第四話

恋する男子に天気を教えて(1)


 六月のカレンダーには、国民の祝日がない。

 つまり、一年の中で最も休日が少ない月だ。


 これはあくまで余談だが――とある年度にお役所が調べた統計によると、国民一人当たりの年間における休日の平均日数は、一般的な企業に勤める会社員の場合で110日~120日だったそうだ。

 もちろん職業や働き方によって人それぞれ事情は異なるだろうが、一年は十二か月で延べ365日なので、だいだい三日に一回は休んでいる計算になる。


 要するに何が言いたいのかというと、世間の大人のうちのおよそ三人に一人は、忙しいふりをして働いていない。

 半信半疑で自分自身の出席日数を調べてみたら、土日祝日に夏休みと冬休みを足して、一年間で合計130日~140日くらい休みがあった。


 しかし、分不相応にも生意気なことを言わせてもらうと――俺にとって休日とは、国家から与えられるものではなく、むしろ奪われるものなのだ。


 ゆとり教育の時代から公務員と同じく完全週休二日制を採用している我が校においても、場合によっては土曜日にもかかわらず学校へ通わなければならない日がある。

 先月行われた体育祭の翌日が休みだったので、その振り替えの登校日だ。


 たとえ日本列島に台風が近づくような日であっても、公共の交通機関がストップしてくれない限り、いつも通り学校へ行かなければ欠席扱いとなる。

 ちょっとやそっとの悪天候ならばレインコートでしのげるものの、強風に吹かれながら自転車を漕ぐのは危険である。


 そういうわけで、俺はこの日の朝。

 自宅からおよそ徒歩5分の距離にある停留所からバスに乗ることにした。


 出かけしなに母親から渡された折りたたみ傘を鞄に忍ばせ、町角にある商店のひさしを借りて雨宿りをする。

 子供のころ、毎日のように足しげく通っていた駄菓子屋の前だった。昔懐かしのビールケースにラムネの空き瓶が並んでいる。


 やがて、地元の鉄道会社が運営しているローカルな路線バスが到着する。

 平日の朝と夕方はだいたい30分ごとに運行しているが、土日祝日の場合は一時間に一本のみ。このバスを逃したら遅刻は免れない。


 俺は、バックミラー越しに運転手と会釈を交わしたのち、切符を取って一番後ろの座席に着く。

 この日は土曜日の早朝ということもあってか、バスの乗客は俺一人しかいなかった。


 すると、そこへ。

 路地裏の階段から大慌てで飛び出してきた野々坂百花が、傘も差さずに駆け足でバスに乗り込んでくる。


 車内の吊り革に掴まってはずんだ息を整えながら、あらためて手首を覆して腕時計を見やる。

 そして、窓際の座席で頬杖をついていた俺と、出会い頭に鉢合わせる恰好となる。


「うわっ、油断した」


 開口一番、彼女はそう言い放った。

 しきりに前髪をなでておでこを隠しつつ、最後列からひとつ前の座席に腰かける。


 口先に食んだヘアゴムで手早く後ろ髪を結わうと、鞄の中から化粧ポーチを取り出す。

 遠くから近くから手鏡をかざし、くるくる回したペンシルで眉毛を書き足す。


 俺たちが住んでいるこの町は、某県某市の郊外にある小さな町だ。

 長い年月が経ってひび割れた道路は、でこぼこで水溜まりが多く、バスの乗り心地は決して良いものとは言えない。


 俺は、退屈しのぎに学校の図書室から借りてきた本を読みふける。


 明治大正期の名だたる文豪たちの代表作を収録した、手のひらサイズの文庫本だった。

 部活の先輩から後学のために読んでおけと勧められたものの、こんなもの何が面白いのかさっぱり分からない。


「ねえねえ、知ってる?」


 野々坂は、逆剥けて傷んだ爪ばかり気にしながら、スマホの画面を突っついて今朝のニュースをチェックしていた。

 雨粒したたるバスの車窓をコンコンとノックすると、座席の背もたれ越しに後ろを振り向く。


「雨の匂いって、アスファルトの道路に降り積もった塵や埃の臭いなんだって」


