狐が抱くは素直な気持ち

「だ、大丈夫です……」


 しばしトレイに注目していた源吾郎だったが、蚊の鳴くような声で彼女の問いに応じた。仕事面でも手を抜かず他の同僚たちの動きにも目を光らせている彼女が接近した事で、源吾郎は緊張していたし警戒もしていた。

 恐らくは陰険な性格の妖狐ではないだろう。しかし言動や他のスタッフたちの彼女への態度を見るに、実力も発言権も大きそうな感じだ。

 そんな彼女が自分に対して何故近づいているのか? の疑問はそこにあった。本来の姿である島崎源吾郎であればいざ知らず、宮坂京子に接近する意図やメリットは特に無いのだ。宮坂京子という妖狐の娘は、兵庫県某所からスタッフとして応募してきた一般妖というバックボーンがあった。玉藻御前とは無関係であるし、玉藻御前の末裔を騙っている訳でもない。

 まさか、昼食の肴代わりに宮坂京子をからかい、小言でも言いに来たのではなかろうか。あまり考えたくないが、その可能性もあり得ると源吾郎は思い始めていた。その事を考えている間、源吾郎の心中は暗いものだった。

 源吾郎は自分で思っている以上に相手の悪意や敵意に弱いのだ。情けない話であるが。


「ねぇ宮坂さん」


 バイトリーダーはそんな源吾郎の心境などお構いなしに口を開いた。源吾郎は驚きを押し隠しつつ様子を窺った。ショボいものしか選べなかったとかそういう厭味でも言うつもりなのだろうか。しかし、源吾郎に向ける彼女の眼差しには剣呑な気配は何故か無い。


「それだけじゃあ足りないでしょ? 私、多めに取り分けてるから気に入った料理があれば分けてあげる」

「…………!」


 彼女の口から放たれたのは厭味でも小言でも無かった。源吾郎の瞳はまず驚きの色が浮かび、少し遅れて喜色に染まった。

 とはいえ、あからさまに喜びをあらわにするほど源吾郎も浅はかではない。素直だけど控えめな娘に見えるように返答するにはどうすれば良いか。彼女を見つめつつ考えを練っていたのだ。源吾郎はとっさの受け答えは苦手であるが、少しでも考えるタイミングがあれば、事は出来た。


「ここで働くのは初めてでしょ? そりゃあ、誰だって最初はバイキングで好みのおかずを取り分けるのに失敗するけれど、宮坂さんはその度合いが極端すぎたから……」


 そういって微笑むバイトリーダーの笑みは慈愛に満ち満ちて優しげだったが、その目の奥にはひんやりとした憐憫の気配も漂っていた。気の毒な妖怪娘だと彼女なりに思っているのだろう。源吾郎は特に気にはしなかった。相手の向ける感情よりも、あきらめかけた美味しい料理にありつけるという事の方が源吾郎には重要だったのだ。


「ありがとうございます。それではお言葉に甘えまして……」


 気付けば彼女のプレートは源吾郎の側にわずかに寄せられていた。相手の表情をうかがったのも一瞬だけ、後は失礼にならないよう、おかずを貰う事に専念したのだった。



 バイトリーダーの女狐は米田と名乗った。米田さんは源吾郎がおかずを取り分けるのをしばし見届け、源吾郎が一連の動きを終えるまでは何も言わなかった。


「本当にありがとうございます……」


 別に良いのよ。源吾郎の心からの礼に対して、彼女は落ち着き払った様子で応じるのみだった。


「ああ見えてスタッフの仕事も重労働だからね。食事が少なかったら途中でバテて倒れられても困るし……本当にそれだけの事に過ぎないわ」


――うーむ。米田さんはちょっと怖そうだとか怖そうに見えて優しそうだと思ったけれど、これは所謂ツンデレという奴なのかな?

