第10話  入学式とトライアウト

      第 二 部



短い秋はあっという間に過ぎ、大好きな冬も受験に追われる間に終わりを告げ、日中の日差しが徐々に柔らかくなりつつある四月始め、瑠里は大学の入学準備に追われていた。

あの競技会の日から、7ヶ月の月日が過ぎた。


明後日に迫った入学式の為にあつらえた黒いパンツスーツに身を包み、姿見の前で満足気に微笑んだ。


「 細身の瑠里にはパンツスーツが正解だったわね。でも、その髪型なんとか出来なかったの?少し伸ばしてウェーブにするとか……女子大生らしさが見当たらないんだけど?」


瑠里の横で同じように姿見を覗き込んでいた瑛子は、腕を組みながら不満そうに口を曲げた。


「 悪かったわね~!女子大生らしくなくて。私はこれでいいの!」


瑠里は高校生の時と何一つ変わらないショートボブの黒髪を撫でつけた。

少なくとも、青に再会を果たすまでは私は変わってはいけないのだと、瑠里は勝手に決めていた。

一目見て、私が“ 瑠里 ”だと青が認識できるように。

だからクラブを引退した後も太ったりしないように走る事は止めなかったし、髪型も一切変えることはしなかった。

まぁ、無事に再会を果たし、二人がちゃんと恋人同士になれた暁には、もっと女の子らしい髪型に変えたり、化粧の一つも覚えて可愛い恋人になってあげてもいいかな、とは思うけど……瑠里はちょっと生意気な感じで鏡の自分にニンマリ笑いかけてみた。

でも、やっぱり今は、あの半年前に別れた時のままの自分で逢いたいと切に思っている。


入学式当日、瑠里はめったに乗ったことの無いローカルバスに揺られ、窓から見える琵琶湖のさざ波を見つめていた。

中学、高校と六年間続いた自転車通学に別れを告げ、初めてのバス通学になる。

瑠里の受かった大学は、俗に奥琵琶湖と呼ばれる北東部湖畔に位置する広大な敷地に建てられた県内きっての名門大学だった。


この半年間は、今までの人生の中でも(といっても、わずか18年にすぎないが…)最も頑張り抜いた半年間だったと、瑠里は今更ながらに思った。

青と同じ大学に進学する事を決めたものの、まずは担任から猛反対を受けた。

希望の大学が、瑠里の高校の指定校推薦枠に納まるようなレベルの大学ではなかったし、何より瑠里の学力がそこを受験するには到底及ばないレベルであったこと。

よしんば、スポーツ推薦枠があったとしても、何の記録や実績も持たない瑠里など推薦対象には遥か及ばないこと。

あの夏の終わりの大会で最初で最後の優勝を果たしてはみたものの……記録自体は平凡で、あれが高校新記録にでもなっていれば、まだ少しの可能性はあったかもしれない、とのこと。

ましてや、瑠里が出した進学希望の結論時期は、AO入試や推薦入試がすでに始まっていた頃で、かなりギリギリな上に何の準備も出来ていない状態だったから、尚更最悪だと判断されてしまった。