 俺は、ふと目を覚まして自分のおでこをさする。

 もちろん、半分は寝たふりだった。別に疲れているわけではない。胸のうちに秘めた思いを知られなくないだけだ。


「私、子供のころから何となく分かるんだよね。もうすぐ雨が降る予感がするって」

「言われてみれば、いつも道路を走っている自動車のタイヤと同じ臭いだな」


「実際に嗅いだことあるの?」

「何なら味見したこともあるぞ」


 なーんだ、つまんないの。

 せっかく役に立つ豆知識を教えてあげたのに、期待していたような反応が得られず、いささか不満げなご様子。


 ちなみに、雨が降り始めるとほのかに香り立つその成分の正体は、ペトリコール。

 ギリシャ語で石のエッセンスという意味らしい。


 それから野々坂は、次の停留所でバスが停まるタイミングを見計らい、ごっそり荷物を抱えて後ろの座席に引っ越してくる。

 どうやら、ネットで面白い動画を見つけて思わず吹き出してしまったようだ。


 しーっ、と口元に人差し指を立てつつスマホの画面を伏せて、お尻ひとつぶん隣に詰め寄ってくる野々坂。

 ……そして、わずかに眉をひそめながら一言。


「あんたのシャツ、雑巾みたいな臭いがしない?」

「部屋干しで生乾きなんだよ」


「夕べは土砂降りだったもんね」

「おかげでひどい目に遭った」


 お花屋さんのアルバイトなんて辞めて、あんたもバスで通学すればいいのに。

 ――と、野々坂は電子マネーの残高をチャージしたパスケースを見せびらかす。


 かくいう野々坂自身も、入学当初は俺と同じく、自転車で学校に通っていたのだが。

 朝から運動をすればダイエットになるという理由からだ。


 けれども、もともと早起きが苦手で遅刻気味だったし、放課後にクラブ活動を始めてからは、もっぱら定期券を使ってバスで通学するようになった。


 下校時間が遅くなると、帰り道が暗くて危ない。

 そんなふうに父親から反対されて、やむなく門限を厳守するという条件を受け入れたそうだ。


 それに、荷物も多くなりがちだ。

 俺たちの学校で用いられている学生鞄は、手提げでも肩掛けでも持ち運びやすい紺色のスクールバッグである。


 ところが、彼女の場合。

 練習用のテニスラケットやら、水筒代わりの凍らせたペットボトルやら、何でもかんでも無理やり詰め込んでしまうせいで、まるで米俵みたいな状態になっている。


「私ね、近ごろ自分で洗濯をするようになったの」


 野々坂は、アイロンで仕上げたシャツの襟をととのえ、胸元のリボンを蝶々結びにする。

 それからさらに、衣服の内側にタグ付けされた洗濯表示をめくってみせる。


 自宅でも簡単に水洗いできる夏用の制服だ。

 ほら、触ってごらん――と言われるまで気づかなかったが、ざらざらとしたスカートの生地も、透けるくらい薄くなっている。


「うちのお父さん、現場仕事だから靴下が汚くて」

「どうせ風呂の残り湯を使うなら、一緒に洗ってやれよ」


「しかもね、ここ最近雨ばかりだから、仕事もせずにずっと家の中で寝てるのよ」

「働いてても休んでても文句を言われるのか」


 そんなことよりも俺が今、いても立ってもいられないほど気になっているのは、バスの降車ボタンを押すタイミングだった。


 彼女はさっきからお喋りに夢中で、次の目的地を告げる運転手のアナウンスにも気づかない。

 周りの乗客に配慮してマナーモードに設定した携帯電話を、バスの車内に置き忘れやしないか心配になる。


「夕方まで続くかな?」

「柔軟剤の香りが?」


「そうじゃなくて、今日の雨。部活の練習が休みにならないかなって」

「もうすぐ夏の大会があるんだろう? これからはもっと忙しくなるな」


「明日もあさっても、ずっと雨だったらいいのに」

「……何か嫌なことでもあったのか?」


「ううん、別に」

「それならいいけど」

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