第五話

恋する男子に水泳を教えて(1)


「……野々坂さんは、いつも自分でしてます?」


 千嵐小夜は、エアコンの設定温度を弱くした。

 図書室の書架から持ち出してきた本を携えてテーブルに戻ると、自ずから椅子を寄せて隣の席へ近づく。


「私の場合は、だいたい一週間のあいだに一回か二回くらいかな」


 野々坂百花は、電子辞書を脇に置いてレポートを書きながら、あっけらかんとして答える。

 ちょっと痛いくらいスースーとするメンズ用の汗拭きシートで肌をぬぐい、薄っぺらな下敷きぱたぱたと仰ぐ。


「それは、多いほうですか? 少ないほうですか?」

「うーん、分かんない」


「お父さんやお母さんは、ご存知なんですか?」

「うちは父親しかいないから、たぶん知らないと思う。ばれないように隠してるし」


「やっぱり、誰かに相談するべきでしょうか?」

「自分から言うのも何だかあれだし、聞かれたら答えればいいんじゃない?」


 それは、ある日の放課後――。

 いつものように教室で帰り支度を済ませた俺が、アルバイトへ出かける前にわずかな時間を見つけて、学校の図書室へ立ち寄った時の出来事だった。


「ちなみに、普段はどんな場所でやってます?」

「お風呂でシャワーを浴びる時かな。石けんでぬるぬるにしてからやると気持ちいいの」


「おもに、どの辺りの部分を?」

「嫌だな、そんなの恥ずかしくて言えないよ」


「それじゃあ、どんな方法が一番でした?」

「薬局で普通に買えるものしか試したことがなくて。ネットで通販とか覗くと、色んなタイプの商品が売ってるみたいだけど」


「ちょっとだけ、触ってみてもいいですか?」

「今日はもう遅いから駄目だって。明日プールの授業がある時に、更衣室でこっそりね」


 千嵐は、目をつぶったまま触れたものを手探りしつつ、制服のスカートをまさぐって相手の足をさする。

 しかし野々坂は、ぞわっと鳥肌立った二の腕をさすり、くすぐったそうに身をよじって拒んでしまう。


 俺は、そっと荷物を下ろして図書室の片隅に座り、こっそり学校に持ち込んだ漫画雑誌を読みふける。

 部活の先輩に見つかりそうになったら、急いで鞄の中にしまおう。今のところは俺たち一年生だけなので、のびのびと自由に過ごせる。


「ところで、野々坂さんはいつごろから始めました?」

「あれは、中学二年の夏休みだったかな」


「それは、早いほうですか? 遅いほうですか?」

「たぶん、人それぞれだと思うけど」


「きっかけは何だったんですか?」

「私ってほら、ものすごく汗っかきでしょう? だから、臭いとか気になって」


「もしかして、好きな人ができたとか?」

「違うってば、そんなんじゃないって」


 校庭の裏手にある雑木林から、蝉の鳴き声が聞こえる。

 それから、サッカー部の顧問が休憩を告げるホイッスルの音。真っ黒に日焼けした短パン姿の男子生徒たちが、水道の蛇口を逆さにして頭から飛沫をかぶっている。


 この日は、一学期の期末試験を翌週に控えた最後の練習日だった。


 我が校は、学問とスポーツの両立を教育方針として掲げる某県某市の公立高校である。

 各教科のテストの結果が及第点を下回った場合、公式の大会に出場できないという不文律があり、運動部の連中も必死になって勉強する。


 さらに、一学期最後の追試で赤点を取ってしまった生徒は、夏休みのあいだも学校に通って補習授業を受けなければならない。

 前回の中間テストで残念すぎる点数を叩き出してしまった野々坂にとっては、まさにここが正念場というわけだ。


「初めての時は、やっぱり緊張しました?」

「うん、少しね」


「後悔はありませんでしたか?」

「ちょっと血が出ちゃって、やばいかもとは思った」


「……痛かったですか?」

「それからニ三日のあいだはヒリヒリとしてさ、スカートだと自転車にも乗れなかったな」


「その後、かゆみやかぶれなどの症状は?」

「怖いのは最初だけだって。すぐに慣れるよ。周りの女の子もみんなやってるし」


