I'm Here To Protect Someone

 電話口の詩音の声は震えていた。すぐに警察に連絡するように言ったが、何か事情があるらしく、詩音はそれを拒んだ。今すぐ、俺が行くしかないと思った。

 会社から帰宅し、晩御飯の準備をしていた最中だったが、放り出してそのまま詩音の家まで向かった。

 詩音のマンションはセキュリティがしっかりとしており、オートロックがかかっている。しかし、何らかの手段でストーカーはすでに詩音の階のドアの前まで侵入していたとのこと。着いてオートロックを開錠してもらい、エントランスのエレベーター前まで来たが、エレベーターの扉の閉開音で犯人に気がつかれて警戒されてしまうことを恐れた俺は詩音の2階下の階までエレベーターで行き、その後は階段を使って足音を立てないようにして上がって行った。

 すると、ポケットに両手を突っ込み階段の手すりにもたれかかる1人の人影が見えた。そいつはフードを被っていてマスクをしていたが、一目見て誰なのかが分かった。予想はしていたことだった。



「何やってんの」



 男は俺のことを見ると驚いたように声を上げた。



「え、ぅあ、嘉一………?」



 その男は、西村だった。

 詩音と電話でやり取りをしていた時からストーカーしていたのは西村であることにある程度確信に近いものがあったが、何かの間違いであって欲しいとまだ俺はどこかで信じていた。しかし、願いは虚しく、西村の姿が目の前に現れてしまった。過去に共に過ごした時間、信じていたもの、すべてが一瞬で風前の灯火となった。残念でならない。



「何やってんのか聞いてんだよ」


「……散歩だよ」



 西村の言葉は明らかにでたらめだった。あぁ、やっぱり西村は黒だったんだ。怒りや絶望感、悲しみなどネガティブな感情が喉元までせり上がってきた。それを顔や態度に出さぬようなんとか制して冷静に言葉を返した。



「こんな夜に? ……ここ、歩いて来られる距離じゃないと思うけど」


「あぁ、あはは、まぁな……嘉一こそ何してんの、こんなところで」


「悪い奴を懲らしめに来た」


「悪い奴……?」



 西村は眉間に皺を寄せて首を傾げた。演技にしては自然な表情だった。まさか、本当に、分からないのか……?



「お前のことだよ、西村」


「はぁ? なんでだよ」



 いつもの感じで言われると調子が狂う。



「手に何持ってるか言え」


「はぁ、別になにも」



 その瞬間、俺は近づいて不自然にしまいこまれた西村の右腕を猛烈な力を込めて引っ張り出した。西村は体勢を崩して、その場でよろけた。

 手が入っていたポケットから、何かが落ちたのが分かった。それは、折りたたみ式のナイフで、落ちた衝撃で刃が露わになっていた。俺の胸は失望で沈んだ。



「……はぁ、ったく。こういうの見ちまうとショックだよな」



 本音が漏れる。

 西村は、気まずそうに目を伏せてその場で唇を噛んでいた。



「どういうつもりか言え」


「お前こそなんなんだよ、嘉一。ここにいきなり現れて、正義のヒーロー気取りか?」



 西村はこちらを睨んだ。ガラスが突き刺さったようなチクチクとした痛みが心に響いてきたのが分かった。

 俺は、西村と戦わなければならない。



「これでどうするつもりだったのか言えって言ってんだ!」


「邪魔すんなよ! こうした方が良いに……決まってるからやってんだ。その方が詩音のためになるからやってんだよ!」



 西村が落ちたナイフに手を伸ばそうとしたので、ナイフを蹴り上げて階段の下まで飛ばすと、しばらく階段の下の方を荒い呼吸で見ていた西村は、じきにこちらを見て言った。



「嘉一も詩音のこと、好きなんだろ。よく見てたもんな? 分かるだろ、詩音は俐一じゃだめだってことくらい。でも嘉一でもだめだ! 詩音に相応しいのは俺だ。それを教えてあげないと……だめなんだよ」


「その刃物でか?」


「そうだよ!」



 西村は刃物の方に一直線に階段を下りようとしたので足払いをかけて転ばせると、前方に倒れ、「ぐあっ!!!」と派手な声をあげた。痛がっている西村を仰向けにして、馬乗りになって動きを封じるとドアが開く音がした。



「嘉一君!」


「来るな! さがってろ」



 詩音がこちらに駆け寄ってきたのでそれを制す。詩音は口元を手で覆い、青ざめた表情をして俺と西村を交互に見た。



「そういうことだ。こいつが犯人だ」


「そう……だったんだね」



 詩音は今にも泣きそうな声で言った。



「うぅ……はぁはぁ……、なぁ詩音……なんでそんな目で俺を見るの……? 俺はずっと詩音のことを想ってた。ずっと、ずっと!! なんで断ったんだよ、告白!」



 あぁ、やっぱり……。でも、ここまで、とは。

 身動きが取れない中、喉から声を振り絞ったような声で西村は続けた。



「俐一は、詩音のこと、……彼女って言ったんだぞ。……ファミレスで集まった時も、他の男にナンパまがいに話しかけられてるのに……俐一はどうでも良いって感じだったろ!」


