恋する男子に水泳を教えて(8)


 その後の出来事は蛇足なので、ざっとかいつまんで話そう。


 集合時間の正午過ぎから仲間内のみでバーベキューを始めて、もう食べられないと言いつつも残り物をあらかた平らげた俺たちは、みんなで今後の方針を相談したのち、ふたつのグループに分かれて行動することにした。

 自分たちが食べ散らかしたごみを片づける班と、最寄りのコンビニへ買い出しに行く班だ。


 というのも、バーベキュー会場に設置された屋外の仮設トイレは、男女共用なうえに混雑していて使いにくい。

 立ったままおしっこができる男の子ならともかく、女の子の場合はまだ大丈夫だと思ってついつい我慢してしまいがちだ。


「すみません、僕はウォシュレット付きの洋式トイレじゃないと駄目なんです」

「越智君ってもしかして、今まで学校のトイレで一度もうんちをしたことがないの?」


「僕たち男子は、学校のトイレでうんちなんてしないよ? 個室に入ったら、おしっこじゃなくてうんちだとばれちゃうからね」

「私も野々坂に同行するわ。この問題を解決するためには、実際に現地のトイレを調べて、通学路のガイドブックに載せないと」


 こうして野々坂と香川先輩は、他のメンバーから取り急ぎ必要なものを聞き出してメモを取り、橋を渡って対岸にあるコンビニへと向かった。

 和馬はたったひとり、自転車に乗ってダッシュで帰宅した。家でうんちをしたら必ず戻ってくるから、と言い残して。


 みんなが戻ってくるまでのあいだ、貴重品以外の荷物を預かった俺と千嵐は、バーベキューのあとのくすぶる火を始末しつつ、ビニール袋を広げてごみを拾い集めた。


 使い捨ての紙コップやアルミ皿、割り箸などをかさばらないように重ねて、リサイクル可能なプラスチックを分別する。

 風が吹いてきたので日除けのパラソルを取り外し、アウトドア用のテーブルや椅子をコンパクトに折りたたむ。


 アルミよりも遥かに手ごわい、スチール製の空き缶を踏み潰すのに躍起になり、尻餅をついて転んだりもした。


「青木さんは、どうします?」

「何の話だ?」


「夏休みの自由研究ですよ」

「今日はやめておいたほうがいいかもな」


「そうですよね。残念ですけど」

「周りを見ても、誰も泳いでないもんな」


 この日は、午後から少しずつ天候が傾いていった。

 今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした不気味な雲が、山あいのはざまから覗いた太陽を隠しつつある。