 都会の喧騒から遠く離れた、田舎の学校にある静かな図書室。

 そろそろ梅雨が明けて、うだるような暑さがやってくる時期だ。天井に備え付けられた古いタイプのエアコンが、怒ったようにうなっている。


 俺は、窓辺に頬杖をついてぱらぱらと雑誌のページをめくり、素知らぬ顔で聞き耳を立てる。

 野々坂と千嵐は、相変わらず勉強そっちのけで何やらこそこそと話し込んでいる。


「ひょっとして、千嵐さんにも経験があるの?」


 野々坂は、何も書かずに遊んでいた鉛筆をピタリと止めると、耳の後ろに髪をかけて覗き込むように問いかける。

 千嵐は、暇つぶしに知恵の輪みたいなアクセサリーをいじってもじもじとしながらも、そうと言われなければ分からぬ程度に小さく頷く。


「……それで、どこまでやったの?」


 この時――俺は、どうやって彼女たちの楽しげな会話を中断させるべきか、そのタイミングを今か今かと窺っていた。

 なぜなら俺は今日、好きな女の子と一言も喋っていないからだ。


 今朝、偶然にも登校の時間が重なって下駄箱ですれ違ったものの、あたふたと靴を履き替えているうちに挨拶しそびれてしまった。

 それ以降、彼女は俺に見向きもしてくれない。


「うわっ、もうそんなところまでやったの? 初めてなのに?」


 千嵐は、とっさに後ろを振り向き、目端を利かせて俺の存在を警戒する。そして、焦ってそのことを野々坂に教えようとする。

 思わず出かけた声を押さえて、しーっと口もとで指を立てる野々坂。さらに背中を丸くして、こらえきれず忍び笑いを漏らす。


「自分で鏡を見ながらしたの? 一体どんな格好で?」

「やめてくださいよ、そんな言い方。恥ずかしいじゃないですか」


「ねえねえ、今日家に帰ってからでいいから、服を脱いで見せてよ。すぐに消去するって約束するから」

「スマホで写真を撮って送るんですか? それって犯罪者の巧妙な手口ですよね?」


 俺は、耳から入ってくる断片的な情報を頭の中でつなぎ合わせ、よからぬ想像をふくらませる。

 いつも普段から無意識にやっていることだ。よそ見をしながらぼんやりと授業を聞いたり。通学路を歩いていて、後ろから近づいてくる車を避けたり。


 あらかじめ危険を察知するべく、常に周囲の状況に注意を払う。

 しかし、それは必ずしも自分の身を守るためだけじゃない。自分自身が誰かにとって危険な存在だとしたら、意図せず相手を傷つけないように細心の注意を払わなければない。


「千嵐さんって、そんなにすごいの?」

「ひょっとすると私、周りの男子よりもすごいかも」


「具体的に言うと、どれくらい?」

「動物でたとえるなら、アフリカのサバンナに棲息する野生のゾウくらいでしょうか?」


「そんな抽象的な表現じゃ分からないよ。ほら、この部分をあそこに見立てて、鉛筆でノートに書いてみて」

「でも、今日はきちんとお手入れをしたあとなので、ハダカデバネズミの赤ちゃんみたいになってます」


「だから全然伝わらないって。そもそもゾウって、あんまり毛が生えてるイメージないけど」


 俺は、学生鞄からケータイを取り出して時計を見るなり、椅子を引いて席を立つ。

 そろそろ、下校しなければならない時間だった。ズボンのポケットを叩いて自転車の鍵を探す。


 すると、その時だった。


 図書室のドアを開けて廊下に出ようとする間際、何となく背後の気配を察した野々坂が、

 ――もう帰っちゃうの? と、いつもと変わらぬ調子で話しかけてくる。


 気づいたら、もうこんな時間だったのね。

 だったら、そろそろ私も部活へ行こうかな。練習をサボったら顧問の先生に怒られちゃうし。


「ねえねえ、あんたは知ってる?」

「……何の話だ?」


「もう、今まで何も聞いてなかったの? ハダカデバネズミが一体どんな生き物かっていう話よ」

「いや、だから何の話だよ」

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