 源吾郎は分けて貰ったパイやミニハンバーグと米田さんを交互に見やりながらぼんやりと思った。どうでも良い話だが源吾郎はツンデレ女子はあまり好みではない。どちらかと言えばいつでも自分に好意を向けてデレてくれる娘の方が好きである。むしろ意中の相手にデレるのは源吾郎の方だが。

 それにね。ツンデレや好みの女子についてあれこれ考えていた源吾郎の耳に、米田さんの声が鋭く入り込む。先程よりも真剣味のある声音だった。


「私の方から言っておいてなんだけど、ひとから料理を貰う時は少しは警戒しないといけないわよ? もちろんその料理は安全だけど、もし私が悪心を抱いていたとなれば大変な目に遭ったかもしれないんだから」


 源吾郎は一瞬豆鉄砲を喰らった鳩のような様子で目を丸くしたが、素直に彼女の言葉を受け入れる素振りを見せておいた。

 米田さんから料理を分けてもらう時に無警戒だったのは事実だ。しかし、警戒せずとも安全であるという論拠があるとも思っていた。まずここはぱらいそとかいういかがわしい場所ではなく雉鶏精一派公認のイベント・生誕祭の会場である。そこで供される料理に混ぜ物がされているなどという事はまずないだろう。

 それに源吾郎は、薬物毒物を無効化する護符を身に着けているのだ。仮に何かが混入していたとしても、護符が源吾郎の身体を護ってくれる。

 もっとも、それらの事をクドクドと説明すると色々とややこしいので、米田さんの忠告を受け入れた素振りを見せておいたのだ。彼女の言っている事も筋が通り理にかなった話なのだから。



「配膳とか色々やってるのを見ながら思ったけれど……」


 食事も終えて一息ついていると、思い出したように米田さんが口を開いた。彼女の暗い黄金色の瞳は、今や好奇の色でもって源吾郎を見据えている。


「あなたって実はお嬢様とかなのかしら?」

「えっ、私がお嬢様に見えるんですか! そんな、私はお嬢様なんかじゃあないですよ」


 源吾郎は笑いながら何度も首を振った。仕事慣れしていない態度やバイキングでの戦況を見てお嬢様育ちだと判断したのかもしれない。

 しかし、米田さんがどう思ったとてお嬢様育ちという予測は間違っているのだ。宮坂京子は庶民狐という設定であるし、そもそも男である源吾郎はと呼ばれこそすれお嬢様と呼ばれる事はあり得ない事だ。


「多分米田さんはご存じかと思いますが、私はごく普通の野狐ですよ。親兄弟も野狐ですし、たまたま夏のバイトでここに応募しただけでして……だから、お嬢様とかでもないですし、その、ここの主催者たちとも無関係なのです」


 自分は雉鶏精一派とは無関係な野狐である。その主張を前面に押し出しすぎただろうか。源吾郎は内心過剰に演出し過ぎたかと思っていたが、幸いな事に米田さんは訝りはしなかった。


「そんなに力んで説明しなくても、雉鶏精一派とは縁もゆかりもない、外様とざまのバイト妖怪も結構いるのよ。一日だけの短期だし、その割にはお給料も良いし何よりお料理も良いからね。

 あなたは初めて働くからちょっと緊張しているみたいだけど、あなたみたいな子はそう珍しくないのよ。まぁ言ってみれば、私も同じような物だし」

「米田さんが私と同じ、それってほんとですか」


 思いがけぬところで「同じ」という言葉を耳にし、源吾郎は驚いて身を乗り出してしまった。バイトリーダーとして既に仕事に慣れ切っている彼女と自分には共通点など無いというのに。

 米田さんはしばらく視線を泳がせ、思い出したように口を開いた。


「あ、でも確かに違う所もあったわね……私なんかは玉藻御前の末裔を名乗っているけれど、どうやらあなたはそうでもないみたいだし」


 玉藻御前の末裔。この単語をどういう意図で出したのか源吾郎には解らない。ただ源吾郎に解るのは、その単語を耳にしておのれが妙に興奮しているという事だけだった。

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