 とくにこの七月ごろは、天気予報では一日じゅう晴れだったのに、突然の夕立で洗濯物がびしょ濡れになる日も少なくない。

 イベントの関係者たちはまだ中止を決めかねているものの、判断を誤って通り雨に見舞われると悲惨なことになる。


「残念だったね、陸君」


 俺たちは予定の時刻を繰り上げてこのまま解散するつもりだったが、地べたに座り込んで泣きべそをかいてしまったのは、千嵐の弟の陸君だった。

 みんなと一緒に夏休みの宿題がしたくて、この日のために水中の生き物を観察できる箱メガネを作ってきたのだ。


 彼の名前は、千嵐陸(ちがらしりく)。

 年齢は6歳。今年の春から小学生になったばかりの男の子だ。


「だったら、そのへんで虫捕りでもすればいいんじゃないか?」


 そう、俺たちは郷土研究部のメンバーだ。

 今日こうしてみんなで集まったのは、自分たちにとって身近なこの故郷をより詳しく調べるために他ならない。


 しかし、よかれと思って発した俺のこの余計な一言が、のちに戻ってきた香川先輩の不興を買うことになる。


 学校の体育館裏でセミを見つけた時もそうだったのだが、先輩の虫嫌いは筋金入りである。

 世界中の昆虫と呼ばれる生き物は、すべてゴキブリの仲間だと主張している。


 野々坂は野々坂で、今日は朝からずっと機嫌がよろしくない。

 みんなで一本ずつ分けようと約束してコンビニで買ってきた箱入りのアイスも、なかなか和馬が戻ってこないのをいいことに、自分だけ二本食べてしまう。


 なぜか一人だけ使命感に駆られた千嵐が、テントウムシを追いかけて虫捕り網を振り回している最中。

 バッタやカマキリに興味がない陸君はというと、とうとう遊ぶのにも飽きてきて石ころを投げ出す。


 ここからは、知らないうちにアイスを食べられてしまった和馬も戻ってきて、腹いせまじりに水切り競争が始まった。

 河原で拾った平べったい石を、水面で跳ねさせて遠くへ飛ばす。日本のみならず、世界各地で愛好されている昔ながらの遊びだ。


 国際的に認められた公式ルールみたいなものは存在しないが、その一般的な採点方式は、飛距離じゃなくて水面を跳ねた回数、すなわち段によって競われる。

 高さや美しさ、狙いの正確さなどの芸術性は問われない。


 もちろん、嘘の報告は駄目だ。

 審判がいない場合、それぞれの競技者が可否の判定を下すことになるので、フェアプレーの精神が求められる。


 しかし、曇り空からぽつぽつと雨が降り出すと、水面の波紋によって跳ねた回数が分かりづらくなってくる。

 こうなるともはや、町おこしのために開催されているバーベキュー大会自体、中止せざるを得ない。


「そろそろ帰らなくちゃいけない時間だから、今日のところは引き分けだね。ひとまず勝負はお預けだ」

「陸君にごめんねって謝るまで、お前とはもう二度と遊ばねえよ」


 和馬は、さんざん嘘つき呼ばわりして千嵐の弟を泣かせたあげく、倒れた自転車にまたがって家へ帰っていった。

 次は手加減なしで遊んであげるよ、という捨て台詞を残して。


 この日の夕方から降り出した雨は、たちまち落雷をともなうゲリラ豪雨へと変わった。

 千嵐とその弟の陸君は、駐車場で待っていたワンボックスカーへ乗り込んで助かった。窓越しに手を振ってそのままお別れだ。


 しかし、自宅から徒歩でやってきた野々坂と、迎えが来なくて帰りそびれた香川先輩は、イベント会場の大型テントへ避難せざるを得なくなる。

 商工組合のおじさんたちから手を貸してくれと頼まれた俺は、ずぶ濡れになりながらも河川敷を駆けずり回り、雨ざらしの備品や機材を大急ぎで回収する。


「ほらね、やっぱり雨が降ったでしょう? もしかして、服を着たまま川で泳いできたの?」


 野々坂は、脱いだTシャツを雑巾のようにしぼっている俺を見て、そんな皮肉を言った。

 さっきから何だが背中がこそばゆいと思ったら、足元に生えていた猫じゃらしでしつこく素肌をくすぐってくる野々坂。ああもう、やめろよ、と嫌がりながらも爪で引っかいてもてあそばれる俺。


「二人とも、本当に送っていかなくて大丈夫?」

「心配しないでください。こいつのおばさんが、もうすぐ着替えを持って迎えに来てくれるそうなので」


 香川先輩は、それでも帰りが遅くなると心配なので、家に着いたらすぐに電話で報告するように言った。

 それじゃあお先に、と別れを告げたあと、土手道で止まった車へ向かって駆け出す。


 こうして俺たちは、とうとう二人きりになった。

 といっても、大型テントの下に折りたたみのパイプ椅子が並べられた即席の喫煙所だ。俺たちのほかにもあと何人か、タバコを吹かして雨宿りをしている人たちがいる。


 すると、たちまち何も話すことがなくなってしまう。

 たまたま休憩所に居合わせた人たちが、直接関わり合いがなくとも同じ町に住んでいる人だけに、何だか余計に気を遣ってつまらないことしか喋れなくなる。


「今日は残念だったな」

「ううん、別に」


「ところで、お前の親父さんはどこに行ったんだ?」

「パチンコ」


「だったらお前も、先に帰ればよかったのに」

「何よ、その言い方。まるで私のことを邪魔者みたいに」


 野々坂は、相変わらず下を向いたまま、ケータイばかりいじっていた。時々うちわをあおぐ手を止めて、タオルで汗を拭く。

 俺は全身びしょ濡れだから少し震えているが、日照り続きのあとに降った雨は、じめじめとしていて蒸し暑い。


「もしかして、不安なのか?」

「えっ?」


「ほら、後ろを向けよ。肩を揉んでやるから」


 俺は、パイプ椅子に座っている野々坂の背後に回り込み、指でツボを押してマッサージをした。

 前かがみに背中を丸めて振り向いた野々坂が、くすぐったそうに身をよじり、ずれた下着の肩ひもを直そうとする。


 さらに言うと俺は、彼女のタンクトップから時折ちらちらと覗くその肩ひもが、おそらく水着ではないことを知っていた。

 これまで、本人が恥ずかしがっているのにわざわざ指摘するのもどうかと思いつつ、あえて気づかぬふりで見ないようにしてきたのだ。


「ねえ、なんでいきなりそんなことを言い出すの? これってもう、私が怒ったらセクハラじゃん」

「小さいころ、よくこうやって母さんの肩を叩いてたんだ。今はもうやらなくなったけど」


「ひょっとして、なんか悪いことでもしたの? 今なら許してあげるから、ちゃんと理由を説明してよ」

「とくにこれといって理由なんかないけど、大人になるっていうのは、たぶんそういうことなんじゃないか? もちろん、変な意味じゃなくて」


 野々坂は、俺の下心を勘ぐって胸を隠しながら、まるで子供のように無邪気にはしゃぐ。

 そのうち、自分ばっかり一方的に攻撃されるのはずるいと言い出し、勝手にタイムリミットを決めてカウントダウンを始める。


 やがて、うちの母親がいつもの軽自動車で迎えに来て、俺はパンツ一丁のまま助手席へ乗り込む。

 そうして家に帰るまでのあいだ、車の後部座席に相乗りした野々坂は、さっきの仕返しだと言わんばかりにずっと俺の肩を揉んでいた。


 ――ちなみに、今回の話には後日談がある。


 小中学生の夏休みに続いて、我が校の終業式もつつがなく終わり、それから数日が経ったある日のことだ。

 ちょっと風邪気味ながらもアルバイトを休めず、帰宅するなり布団に倒れ込んだ俺のケータイに、香川先輩から衝撃的な画像が送りつけられてきた。


 風呂上がりにドライヤーで髪を乾かし、耳にピアスをはめた先輩が、鏡の前でケータイをかざしている自撮りの写真である。

 しかも、風になびくライオンのたてがみを思わせるくらい、見事に染まった美しい金髪だった。肌の色も健康的に日焼けしている。


 もちろん両親からは反対されて思いとどまるように説得されたが、薬局で買ってきた商品の注意書きをよく読み、自分ひとりで挑戦してみたそうだ。

 学校の先生にばれたら怒られるので、せめて夏休みのあいだだけ。二学期が始まったら元に戻すつもりだという。


 俺は、先輩から指示された通り、その画像を保存せずに消去した。

 そして、今度みんなでプールへ行く機会があったら、水着の写真を送ってほしいと要求した。



  第五話 恋する男子に水泳を教えて(完)

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