あれだけ瑠里の進学を望んでいた瑛子ですら、希望大学名を聞いた時にはさすがに表情が固まってしまった。

そして、何もそんなに背伸びをしなくても受けられる所があるんじゃないの?とまで、意見される始末だった。

もちろん、周囲のそれらの意見がまっとうだとは思う。

常識的にみて、どう頑張っても浪人する確率が非常に高い生徒を承認する学校は少ないだろう。

それでも瑠里は頑として周りの反対を受け入れなかった。

そしてそこまでして挑む本当の理由を誰かに打ち明けることも、最後までしなかった。

無茶でも、不可能でも、どうしても、その大学に行きたい!の一本槍で貫いた。

ただ、ほんの僅かではあったが希望が持てないわけでもなかった。

瑠里が希望する“ 総合スポーツ科学 ”という学部が、新年度から開設される新設学科であったことから、他の伝統実績ある学部よりも若干受け入れ口が広かったのだ。

それと、基本真面目な生徒だった瑠里の平常点や内申点はかなり高かった。

そのたった二つの可能性だけを胸に、瑠里は突っ走った。

ほとんど手つかずにしてあったお年玉貯金を注ぎ込んで、予備校へ通い、講習や模試を可能な限り受け続け、受験までの四か月の睡眠を三時間程に減らして机にしがみ付いた。


「 こうと決めたらテコでも曲げない強情なところは、大輔そっくり!」という瑛子の賛辞を受けながら、瑠里は必死に走り続け……結果、奇跡の合格を手に入れたのだった。


それでも……この半年、何度も何度も淋しさと不安に押し潰されそうになった瑠里だった。

青に逢えない淋しさ、孤独感。

確かに約束はしたけれど、実際、本当に青と再会出来るのだろうかという漠然とした不安感。

必ず迎えに来ると言ってくれた青が、いつになっても逢いに来てくれない現実。

彼は、無事に目を覚まし、現実の世界に戻れたのだろうか?

ちゃんと目を覚まして、困難なリハビリを頑張れたのだろうか?

今、青は、この世界に生きているのだろうか……?