「おい」



 西村が暴れるので更に力を強めて抑えつけた。



「西村君……ごめんなさい。謝るから、もうやめて、お願い」


「何を謝るの? じゃあ俺と付き合うの?」


「……」


「俐一が詩音を守ってくれたの?」


「……」



 西村の問いかけに詩音は黙りこくった。詩音の目の表面は涙で揺れていた。



「ここんところ、特に怖い思いをしたよな? ごめんな、詩音。でもこれは必要なことだったんだよ」


「必要なこと?」



 思わず睨みつける。



「あぁ。だって愛する彼女が怖がってたら、普通助けるよな恋人なら……。でもなんだよ、俐一は詩音のこと守ってくれたか? ここ数日、詩音はずっと怯えた表情をしてた。そんな顔をさせる奴は詩音の彼氏にふさわしくなんかない。かわいそうに……、思ったよ、詩音は俺が守らなきゃって」



 西村の表情は真剣そのものだ。思わず絶句する。



「お前、自分で怖がらせておいて……頭大丈夫か?」


「詩音……! 分かってくれた? 俺なら一生、永遠に愛せるよ……。俺と一緒にいれば幸せになれる……!! 俺なら!!」


「人を恐怖に陥れる奴が幸せを語んじゃねぇ」



 胸ぐらを掴んで引っ張り上げる。



「うるせぇよ嘉一! どけよ、邪魔なんだよ……。こんなんなら俐一じゃなくて……嘉一の方が良かったかもな」



 西村は恨み顔でこちらを見た。



「は? 何の話だ」


「……」



 こいつ、俐一に何かしたのか……?

 まさか……



「リーを階段から突き落としたの……お前か……?」


「だったらなんだよ?」


「え、俐一君が……!」


「くっ……」



 奥歯を噛んだ。

 あぁ、どこかで西村にまだ更生の余地があるんじゃないかって信じてた自分がいた。でももう、これを聞いたからには、無理だ。



 戻ることは、もうできないんだ。



 拳を固く握りしめた。



「俺は何と……戦ってんだろうなぁ。はぁ……。西村!! なんでリーを突き落とした……! 言え!!」


「別に俐一個人に恨みがあったわけじゃ……ない。俐一が……怪我をして……入院すれば、詩音がうちのっ……病院に来てくれるだろ。そしたら……会えるっ」


「てめぇ、ふざけるな! そんなくだらない理由で!!」



 もう我慢できなかった。右の拳で顔を殴りつけると、西村は「グッ」と声をあげた。右手はまだ骨折から完治していない。反動の痛みに奥歯を噛んだ。



「嘉一君やめてっ!」


「詩音。警察を呼んでくれ。今すぐ」



 もう俺じゃ手に負えない。こういう頭のおかしい奴は然るべきところに届かなければならない。



「……」



 詩音は目を伏せて動こうとしなかった。



「おい、詩音」


「ごめん……家族に、迷惑かけたくない。だから警察は……」


「そういうことかよ……」



 詩音の実家は財閥。

 もし西村が警察に捕まって、それが新聞やテレビで報道されるようなことになれば、詩音の名前が広く知れ渡り、その結果、家族や財閥企業にまで悪影響を及ぼす可能性がある。そういった懸念から、詩音は警察の介入を避けようとしているのだろう。その思慮深さは、詩音らしい。

 だが、警察に頼らないとなるとどうすれば良いんだ。このまま西村を肉体的に痛めつけたところでこいつは反省をする確証がないし、社会に野放しにしておきたくはない。



「西村くん、お願い。もうこんなことはしないで。お願いします」



 詩音はこちらまで駆け寄ると、西村に頭を下げた。



「ちくしょう……なんなんだよ、なんなんだよ」



 西村は痛みなのか、無念の気持ちなのか分からないが、泣いていた。



「痛てぇよ……」



 口の中が出血したのか、西村の歯は一部血で染まっていた。



「因果応報だ。俐一が受けた痛みの分を物理的に返してやっただけだから」


「くっ、いっ痛てぇよ……」



 俺だって痛てぇよ。



「自分の看護は苦手なようだな」


「……」



 その場で、ひぃひぃとただ痛みに耐えている西村と、その隣で泣きながら座り込む詩音。

 警察を呼ぶことができない今、どうして良いのか考える。何もしなければ、ただ時間が過ぎていくだけだ。思考を巡らせる中で、何故か自然と口から出てきたのは昔話だった。



「……これを人に言うのは初めてなんだがな、俺も西村と同じで好きになった人には好きな人がいたってやつを経験したことがある。勝算はほぼゼロ。いきなり授業中に悪者がやってきて、クラスの何人かが怪我をして……それで俺がそいつぶっ飛ばしてみんなを助けたりしたら気持ちがこっちに向くかも、とか妄想したりしてた。でも、それはあくまで妄想の話だ。この現実世界で、誰かの好意を得るための犠牲なんざ俺は作りたくない。なぁ、西村。俺の気持ち分かるか? ……人を傷つけるやり方だけはだめだ」


