恋する男子に水泳を教えて(2)


 俺たちの高校には、水泳の授業がある。


 梅雨時の空模様によって若干日程が前後するものの――六月中旬のプール開きから、一学期の終わりまで。授業の単位で表せば、ほんの数コマ程度だ。

 一年生は男女ともに必修科目。二年生からは選択制の分割授業となる。


 ただし、基本的に全員参加を強制される男子生徒と違って、何となく体調が優れない女子生徒に関しては、例外として見学が認められている。

 あくまでも本人による自己申告制であり、本当の理由を言いたくなければ答えなくても構わない。


 俺自身は、泳ぐのが苦手だ。

 たかだか25メートル程度の距離ならば余裕だが、自慢できるほど得意というわけでもない。


 好きか嫌いかで言うと、嫌いではない。

 それはたぶん、勉強以外のことをするのが単純に楽しいからだと思う。


 とはいえ、生半可な気持ちでやると思わぬ事故につながる恐れがある。

 プールサイドできちんと準備運動を済ませて、順番が回ってきたら下手くそなりに必死に泳ぐ。


 スタート台に横一列で並んだら、ホイッスルの合図で一斉に飛び込む。

 クイックターンで反対側を蹴って戻ってきたら、水中ゴーグルを外して耳の穴をかっぽじる。


 ストップウォッチでそれぞれの生徒の自己ベストを計測し、スタートとゴールを何度も往復する。

 ただひたすら、それを繰り返すだけだ。


 順番待ちの列に並んでスタートの合図を待っている最中、普段はあまり喋らない同級生と冗談半分にじゃれ合ったりする。

 プールを半分に割って別のレーンに並んだ女子たちは、競泳水着の肩ひもを直したり、先生から注意されて水泳キャップに髪を隠したりする。


「よし、あとは自由時間だ。おのおの、好きな泳ぎ方で練習しろ」


 この学校のプールは、南向きの校庭に面した場所にある。

 景色がひらけていて日当たりが良く、日光浴をするにはうってつけの場所だ。


 俺は、水際に両手をついてさっそくプールから上がり、コンクリートの乾いた部分に水泳キャップを干す。

 寒風に吹かれる肩をさすって唇を青くしながら、カチカチと歯を鳴らして残り時間を耐え忍ぶ。


「青木さんって、意外とたくましいんですね」

「あんまりじろじろ見るなよ」


「目をつぶっているので、何も見えていませんよ?」

「だからといって、誰も触っていいとは言ってない」


 まだ授業中にもかかわらず、ほんのつかの間与えられた自由時間。金網のフェンスで囲まれたプールサイドの片隅。

 暖かい太陽にさらした俺の背中をつんつんと突っつき、そんなふうに話しかけてきたのは、千嵐小夜だった。


 上半身は夏用の制服を着たまま、下半身だけ体操着の半ズボンをはいている恰好だ。濡れないように靴下を脱いで裸足になっている。

 競泳のタイムを記録したクリップボードを片手に持ち、首からストップウォッチを下げている。


「お前は今日も見学か?」

「最近、何となく体調が優れなくて」


「そうか、それは残念だな」

「ずる休みじゃありませんからね」


 ――あっ、あそこにセミの抜け殻が浮いているぞ。

 水着姿のままプールサイドに腰かけた俺は、たわむれにプールの水をすくって飛沫をかける。


 もう、やめてくださいよ――と、迷惑そうに顔をかばいつつも、曇りがちだった表情を明るくする千嵐。

 しわくちゃにふやけた指の皮膚を見せて、まるでおじいちゃんみたいだと笑い合う。


「せめて足だけでも入ってみろよ。冷たくて気持ちいいぞ」

「そんな、温泉じゃないんですから。制服が濡れちゃいますし」


「もうすぐ次の授業が始まるぞ。先生に見つからなきゃ大丈夫だって」

「……絶対に後ろから押さないでくださいよ? 絶対ですからね?」


 千嵐は、誰もいないのに自分の背後ばかり警戒して、まるでお笑い芸人みたいなことを言った。

 差し伸べた手を無理やり引っ張られて、かたくなまでに尻込みしながらも、照り返す日差しが揺らぐプールの波打ち際におそるおそる近づく。


 首から下げたストップウォッチを胸の中に入れると、半ズボンの体操着を太ももまでまくる。

 そして、プールの隅にある手すりつきのはしごに掴まりながら、水の温度を確かめてゆっくりと素足を伸ばす。


 俺は、後ろ向きに両手を突っ張って、仰向けに空を見上げた。

 あたかも地球が回るかのように、ゆっくりと雲が流れていく。


「青木さんは、どうします?」

「何の話だ?」


「野々坂さんから、何も聞いていないんですか?」

「今日はまだ、あいつと一言も喋ってない」


「じつは私、お店に行って試着するのが恥ずかしくて、インターネットで水着を注文することにしたんです」

「うん、それで?」


「といっても、学校のプールで着用するような競泳用の水着じゃありませんよ? えーっと、何と言ったらいいんでしょうか。ちょっとエッチな大人の下着みたいなやつ」

「まあ、言わんとしてることは何となく分かるけど」


「でも、私ってほら、はっきり言ってデブじゃないですか」

「控えめに言って、そこまで太ってないと思うぞ」


「だから、思わず可愛くてデザインで選んじゃったけど、実際に着てみてサイズが合わなかったらどうしようって」

「大きくなっても着られるように、少し大きめのサイズを買っておけばいいのに」


「私は身長じゃなくて体重の話をしてるんです。子供用のベビー服みたいに言わないでください」

「いや、俺はおっぱいの大きさについて話してるんだ。気にしてるんだったら謝るけど」


「いいんです、自分でも分かってますから」

「そんなこと、他人と比べてもしょうがないだろう」


「ですから、おっぱいの話ばかりしないでください」

「……むしろ俺は、お前みたいな女の子のほうが好きだけどな」


 すると千嵐は、いきなり横から俺の肩を突き飛ばした。

 勢いあまってプールの中に落とされた俺は、濡れた髪を逆さに振って、引き上げてくれと手を伸ばす。


 プールサイドから俺のことを見下ろしながら、くすくすと笑みをこらえる千嵐。

 仕返しを恐れてますます疑心暗鬼になり、すんでのところでわざと差し伸べた手を引っ込める。


「青木さんは、海水浴とか行かないんですか?」

「行かない。面倒くさいから」


「じゃあ、流れるプールは?」

「行かない。流されたくないから」


「せっかくの夏休みなのに?」

「ガキのころから、ろくな思い出がない」


「そうですか、それは残念ですね」

「俺は全然そんなふうに思わない」


「ひょっとして、浮き輪を持っていないんですか?」

「えっ?」


「大丈夫ですよ、青木さんなら浮き輪がなくても泳げますって」

「そ、そうかな……」


「もしよかったら、私の浮き輪を貸してあげましょうか?」

「いらない」


「……やっぱり、私の浮き輪じゃ駄目ですか?」

「いや、そういう意味じゃなくて」


「おうちに帰ったら、お母さんに聞いてみてください」

「何をだよ」


「今度、友達と一緒にプールへ遊びに行ってもいいですか? って」

「お前、絶対俺のことを馬鹿にしてるだろ」

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