どんなに受験勉強に追われていても、寝る時間を惜しむ程忙しくしていても、その最大の不安は瑠里を悩まし続けた。

だが、その不安こそが瑠里の原動力になったのだった。

待つのではなく、自分が逢いに行こうと。

自分が青を迎えに行くのだと。

ちゃんと約束したのだ。

恋人になる為にさよならしたのだし、あの約束のキスは夢でも幻でもない本当のキスだったのだから。


バスの車内放送が次の停車駅を告げ、瑠里は近くの停車ボタンを押した。


見上げるような大きく広い重厚な石門をくぐると、心拍数が跳ね上がった。

受験の時も、異常な緊張感で心臓がバクバクしたが、今日はその緊張感とは全く感じが違った。

この広大な大学のどこかに青が居る、という現実に、足が震える。

青に逢う為だけに、この大学の生徒になることを目指した。

今の自分にとって、彼との再会を果たすことだけが全てを占めていると言っても過言ではないのだ。


今まで経験してきた入学式と違って、学部数や学生数の多い大学の式は、二日間に分けて行われる。

瑠里達の学部は新設とあって、二日目だった。

大きな講堂の果てしない数のパイプ椅子の中の一つに身を沈め、果てしない数の知らない人達に囲まれて、瑠里は入学式を受けた。

同じ高校から入学した人間を探せば居るだろうが、恐らくは特進クラスの生徒だったであろうから、顔見知りの筈はなかった。

ましてや、新設学部であれば尚更知っている人間は居ないだろう。そういうことを考えても、やはり瑠里の知っている唯一の人間は、月城 青だけなのだと確信する。


入学式というものは、高校であっても大学であっても退屈極まりない行事に何ら変わりはないなぁ、という感想を胸に欠伸を噛み殺しながら講堂を後にした。

そして、講堂から続く長く広い石段の下の広場に広がる光景に、瑠里は目を見張った。

広場は埋め尽くす程の大勢の学生達の群れでごった返している。

カラフルな立て札やプレートを掲げて、様々なユニフォームに身を包み、講堂から出てくる新入生に我先にと片っ端らから群がっていく。

取りこぼしの無いようにと手当たり次第にビラやパンフレットなどを配る者や、強引に見学参加の用紙に名前を書かせたりする部員。

背の高い人間や、如何にも運動やってました的な体格の人間は、何人かにガッチリ取り囲まれて身動きを封じられている。


「……これが有名なクラブ勧誘かぁ……」


ドラマか何かで見たことはあったが、実際に目の当たりにして瑠里は呆気にとられた。


「 差し詰め、あたし達ってピラニアの餌、って感じだよね?」


いつの間にか横に並んで同じようにその光景を眺めていた女子学生がそう言って笑った。


「 え?……あぁ、まぁ、そうなんですかねぇ……」


瑠里は曖昧な笑みと返事を返しながら、彼女を見た。

同じような黒いAラインのリクルートスーツの彼女は、見事な黒髪ロングヘアの綺麗な子だった。

最近ドラマや映画に引っ張りだこの人気女優にどことなく雰囲気が似ている気がした。


「 あなた、新設学科の学生?」


よく通る快活な声で聞かれて、瑠里はあらためてニッコリ笑った。


「 はい、総合スポーツ科学です。あなたも……ですか?」



「 うん、そう。入学式の席が近かったから、そうかなって思って。あたし、酒井さかい夏海なつみ、よろしく 」


「 高宮瑠里です。よろしくお願いします」


「 さてと、高宮さんはどうする?あの中に飛び込んでいく?」


「 いやぁ……ちょっと気が引けるかなぁ……」


見ず知らずの人達に取り囲まれて身動きが取れなかったり、強引、もしくは無理矢理何かに参加させられる羽目になったり……は、出来れば避けたかった。


「 もう入部したいクラブ決まってるの?」


「 あ、はい、決めてます。ただ、あの中に飛び込んで入部手続きをしないといけないのなら、思い切った勇気が要るな……と」