「……偉そうに、説教かよ。別に……嘉一のことは傷つけてないだろ…………関係のない奴が、しゃしゃり出てくんなよ」


「俺も傷ついたよ。お前への親愛や信用が奪われていくこの感覚に」


「俺ははただ、詩音のために……」


「詩音のため……? 詩音の顔を見てみろ。これがお前のしたことの結果だ」



 西村は涙で濡れている詩音の顔を見て固まった。



「……」


「俐一を階段から突き落として怪我させて、詩音につきまとって脅して、挙げ句の果てには刃物を持って家の前で待ち構える始末だ。西村。この事実を紗枝はどう受け止めると思う?」


「紗枝……」



 ふと出してみた妹の名前に西村ははっとした顔になった。

 


「お前がしたことと同じことを紗枝がされた時のことを考えたことはあるか?」


「うぅっ」



 ようやく自分のしたことの愚かさが理解できたのか、西村は顔をしかめた。



「兄貴がこんなことをしたって知ったら紗枝は間違いなく傷つく。……俺は、ただのしがない会社員なんだがな、大事な存在が困ってたから助けに来た。お前は人を助ける看護師だろ。そんなお前が、一番大事な存在を傷つけることをしちゃだめだ」


「……嘉一、頼む。紗枝には言わないでくれ、頼む……」



 それは、これまでの言動では想像のできない必死の懇願だった。妹の名前を出した瞬間これだ、相当思い入れがある妹だからこそ、この男を我に返らせた。俺は良い切り札を引いたのだと思う。



「なら、条件がある」


「なに……」


「まずは謝罪しろ、詩音に」


「……」



 西村は呼吸を2、3回繰り返した後に声を発した。



「ごめん」



 もちろん、ただ口に出して言ってるだけかもしれない。



「条件の二つ目は精神科に行くことだ。今のお前は異常だ。自覚がないなら尚更やばいからな。心の状況を説明して、ちゃんとした人に見てもらえ」


「あ、あぁ……」


「三つ目。……もう俺たちとは関わるな」


「……縁を切るってことか?」


「そうだ。それができないなら、紗枝はお前の悪事を知ることになる。紗枝だけじゃない、お前の両親にも俺はコンタクトを取るつもりだ」


「……分かった、分かったよ」


「携帯貸せ」



 西村から携帯を取り上げて、アプリをインストールした。



「GPSを入れた。次、同じようなことがもし起こったら……分かってるな?」


「はい……」


「1週間以内に精神科を受診した証拠の領収書を写真付きで送れ」


「はい……」



 携帯にGPSを入れたところで突破口なんていくらでもあるだろうが、今はこれくらいのことしかできない。刃物を回収し、沈んだ顔の西村にはそのまま帰ってもらった。



「嘉一君、本当にありがとう……」


「無事で良かったよ」


「うち、上がる? あんまり片付いてないんだけど」



 詩音は家のドアに手をかけて、控えめな声で言った。



「あ、あぁ……」



 玄関にはモノクロトーンの暗い風景画が飾られていた。独特の雰囲気が漂っている。詩音の家に来るのは、これが初めてだ。



「俐一君、怪我大丈夫なの? 階段から突き落とされたって……」


「痛そうにしてたけど、見た感じ軽傷だった。数日後にはバイト行けてるくらいだったし」


「そっか、大事にならなくて良かった……私のせいで俐一君が……」


「詩音のせいじゃないだろ」


「それは……」



 詩音はしゅんとその場で小さくなった。なんとも言えない重たい空気が部屋に充満する。



「腹減ったから何か買ってくる」


「あ、いや、何か作るよ!」



 詩音は慌てたように立ちあがった。



「あ、作り置きのカレーあるけど……食べる?」


「あ、うん、ありがとう……」



 なんとなくだけど、詩音は家に1人でいるのが心細いんだろうと思う。あんなことがあったんだ、それはそう、か。



「あいつ、オートロックどうやって突破したんだろうな」


「多分前の人にべったり着いて行ったんだと思う」


「エントランスで待ち伏せして? そこまでするのかよ……」



 2人きりの空間。それとなしの会話を続けながらカレーをスプーンで運ぶが、詩音の食卓には水が置かれているだけだ。



「詩音は食べないの?」


「うん……食欲なくて……」



 その気持ちは分かる。

 俺も、実際カレーの味なんて分からないほどにダメージを受けている。



「ショックだよな」


「うん」


「俺もショックだよ」



 右の拳――西村を殴った手、そして鎖骨がまだジンジンと痛んでいる。初めて人を「素手」で殴った。一見無傷に見えても、痛みは静かに奥底で炎を燃やしているようだ。拳の痛みと、心の痛みが疼いている。



「ごちそうさま、うまかった」


「うん……」


「そろそろ帰るかな、いい時間だし」


「嘉一君、あの……本当にありがとう」


「おう」


「……」



 詩音は表情は暗い。やはりきっと家にいて欲しいんだ。俺は少し考えた後で言った。



「なぁ、今日ここ泊まって良い?」

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