縋想

 冬は嫌いじゃない。白い雪は、見たいものも、見たくないものも平等に覆い隠してくれる。

 春は嫌いだ。雪が溶ければ、僕はまた思い出さなければならない。

 けれど、だからこそ、僕は春を嫌いになれない。


 突然の降雪により電車が遅延したと聞いて、僕は諦めて改札を出た。どうせ、ここから家までは歩いても30分だ。それに、今はなんだか歩きたい気分だった。


 1月も終わりに差し掛かっていた。初めて七海以外の女性の部屋に泊まった日から、1ヶ月が経とうとしていた。


「ようやく、終わったんだね。終わっちゃったんだね」


 床で寝そべっていた僕を見下ろすように、美大生さんはベッドに腰掛けながらチューハイを飲んでいた。


「反応に困るコメントはやめてください。別に初めてってわけでもないのに」


「違うよ。終わったのは、私たちの関係」


「終わったって、そんな……」


 言いかけてやめた。今の僕は、何も言える立場にいない。自分を愛してくれている恋人を裏切って、しかも慰めに美大生さんを利用してしまった。どう考えても最低だ。


「もともと決めてたことだしね。キミを誘って、部屋に入ってきたら、そこでキミとは関係を絶とうって」


 そんな。じゃあ、これも僕のせいじゃないか。


「私は、ベランダ越しに会うキミを気に入ってたんだよ。そもそも、ベランダに出て煙草を吸ったりもの憂げに街を見下ろす人間にまともなやつなんていないからさ。そんなキミが、好きだったんだけどな。今のキミは……ううん、緊張した面持ちで部屋に入ってきたキミや、ベッドの上で泣きそうな顔をする可愛いキミは、どこにでもいるつまらない男だよ」


 蔑みにも近い眼差しが向けられ、心臓が跳ねる。誰より魅力を感じて心の拠り所としていた人に言われた「つまらない」は何より堪えた。


「僕は、捨てられるってことですか……?」


 自分でも馬鹿なことを言っていると分かっている。肩を震わせて、涙を必死に溜め込みながら怯える僕は、これまでの人生で最も惨めな表情をしているだろう。

 そんな僕を嘲笑ったのか、それとも自虐だったのか。美大生さんは悲しそうに口角を吊り上げてから呟いた。


「まさか。むしろ、捨てられるのは私さ……」


 もはや何も気にしないといった風に、ベッドで煙草を吸っていた。


「ウェルテルって知ってるだろう? 恋に破れて自殺してしまう男の話さ。でもね、私はウェルテルが可哀想だなんて思わない。むしろ、彼は死ぬことで幸せを永遠のものにしようとしたんだ。たとえまぼろしだとしても、美しい影絵にうっとりとしていれば、それはたしかに幸福と言えるんだよ」


 それが、美大生さんの最後の言葉だった。それ以降の記憶はない。だんだんとおぼろげになる視界の中、ウェルテルの話がいつまでも耳に残っていた。朝起きると、僕はいつものベッドにいた。




 あれ以来、美大生さんには会っていない。一縷の望みをかけてベランダに出てみても、いつも外出する時間に扉の前で待ってみても、彼女は音も立てなかった。インターホンを押そうとも考えたが、ポストにはチラシと地域誌が溜まっており、出迎えられないのは分かりきっていた。

 それどころか、最近はあんなに聞こえていた音楽ですらさっぱりだった。部屋に入ったときに見かけた四畳半には不釣り合いなコンポだって、最近はほこりを被っているのだろう。


 いや、本当は分かりきっている。

 この展開を作り出したのはすべて自分で、自己憐憫に浸る資格も、美大生さんを心配する資格も本当はないんだ。

 太陽に近づきすぎて翼を焼かれたイカロスみたいに、最後に残っていた拠り所は近づきすぎた僕が壊してしまった。すべて僕のせいだ。


 あまりの寒さに指がかじかみながら線路沿いを歩いていると、ポケットに入っていたスマートフォンが震えた。


『そろそろ期末試験ですね。先輩は進級できそうですか? 私はフランス語がちょっとヤバいかも。試験、頑張りましょうね』


 七海からのメッセージだった。最悪な別れ方をしたクリスマス以来、顔を合わせてはいない。けれど、彼女はこうして時折連絡を寄越す。それがなにより、辛かった。

 七海なら、最低な僕がクリスマスの日になにをしたか、弱った心に言い訳して隣人にどれほど最悪な行為をしたか、説明してもきっと許してくれるだろう。でも、そうじゃないんだ。僕は許してもらいたいんじゃない。許してもらいたくないんだ。

 人を許し続けるということは、一生許さないことと同義だから。



 ****************



 先週までは天気予報の欄になかった「花粉量」という情報を目にして、僕は改めて春の訪れを知った。

 寝るときの掛け布団を使わなくなって夏を知り、半袖が長袖になって秋を知る。毎朝コンビニで買うコーヒーがホットになるタイミングで、僕の季節は明確に冬に切り替わる。


 桜が舞う。列車が通る。僕は、少しまぶたを閉じる。

 ああ、本当にくだらない。


 数週間前に連続でかかってきた七海からの電話は、ここ数日はすっかりと鳴りを潜めていた。文字通り力尽きてしまったように眠る携帯電話はもはや持ち運ぶ意味も無く、少なくとも身体的にはずいぶんと身軽になっていた。

