第二十八話 説得





俺はおかねさんの必死の叫びに呑まれてしまいそうになった。浴衣の袂を両手で揉んで涙を流している彼女を見て、“早く言わなければ”と心が急いたけど、今は俺が何を言っても彼女を傷つけて混乱させるだけなのはわかっていた。


“でも、言わなければ”


俺は喉が震えて熱く、両手の指先もぶるぶると震えて、今は待ち焦がれていた時なのに、彼女を痛めつけることしかできない自分が不甲斐なかった。悔しくて仕方なかった。


「わたくしは…私が、あなたを嫌がるはずがないじゃありませんか…それに、私の姿だって、病のせいで、「あの方」とはもう違うのです…!」


“なぜこんなまずい文句しか選べないんだ!”


俺の声はやっぱり震えていて、でもそれに負けて嘘に聴こえるなど嫌だったから、ほとんど叫び声のようになった。俺だって泣いていた。


「でも、だめなんだよ…お前さん、だめなんだ…」


おかねさんはそこから「だめだ」、「だめだ」とうわごとのように繰り返してから、座り込んでいた布団にわっと泣き伏すと、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。








俺は、おかねさんがよく眠っていて、しばらくは起きないだろうことを確かめてから、大家さんの家を目指して歩いた。


何をしようというわけでもなかった。でも、“自分たちよりかなり年上で、世間をずっと渡り歩いてきた大家さんなら、おかねさんを説得できるんじゃないか”と、考えていた。




「おや、めずらしいね、秋兵衛さん。主人は今、奉行所に呼ばれているんだよ」


大家さんのおかみさんは、にこにことして俺を迎えた。でもその時の俺は、世間そのものがなんだか不人情なような、この世は悲しいだけのような、そんな気でいた。


「どうしたえ。なんかあったんかい」


そう言われて顔を上げると、おかみさんは俺の顔を見て笑った。


「いい羊かんがあるよ。急いでないなら、待つかえ?」


「ありがとうございます、そうさせて下さい…。お邪魔します」








大家さんはやっぱりすごく忙しいみたいだったけど、俺が小半刻も待っていると、帰ってきた。


「ふいーっ。あちいなあ。ばあさん、冷たい茶漬けを…おや、どうしたね秋兵衛さん」


首元の手拭いで汗を拭いて、大家さんが現れた。俺はその時までじっと待ち続けていたものだから、その瞬間に、後ろから突き飛ばされたようにその場に土下座をしたのだ。


「お、お願いします…!おかねさんが、おかねさんが…!」


何を言うこともできない。できるはずがない。こんな話を他人ひとにしていいはずがない。だから俺は、そんなことを言いながら顔を上げて、大家さんを見つめた。


「どうした、何があった」


大家さんは、俺があんまりに必死な調子で叫ぶものだから、おおごとだと思ったのか、あたりを見回しおかみさんを見た。おかみさんももちろん話を聞いていないんだから、“わけがわからない”と首を振るばかりだ。


「まあまあ、落ち着きなさい。なんだい、おかねさんがどうした?わけを話してみなさい」


「はい、実は…」


そこで俺は、ちょっと大家さんのおかみさんの方を、やっぱり見てしまった。彼女の名誉のためなら、なるべく話の内容を知っている人は少ない方がいいからだ。


「あら、あたしゃお茶をいれないと。冷や茶漬けはまだいいんだね?」


「そうしておくれ」


おかみさんは何気なく席を立ち、俺はその背中にちょっと会釈をしてから、今回起こったことをすべて話した。









「そうか…事情はわかったが、秋兵衛さん、お前さんにできることは少ないだろう…」


大家さんは俺の話を聞き、大きく深いため息を吐いて額に手を当て、そう言った。


「やっぱり…」


「ややもすれば、お前さんたちは少しの間離した方がいいくらいだが、それではおかねさんが心配だ」


ちゃぶ台の上のお茶を啜り、大家さんは俺にもそれを身振りで勧めた。


「ええ。ですから、どうすればいいかと思いまして…」


俺はそう返事をしてから、お茶を飲む。そして、はっと思い出したように顔を上げた。



そうだ。俺はこんな最中に、おかねさんを一人にしてきてしまった!



