人の心

「おい。何やってんだ」

 美央の後ろから力強い声が響いた。少し離れた浜辺に夕日を背にウェットスーツ姿の男性が立っている。広いがっしりとした肩の上によく日焼けした苦み走った顔が乗っていた。手にフィンを持ち、首を横に倒してトントンと跳ねる。


「おっさんには関係ないだろ」

 3対1ということに気を強くしたのか、大学生の一人が啖呵を切る。男は声をかけた男など眼中にないようにスタスタとやって来ると階段を軽快に駆け上った。人好きのする笑顔を見せる。


「こんな素敵なお嬢さんがオス猿に取り囲まれているのを見て放っておけるわけないだろ」

「なんだと?」

「かっこつけてんじゃねえよ」


 男はのんびりと美央に話しかける。

「えーっと。自発的に彼らについて行くつもりはないよね?」

 美央は声が出せなかったが、首を横に振った。

「ということで、未成年者誘拐略取の現行犯ってわけだ。どうする? 今なら見逃してあげるけど」


 大学生たちはお互いに顔を見合わせる。ウェットスーツの男の落ち着きと自信に圧倒されていた。

「くそっ」

 足音高くキャンプ場に向かって3人組は去って行く。


「もう大丈夫だからね」

 男は笑って髪の毛をかきあげた。自分の魅力を十分に分かっている大人の仕草だ。

「ちょっと待ってて」

 男は10メートルほど離れた場所にある駐車場内の自販機に行き、飲料を手にして戻って来る。


「はい」

 男は美央にフレーバー付きのミネラルウォーターのペットボトルを手渡し、自分は無糖の缶コーヒーの栓を開けた。岸壁に腰を下ろすと横に座るように美央を誘う。

「あ。俺ね。元木っていうの。お嬢さんは……あれ? 島崎漁協長んとこのお孫さん?」


 美央は祖父の名前を聞いて目を見開く。

「ああ。やっぱりそうだ。ちぇ」

 元木は一瞬落胆したような顔をするが、すぐに笑みを見せた。

「立ってるのもアレだし、ちょっとだけ話をしようよ。大丈夫。話をするだけ」


 美央は一難去ってまた一難だと身を固くする。実のところ膝が震えて歩くことができなかった。元木は屈託のない笑顔をする。

「本当に何もしないって。ほら。俺、この島に住んでっから、漁協長の怖さよく知ってるし。孫に粉かけたなんて思われたら……」


 わざとらしくブルブルと元木は震えて見せる。

「ね?」

 上目遣いに見る元木の態度に美央は腹を決めた。自分も岸壁に腰を下ろすと頂きますと言ってペットボトルに口を付ける。


「運よく俺が通りかかったからいいけど、嫌なら嫌とはっきり言った方がいいぜ。他所もんは漁協長のこと知らねえからさ。あいつらも命知らずだよな」

「祖父はそんなに……」

「ああ。おっかないねえ。あの年なのに拳固も硬くてよ。そっか。漁協長も孫娘には甘いのか。ははは」


「えーと、元木さんも漁をされるんですか?」

「うんにゃ。俺は本職はダイビングのインストラクター。まあ、他にも臨時雇いで色々やってるけど」

「そうですか」


 元木は美央の横顔にチラっと視線を走らせる。

「で、漁協長のお孫さんはこんなところで何を?」

「美央です。名前は美央」

「ああ。美央さんね。それで、その様子だと何か悩みごとかな?」


 ずばりと言い当てられて美央は息を飲む。

「顔に書いてある」

「そう……ですか?」

「うん。まあ、若いって悩みが多いよね。青春だね、青春」


 背中から照らしている夕日の色がどんどん赤みを増していた。

「おじさんに話してみない?」

「え?」

「ほら。美央さんは島には短期滞在でしょ。島離れたら俺と接点ないも同然だし、赤の他人じゃん。話せば気が楽になるかもよ」


 美央は逡巡する。自分の悩みを一人で抱えるのを持て余していた。ただ、身近な家族や友人には却って話しづらい。気づけば少し抽象化して話をしていた。元木は空を見上げる。星が瞬きはじめていた。

「そうねえ。他人と心が通じあえるかねえ……」


 元木の白い歯がキラリと輝いた。

「鯨ってさ超音波でコミュニケーションする種がいるんだよね。超音波で全身を走査すれば体の中まで分かる。物凄く深いところまで理解してそうだよな。それでも相手の気持ちとか感情までは読み取れないと思うんだよね」


 元木はよっと言って身を起こす。

「ヒトは超音波なんで便利なもん持ってないけど、ある程度は他者を理解できるようになれるよ。まあ、俺がそう思ってるだけかもしれないけど」

「どうしたら、そうなれるんでしょうか?」


「まあ経験じゃないかね。声をかけてもダメな相手もいるし、いい雰囲気になっても何もない時もある。意外と簡単に口説ける……」

「何の話をしてるんですか?」

 きっと美央が睨む。


「人生の話さ。鯨は視覚も嗅覚もあまり発達してないそうだ。水中だからね。ヒトは視覚に頼りすぎるけど、嗅覚も結構凄いんだぜ」

 元木は美央に近づくと鼻から息を吸う。

「ちょっと緊張してるだろ? そういう汗の匂いがする」


「変態っぽいですね」

「でも自分の持つ感覚を研ぎ澄まして相手に向け、少しでも読み取ろうとする。その方が嘆くだけよりは建設的だと思うよ。まあ、魅力的な子に変態って言われて傷つくこともあるけどね」


 元木が片目をつぶった瞬間にクラクションの音がする。そして、塩辛声が響いた。

「美央。こんな時間に何やってんだ? あ、良介じゃねえか。ウチの孫と何してる?」

 美央の祖父が軽トラの運転席から顔を出している。

「おやっさん。ちょっとおしゃべりしてただけっすよ。やだなあ」


 先ほどまでと打って変わってちょっと挙動が怪しくなる元木を見て美央はクスリと笑った。岸壁からトンと飛び降りると、ペットボトルを掲げて頭を下げた。

「ご馳走様」

 軽トラの方に進みかけて美央は振り返る。

「お話ありがとうございました」


 タッタと祖父のもとに駆け寄る。

「お爺ちゃん。付きまとってた男の人を元木さんに追い払ってもらったの」

「おう。そうか。良介世話んなったな」

 助手席の扉を開けながら美央は心持ち声を大きくする。


「それでね。元木さん。私の匂いを嗅ぐんだよ」

 美央の祖父は運転席から顔を突き出す。元木はほうほうの体で走っていくところだった。

「今度会った時、きちんと話聞くけえの!」


 美央がシートベルトを締めると車が走り出す。

「なんじゃ。今朝ほどは浮かない顔しとったが、気が晴れたか」

 気が付けばもやもやは晴れていた。

「うん。ちょっとだけ」


 暗くなりつつある海に目を向けると、波間に浮かぶ黒いものからふわっと白い霧状のものが吐き出されるのが見える。窓ガラスに頭をもたせかけながら美央は前に向いていけそうな気がしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鯨よりも深く 新巻へもん @shakesama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説