「わっ!」


俺は考えていたことを見透かされたように驚き、叫んでしまった。でも彼女は気にしていないふうだ。


闇の中、彼女が楽しそうに笑う声がする。


「お前さん、明日あたしが弁天様に行くときに、ついておいでな。こづかいもやるから、少しはいい思いができるよ」


「えっ…よろしいんですか?」


俺は、“なんだか唐突だな”と思った。布団を敷く前は、彼女はとても不機嫌そうに見えたのに。


「ああ、いいよ。じゃあおやすみな」


「は、はい、おやすみなさい…」



“こ、これは…もしかして、デートのお誘い…?いや、でも俺の扱いは、下男のままだし…”



不可思議な彼女の振舞いに戸惑いながらも、俺は胸をときめかせ、“もしかして、もしかしないかな…”とまた期待をしながら、ゆったりと目を閉じた。









つづく

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