「おかねさんのとこに今は戻ろう。あたしもついていって、話をするから」


もう立ち上がりかけていた俺に、大家さんは慌ててそう言って、奥に居るおかみさんにも、「ちょっとまた出かけるよ!」と声を掛けた。そして、素早く土間へと降りた大家さんに、俺も急いでついていく。


俺は、迷わず進む大家さんの背中を見ながら、どこか温い風が吹く江戸の町を、つっころびそうに歩いた。







俺は、おかねさんが目を覚まして家を飛び出してしまったんじゃないかと思って、不安だった。でも、大家さんが黙って戸を開けた時、おかねさんはまだ眠っていた。


「…いたか。よかった」


「ええ…」


「しばらく待って起きないようならあたしは帰るが、今はお前さんは外に出ない方がいい」




それから大家さんも家に上がって、おかねさんの起きるのを待ってくれていたけど、不意におかねさんはごろりと寝返りを打つと、苦しそうにうめき始めた。


「う…うう…」


それを見てすかさず大家さんは「起こしてやりなさい」と言ったので、俺は慌てて布団の上にかがみ込んで、おかねさんの肩をつかむ。


その時、おかねさんの唇が開き、閉じた瞼の隙間から涙がこぼれた。


「善さん…許し…」


はっとして、俺は動けずにいた。でも、彼女があんまり苦しそうに「善さん」に許しを乞うのを見て、辛くてたまらなくなり、思わず思い切り揺さぶってしまった。


「おかねさん!私です!起きてください!」


「きゃあっ!」


いきなり強く揺らしてしまったので、おかねさんはびっくりして起き上がる。


「ごめんなさい…あまり苦しそうに、うなされていて…」


俺はそう言った切り、顔を上げられなかった。おかねさんはまだ苦しそうな息が治まらず、部屋の中を見渡しているようだった。そして、俺の後ろから大家さんが現れる。


「横になったままでいい。お前さんは弱ってしまっているみたいだから。でも、秋兵衛さんはそれがとても心配なようだ。だから、あたしにできることがあれば、話をしておくれ」


見ると大家さんは、呆然と悲しそうな顔をしているおかねさんの肩をさすっていた。おかねさんは、黙って横になってまた泣き出す。


「これこれ、そんなに泣くんじゃない。体に毒だよ」


「いいえ、いいえ…いいんです、もう…」


両腕を目に押し付け、おかねさんは泣き続けている。俺は、大家さんがおかねさんと無理に話をしたがるんじゃないかと思って、心配でちょっと大家さんの横顔を見た。でも、大家さんはちょっとため息を吐いて、ちゃぶ台の方へ戻っていく。


ほっとしたけど、俺は布団のそばを離れていいものかどうか迷っていた。すると、おかねさんががばと腕を下げて、俺を睨む。


「お前さん…しゃべったんだね、大家さんに」


ずきんと胸が痛くなり、彼女が深く傷ついて俺を恨んでいると思って、“もうダメだ”と思いかけた。


“でも…でも、誰かが取り去らなかったら、彼女の傷は消えることはないんだもの…!”


「すみません…でも…」


「いいよ」


俺が涙をこらえて必死の声を出すと、おかねさんはすぐに許してくれた。でも、それはなんだか疲れ切った声のような気がして、俺は怖くなった。


「それで、大家さん」


「なんだい」


「あたしは、どうしたらいいんです」


おかねさんはその時、天井を見ているようなふうだったけど、その目は焦点が合わないように虚ろだった。俺は怖くて、不安で、大家さんを見つめる。


大家さんは俺が出したお茶を飲み干すと、おかねさんににっこり微笑み、こう言った。


「好きなようにしたらいいんだ。お前さんの人生じゃないか。そうしないと、善さんだって安心して成仏もできないだろう」


「そうですか…」


そう返事をしたあとで、おかねさんはすぐに目を閉じ、すうっとまた眠ってしまった。俺はあっけにとられていて、大家さんの言った言葉はまるで魔法か何かのように感じられた。


「お茶をありがとう。それじゃ、あたしは失礼するがね、お前さん、よく気を付けておくんだよ」


「は、はい、ありがとうございました…」


俺は戸口まで大家さんを送り、静かに静かに、それでもガタピシいう扉を閉めた。









つづく

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