「短編」空空②

私はその日の夜、日中に話した彼のことを考えていた。


「そう言えばなんて名前だったのかしら」


少し話してすぐ、彼は庭園でのその日の作業を終えすぐ出て行ってしまったから名前も聞けなかった。


交わした会話は挨拶だけだった。しかし、私の胸は高揚していた。


おかしな話だが、たった数言の会話に胸の苦しさが止められない。ドキドキするが、同時に苦しくなる。もう会えないのではないか?そんなことを考えてしまう。


そしたら、私はまた一人である。庭園を一人で自由に歩きまわることはできるが、一人でである・・・いつものことだけれど、彼の「こんにちわ」の一言から私の中に欲が出てきてしまった。また会いたい。話がしたい。私は、また、止まることのできない涙を抑えることはできなかった。床一面キラキラと輝くダイヤでいっぱいになった。


次の日、私は腫れぼったい目で庭園のベンチに座り眩しい太陽を見ていた。友達と作っているぬいぐるみは胸のボタンを二個までつけた中途半端な物になり、制作意欲も無くなっていた。少し庭園を歩いた。この季節は庭園を撫子と桔梗の秋の花が彩っている。気づいた時私は庭園の端にある高い壁の前に立ち、呆然とその壁を見上げていた。


ふと、この先って何があるのかな?っと疑問が浮かんだ。小さい時に行った街が記憶の片隅から呼び起こされる。人がいっぱいいた。沢山のお店の店員が大声を上げ客取り合戦をしたり、これが活気ってやつなんだと、幼ながらに思った記憶がある。


あー。もう遠い昔なんだなっと。あの頃は楽しかったなっと。私は記憶を懐かしんだ。もう一度行ってみたいなって聳え立つ壁にそう思っていた。


その時である。「こんにちわ」っと後ろからあの声が聞こえてきた。


「こんにちわ」私は彼に言った。彼はいつも急に私の前に現れる。


「こんなところで何をしてるの?」


「この壁の向こうってどうなってるのか気になって。」


「この壁の向こうは森だよ。底を抜けると小さな街があって、そのまた先には大きな港街があるよ。」


「そうなんだ。行ってみたいわ。」


彼は不思議そうに私に近づき「なら、行けばいいじゃないか。」っと私の事情を知らない人なら言うであろう一言を言った。


「行けないのよ。15年私はこの狭い庭園の世界しか知らない。」


私は彼に事情を話した。


「ふーん。君の両親は僕の雇い主だけれど、酷いやつだな。そうだ。」


彼はそう言って庭園の奥に消えたかと思うと重そうに大きな梯子を携えてやってきた。


「登るかい?この壁。今、周りには誰もいないし、今がチャンスだよ。」


「ダメよ。見つかったらあなたに迷惑がかかるわ。」


「僕の事なら気にしなくていいよ。それより、早く。」


彼は壁に梯子をかけひょいっと登ってみせた。


「早くおいで。」


私は恐る恐る梯子を登り高い梯子の縁に腰掛けた。


15年ぶりの外の景色は広く、緑が隅々まで広がっていた。


「凄い。こんな景色が広がっていたんだ。私知らなかった。広い。世界ってこんなに広いのね。」


「ここなんて世界のほんの一部だよ。まだまだ広いよ。世界は。」


そう言うと彼はバックの中から紙に包まれたサンドイッチを取り出し私に一つくれた。


「お姫様のお口に合うか分からないけれどどうぞ。」


私はハムの挟まった不恰好なサンドイッチを一口食べ「おいしい」っとガツガツと食べた。


「そんなに美味しいなら全部食べていいよ。」


私は彼の分も平らげた。

誰かと話しながら食べるサンドイッチは心に染みた。普通の食パンにハムとマヨネーズのサンドイッチである。でも温もりが染みた。私はサンドイッチを食べながら涙が出た。彼と初めて話した時に流した涙と同じだ。胸が暖かい。それ暖かさが胸を逆流し、喉から口そして、目が暖かくなる。


「ありがとう。こんな美味しいの食べたこと無いわ。」


「それ、親父さんに伝えておくよ。毎日朝起きて作ってくれてるから、喜ぶよ。」


「ごめんなさい。でも、貴方のが無くなったわ。」


「いいんだ。僕はお腹いっぱいさ。それより、本当にダイヤになるんだね。君の涙は。」


彼地面に落ちたダイヤを一つ掴み不思議そうに言った。


「いいわよ。サンドイッチのお礼にあげるわ。これ売ったらお金には困らないわ。貴方の親父様と幸せに暮らせるわよ」


彼はそれを聞くと、私の周りに散らばったダイヤを拾い森に捨てた。


「いらない。いらない。僕は君に不恰好なサンドイッチをあげて、それを美味しいって言って貰ったのでお腹いっぱいなんだ。だからいらないよ。それよりも、名前を教えてくれよ。僕はグーグーって言うんだ。」


私は初めてダイヤ以外の自分を見てくれた人に出会った。彼の優しさに私はまた泣いた。こんな胸が熱くなる事はなかった。


「私は、ルビーって言うの」


「ダイヤが出るのにルビーって変なの。宜しくねルビー。さっ。涙を吹いてダイヤを一緒に片付けよう」


「うん」


私はダイヤをグーグーと拾うと森にそれを捨てて、梯子を降りた。


「じゃ。仕事に戻るよ。ルビーまたね」


「うん。私も部屋に戻るわ。またね。グーグー。」

久しぶりにしっかり人と会話をした。

久しぶりに名前を呼んでくれた。

久しぶりにまたねって言ってくれた。


私はポカポカした胸を笑みに抑える事は出来ず目を腫らせながら、ニコニコと部屋に戻った。



〜つづく〜



-tano-

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「短編」空空 たのし @tanos1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