「 そうなんだ、決まってるんだ 」


眉間に小さなしわを寄せて広場を見つめる瑠里の横顔に、夏海はクスッと笑った。


「 差し障りなければ聞いてもいい?どこ希望?」


「 全然構いませんよ、陸上部です!」


瑠里は、迷わずニッコリ笑って答えた。

そして、こういう場合は同じ質問を聞き返すのがルールなのかなぁ……と迷ってた時に、夏海が口を開く。


「 あたしは、まだ決めてないの。勿論、せっかくの四年間だからどこかに入りたいとは考えてるけどね。かといって、あの集団に揉みくちゃは遠慮したいし」


同感、同感と頷きながら溜息を漏らすと、夏海が思い出したように付け加えた。


「 あ、そういえば……陸上部はあの集団の中には含まれていないんじゃないかな。あと、男子バスケット部と女子バレーボール部もあそこには居ないと思う。多分、だけど」


「 え!?そうなんですか?なぜですか?」


目を瞬いて素直に聞き返した瑠里に夏海は小さく笑った。


「 高宮さん……だったっけ?敬語じゃなくていいんじゃない?あたし、これでも一応現役で合格したから、“ おない ”だし 」


「 え?あ、あぁ……ごめんなさい……そんなつもりはなくて……」


通常は、初対面の人といきなりくだけて喋れる程の社交性など持ち合わせていない瑠里だ。


「 さっき言った部は、この大学の体育会系クラブの三本柱だから一般の入部に制限とか条件とか掛けてるはずよ。知らなかった?」


「 制限に、条件……ですか……あ、いや知らなかったかも……」


一気に動揺を見せた瑠里に、夏海は不思議そうに首を傾げた。


「 陸上部に入るって決めてきた、ってことは当然承知でしょ?……あ!もしかして高宮さんって推薦組?」


「 ま、まさか!!」


瑠里は慌てて両手を振って否定した。


「 す、推薦とれるような……そんな記録も実績も持ってなくて……」


「 へぇ。てことは、ここの陸上部に凄い思い入れがあるとか?」


そう聞いた彼女の表情から、(そうでなきゃ一般入部なんてしないわよねぇ?)という続きの言葉が聞こえてきそうな気がした。


ただただ青に逢う為だけにここまで辿り着いた瑠里には、そういったこだわりも無く、一般入部に制限があることなども知らなかったのだ。


「……思い入れというか……憧れ…いえ、尊敬してる先輩がいるというか……。高校の時にお世話になったんで……まぁ、大学でもまた指導して貰えたらなぁって感じなんだけど……」


「 わぁ!なんか、恋愛漫画みたい!憧れの先輩追いかけて来たって感じ?」


興味津々顔であっさりと聞かれたが、瑠里は少し困ったような笑みで小さく首を振った。


「いえ、そんなドラマチックな話とかじゃないんだけど……」


「あ、なんかごめん!初対面でずうずうし過ぎちゃったね」


夏海は微笑みながらあっけらかんと謝った。


「 じゃあ、高宮さんは陸上部直行ね!あたしは……今日のところは退散するかな 」


「 そうですね……」


「 あ!ほら、また敬語!」


夏海が悪戯っぽく睨んで瑠里の腕を肘で突いた。


「 同じ学部で同い年でこれから仲良くなるんだから、やめてよね!」


「あ、ご、ごめん!そうだよね、きっと授業も一緒になること多いかもだしね 」


「 でしょう?では、今日のところはこれでバイバイね、また、授業で会いましょう!次会った時の目標は、携帯の番号&ライン交換っていうのはどう?」


肩にバッグを掛けなおしながら夏海はニッコリ笑った。


「 う、うん。次、会った時ね!」


瑠里も釣られてニッコリと笑った。

正面の広場を避ける様に、二人はそれぞれ逆方向に別れて背を向けた。


入学式の時に手渡された構内案内図と睨めっこしながら、瑠里は第一グラウンドを目指した。グラウンドだけで第四まであるらしく、陸上部専用は第一となっていて、その横にはサブグラウンドも併設しているらしい。