 きっと、七海は僕を心配しているだろう。恨んでいるだろう。

 いや、そんな傲慢なことを考える資格すらないのかもしれない。僕は彼女を裏切ってしまったのだから。

 タバコ煙るあの暗い部屋で、美大生さんは言っていた。


「恋愛の先にあるのはね、破滅か自己犠牲だけだよ」


 2歳しか違わないのに、よくもまあそんな説教じみた言葉を吐けるものだと思っていたが、どうやらその言葉に間違いはないらしかった。


 ――このまま歩いていたら、偶然、ばったりと出会えたりしないだろうか。


 そこまで考えて、ふと気付く。自嘲にも似た笑みを浮かべて、俯きながら。いったい、僕は誰に会いたいと思っているのだろうか。七海? 美大生さん? それとも。その角の先に、踏切の奥に、公園のベンチに、誰がいてくれたら、すくわれるのだろうか。

 途端に懐かしい思い出が蘇った。僕の人生がすべて狂ってしまった瞬間。その後の選択肢を、その後の人生が不正解になってしまった張本人。たしか、名前は……


 そうだ、「栞」だった。


 僕の人生の1ページ目に、それは挟まっていた。

 声がかき消された海岸線。夕日の差していた音楽室。くだらないレイトショーに、煙草臭い四畳半。

 ぜんぶ、彼女のせいだった。すべて、神様のせいだった。


「どうしたんですか?」


 突然降りかかった声に、僕はピクッツと肩をふるわせた。そして数秒後、ただの音声のはずなのに、僕の体は電撃が走ったように硬直する。

 ゆっくりと、顔を上げた。風が強くなってきた。後ろでは桜がこれでもかと吹雪いている。

 目の前に居たのは、同い年くらいの、若い女性だった。目が合うと、僕の瞳からはどうしようもなく涙が溢れ始めた。


「すみません。少し、昔のことを思い出してしまって」


 道ばたで呆然と立ち尽くしているだけでなく、話しかけられた途端に泣き出す僕。明らかに異常な僕に対して、女性は屈託のない笑みを振りまいて接してくれる。


「そうだったんですか。春は別れの季節ですからね。私も、色々思い出しちゃうので、その気持ちは分かります」


 その一言一句が心に染み渡るように、空気に自然に溶け込んでいく。やがて納得したように、空を見上げて彼女は呟いた。


「昔、好きだった男の子がいたんです。今思えばダメダメで、段階も駆け引きもめちゃくちゃな恋だったけれど、だからこそ本当に心の底から私はその子が好きだったんだと思います。もうずっと連絡は取ってないんですけど、春になるとつい思い出しちゃうんです。私にできるのはこうして、ずっと忘れないでいることだけかなって。未来の旦那さんには、ちょっと申し訳ないですけど」


「その男の子は、今どこに?」


「さあ、それが分からないんです。あまり社交的なタイプでもなかったから、行方を知ってる友達もいなくて。こっちにも、久々に帰ってきたから」


「そうだったんですね。すみません、泣き出してしまって。旅行に来てるんです。あまりにも桜が綺麗だったから、つい」


「この辺の方じゃないんですね、ありがとうございます。こんな辺鄙なところに来てくださって。ぜひ、楽しんでいってくださいね」


 にこり、と行儀の良い笑顔で彼女は僕を見送った。足元には今し方吹いてきた桜の花びらが溜まっており、何枚かは黒い靴の上に乗ってその存在感を示していた。

 彼女があの人かどうかなんて、今はどうでもいい。

 ただ、遠くに見える彼女の背中が見えなくなったら、今度こそ振り返らないでおこう。そう決めた。

 頬に吹き付ける風が、心地よかった。また、青い春が来る。

 そう思った瞬間、視界が歪み、春の輪郭がどろりと溶け出した。

 どうか、もう少しだけ。祈りをこめながら、また僕は泣き出す。





 異常な寒さで目を覚ました。

 エアコンのタイマーはとうに切れていて、布団から少しでもはみ出せば刺すような寒気が襲ってくる。いや、それどころか、布団の中でさえ僕にとっては極寒だった。


「寒い……」


 誰もいない部屋で呟いた。息が白んでいた。


 そういえば……


 昔も、こんなことがあった。あの時の僕はまだ背丈も小さくて肌の色は赤黒く、震える肩を自ら抱き寄せて静かに泣いていた。


 あの時は、どうしたんだっけ。


 なにか大切なことを忘れている気がして、そしてそれがもう明確に思い出せないことも分かってまた涙が零れた。あの頃の純粋な気持ちは欠片もなくて、ただ死んだように生きるこの世界のバグが僕だった。


「誰か……」


 誰か、助けてくれ。僕はまだ救われていない。

 喉に引っかかるように咳が出た。リモコンのスイッチを入れ、僕は涙を拭きながらもう一度横になった。窓の外にはちらちらと影が揺れている。雪が降っているのだろう。


 ああ、このまますべて雪で覆い尽くして、世界が終わってしまえばいいのに。

 体を丸めて、膝を抱えて、震えながら目を閉じた。

 その夜見た夢は、僕の現在の人生と相反するように、僕のこれまでの人生で最高の夢だった。





 ずっと夢を見ている。


 宝物のように抱き抱えながら、


 僕は今日も陳腐な歌詞を書いた。


 最低な歌を歌った。


 決して醒めなくていい。


 現実になって仕舞えば、


 神様はきっと死んでしまうだろうから。



 不幸を選んだ気になっていた。でも違った。不幸に選ばれていた。

 人の幸せは相対的なものだから、幸せなんか知らなければよかった。

 どうせ嫌われるのなら、最初から人なんか好きにならなければよかった。

 人生も、将来も、現実も、なにかも要らない。



 架空の感傷が、消えないでいる。

 偽物の記憶で、傷ついている。

 この想い出に、縋っている。



 だから、僕は、



 縋想。




(了)

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縋想 佐薙概念 @kimikoto

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