室内競技のクラブはそれぞれの体育館に隣接した施設に、屋外競技のクラブは各競技グラウンドにある施設に、部室は存在しているらしい。


とにかく広い構内をひたすら歩き、ようやく目的地の第一グラウンドに辿り着いた瑠里だったが、目の前に広がる光景に、金縛りにあったかのように硬直した。

ちょっとした競技会なら行えるだろう位に設備の整った広いグラウンドに、そこそこの人数の陸上部員が銘々に練習していた。


棒高跳びに、走り高跳び、それぞれのフィールド競技を囲むように作られた中央のトラックを二組に分かれて走る部員達。


身体は硬直したままだったが、瑠里の視線は必死に青を探し続けた。

あの綺麗なフォームは今も記憶に焼き付いていて、中央を走っているグループを隈なくチェックしたが、誰一人として該当しない。

いつの間にか、呼吸することも忘れていたらしく、瑠里は苦しくなって大きく空気を吸い込んだ。


次に、視線を外回りに移してもう一度青を探す。専門はトラックと駅伝だと言っていたが、他にも携わっているかもしれない。

なめるように、確実にひとりひとりを確認してみたが、やはりそのグラウンドに青は居なかった。


突然、どんよりとした不安感が込み上げてくる。

青が、このグラウンドに居ない。

その事実があらゆる事を想像させようとする。

瑠里は、軽く頭を振りながら嫌な想像を駆り立てる誘惑を絶ち切った。勝手に想像なんてしてみても、事実ではないのだから、まずは行動することが先決だ。

今度は、グラウンドに目もくれずに隣に建つ部室があるであろう施設に向かった。

Lの字になっている平屋建ての施設は薄いクリーム色で、瑠里がイメージしていた部室の印象とはかけ離れていた。

どこかのクリニックのような感じだ。

入口の大きなガラスのドアを押し開け中に入ると、玄関ホールの左手には受付のような窓口があり、正面にはブルーがかった薄いグレーの壁と床が広がっている。


緊張しながら窓口の方へゆっくり進み、ひょこっと覗き込むと中にはお揃いの紺に赤ラインな入ったトレーニングウェア姿の二人の女性が居た。


「 あの、すみません……」


「 ………あ、はい!」


ややあってから、手前で黄色いファイルを開いていた女性が慌てて窓口までやってきてくれた。


「 ここは……陸上部の部室……でしょうか?」


「 そうですよ、部室というかクラブハウスです 」


親しみ易い笑顔の女性は、そう言って瑠里のスーツ姿に視線を走らせ、あら、という表情を浮かべた。


「 もしかして、新入生の方ですか?」


「 は、はい、そうです」


「 随分早いですね、集合時間までまだかなりありますよ?」


集合時間……と言われて、瑠里は首を傾げた。


「 あの、入部受付の集合時間があるんですか?」


瑠里の問いかけに、その女性はふと口を噤み、さっきまで見ていた黄色いファイルを取りに行った。


「 すみませんが、お名前教えて貰えますか?」


「 はい、……高宮瑠里です」


ファイルをチェックするように見ていた女性は、ふと目を外すと不思議そうな表情を浮かべて瑠里を見た。


「………高宮さんのお名前、こちらでは伺ってないみたいなんですが……」


その時、奥に居たもう一人の女性が声を掛けてきた。


「 金沢さん、その人、一般入部希望じゃない?」


「……え!?あぁ、……そうなんですか?」


金沢と呼ばれた女性が、なるほど、と頷きながら瑠里を見た。

瑠里はなぜか、少し申し訳なさそうに頷いた。


「……はい、こちらの陸上部に入部希望の者です。推薦ではありませんので……一般入部の希望です」


瑠里の言葉を聞き終えると、金沢という女性がもう一人の女性の方を振り返った。


「 神崎さん、お願いしてもいいですか?」


神崎と呼ばれたすらっと背の高い女性は初めて瑠里を見て、口元だけに笑みを浮かべた。


「 とりあえず説明しますから、上へどうぞ 」


「 私は陸上部中長距離班の第一マネージャーの神崎といいます。先程応対した金沢が第二マネージャーです 」


玄関ホールを上がって右手の奥にある談話室のような場所に通され、神崎というマネージャーと向き合って座った。


「 高宮瑠里といいます、よろしくお願いします 」


「 高宮さん……ですね。まず、うちの部の方針を説明しますね 」


結構な早口とハキハキと無駄のない言葉で次々と説明され、圧倒された瑠里は質問を挟むことも出来ず、相槌を打つのが精一杯だった。

要はこうだった。この陸上部は、サークルや同好会とは大きく違い、選手育成、各大会での記録、成績重視、これまでの部の伝統継承を目的とした正式なクラブであること、その選手層の大半は毎年あらかじめ入部が決まっている推薦組から成り立っていること。


「 ざっとした説明だったけど、ここまで、理解して貰えたかしら?」


相変わらず口元だけに笑みを浮かべて、神崎は軽く首を傾けた。

瑠里は、そのざっとした説明を頭の中でざっと整理し、意を決するように口を開いた。


「 つまり……一般入部は受け付けて貰えないのですか?」


「 いえ、そうじゃありません。現に、一般入部からも良い記録や成績を残す選手もいます。ただ……」


神崎はそこで一瞬言葉を切った。


「 全ての一般入部者を受け入れてはいません。遊び感覚や気軽な気持ちで入って貰っても続かないし、簡単な出入りは他の選手の迷惑になりかねないので 」


「 あの……私は遊び感覚というつもりではありません……」


瑠里の真剣な表情の言葉に、神崎は初めてその顔に微笑を浮かべた。


「 この説明は、一般入部希望者全員に向けての説明だから、高宮さんをそうだと決めつけているわけじゃありません 」


そう言ってから神崎はテーブルに置いたファイルから一枚の用紙を抜き取って瑠里の前に差し出した。


「 これに、高宮さんの陸上に関するパーソナルデータを記入して下さい。後日、一般入部者に簡単なスポーツテストを受けて頂きますので、その時に持参して下さい」


「 スポーツテスト……ですか」


目の前のA4用紙には、身長、体重に始まり、出身校からや専門競技、自己ベスト記録、大会優勝経歴などの項目で埋まっている。


「 テスト内容は、基本的な体力測定と各自の専門競技の実践です」


「あの………」


用紙に目を落としながら、瑠里の声は不安げに揺れた。


「……このテストには、合否があるんでしょうか?例えば、このパーソナルデータにおいて自己ベスト記録が平凡なものであったら入部出来ないとか……実践でのタイムにクリアラインがあるとか……」


神崎は即答はせずにちょっと間瑠里を見つめ、やがて柔らかく微笑んだ。


「 勿論、テストですから合否的なものはあります。ただ、タイムが最重要事項ではありません。その人の潜在的な素質や、何より、競技に対する取り組み方や熱意を見させて頂く……といったものだと考えて下さい 」


やる気なら、ある!瑠里は内心強く頷き、神崎にニッコリ微笑みかけた。


「 頑張ります!」


「 頑張って下さい。主な説明はこれで全てです。テストの日程は、学生部のクラブ関係の掲示板に後日掲示しますから各自でチェックして把握しておいて下さいね 」


神崎は、再び早口で端的にそう言うと、ファイルを手に速やかに立ち上がった。

釣られて瑠里も立ち上がると、すでに背を向けていた神崎を思わず呼び止めた。


「 あの、神崎さん!」


まだ何か?といった表情で振り返った彼女に、瑠里はここへ来た時から聞きたくて聞きたくて仕方なかった唯一の質問を口にした。


「 あの……ここに……月城 青さんは、在籍していますか?」


とうとうその名前を口にした瑠里だった。

青と別れてからというもの、この半年間、ただの一度も声にしなかった彼の名前。

瑠里の質問に、神崎の表情は不思議そうなものに変わった。


「……あなた、月城君を知っているの?彼の……後輩か何か?」


「あ、いえ……正式な後輩というわけでは……。以前少しだけ指導して貰ったことがあって……ちょっとした知り合いっていうか……」


「指導!?彼が、あなたを?嘘でしょ!?」


瑠里のしどろもどろな返答を遮る様に彼女は目を丸くした。


「 え……嘘って……」


「 あ、ごめんなさい、でも……彼が誰かを指導するなんて、想像出来なくって」


「 あの、それで、月城さんは……」


青が自分を指導したことを神崎が信じるかどうかなど、どうでもよかった。

どこか切羽詰まったような目差しの瑠里に、神崎は俄かに眉をひそめる。


「 彼は……確かに陸上部所属です。ただ、彼においては少々事情があって、休部状態だけど」


「……休部……」


瑠里はその言葉を呪文のように唱えると、一気に本題に触れた。


「……月城さんは……彼は……元気にしているのでしょうか?」


神崎はその目に少しの迷いを浮かべ、瑠里を見た。


「 あなたは、彼の事情を知っているのかしら?知った上で、元気か?と聞いているの?」


「 はい。事細やかにではありませんが……月城さんが酷い事故にあった事は知っています 」


不安げで、青ざめて見える顔色の瑠里に、神崎は小さく頷き微笑んだ。


「 そう、彼の事故の事知っているのね。部としては、彼の事故の状況や怪我の状況については個人情報だから言えないんだけど……」


いつの間にか息を呑むようにしてその先を待つ瑠里に、神崎は思わず苦笑した。


「 彼は、もうすぐ復帰すると聞いているわ。とりあえず今月中には現れるんじゃないかしら 」


それはなんともあっさりとした一言だった。

まるで風邪かなにかを拗らせて暫く休んでいた人間に対するかのような感じだった。

だが、瑠里の呼吸はまたもや止まっていた。

足元から何か得体のしれない物が湧いてきて、頭のてっぺんから一気に抜けていくような奇妙な感覚に襲われた。

言葉が出なかった。

何か一言でも発すれば泣き出してしまいそうだった。

青は生きていた。

そして、彼は意識を取り戻したのだ。

そして彼は……多くのリハビリを制覇して、陸上に復帰するのだ。

ようやく手にした現実としての青の情報に、心が震える。


「 高宮さん?大丈夫?あなた、顔が真っ白よ?」


少し俯き加減で一点を凝視するように固まっていた瑠里に、神崎が心配そうに顔を覗き込んだ。


「 あ、……す、すみません。ちょっと驚いてしまって」


瑠里は、ハッと我に返り、慌てて笑顔を作った。


「 でも……良かったです。復帰されるなんて、本当に良かったです 」


「 そうね、確かに奇跡的だと思うわ。事故の大きさを考えるとね 」


その言葉ほどには感情のこもっていない声でそう言った神崎に、若干の違和感を抱きつつも、瑠里の心は喜びに震え、今にも叫び出しそうだった。


神崎はもちろん、受付に居た金沢にも丁寧に挨拶をして、クラブハウスを後にした瑠里はフラフラと吸い寄せられるようにグランドへ降りる階段に向かった。

すり鉢状のグラウンド手前には、15段の階段があり、階段上に設置された自動販売機の列の隣にあったベンチにヘナヘナとへたる様に座り込んだ。

少し斜め下に見渡せるグラウンドに視線を馳せてはみたものの、ぼやけて焦点が定まらない。

今、あの中に、青はいない。

だが、青はたしかに存在している。かつて、不思議な出会いをした少し透き通っていた青ではなく、実在する彼自身。


彼は、確かに生きている。

突然、奇声を上げて叫びたくなるような衝動に駆られる。

その身体の奥から外へ向かって吹き出していくような感情を抑え込むように、瑠里は両腕で自分の身体を抱きしめた。

それでも、溢れそうな涙は止めようがなく、瑠里の大きな瞳からポロポロと零れ落ちた。


この日の為だけに頑張ってきた。

彼に関しての情報は全くの皆無だったにも拘わらず、青との約束だけを胸に周囲の反対や心配を振り切り、この半年を走り切ったのだ。


青に逢える!本当の青と逢える!

彼の恋人になれる!……夢は叶うのだ!

瑠里は、細い指先で涙を払いながら、今度はニッコリ微笑んだ。

ここまできたら、何が何でも入部を果たさなければいけない。

せっかく逢えるというのに、青の後輩になれないなんて……彼と一緒に走れないなんて、有り得ないことだ。

今度は爆発的に湧きあがってきたやる気に興奮しながら、瑠里はグラウンドを見つめながら心に誓った。




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