君にぎゅってさせてくれないかな

 教室から出ようとした俺の体は、扉の前で止まった。


「は?」


 またも素っ頓狂な声を上げた俺は、自分の腹部に回されている腕を二度見した。


「おい、赤月⁉ これは何の冗談だ⁉」


 言うと、より一層回されている腕に力がかかって、背中にまた、柔らかいものが押し当てられた。


「人に言われちゃうのはちょっと困るかなって」

「いや、待て! よくよく考えろよ、赤月。第一、俺に話すような相手がいると思うか?」


 自分で言っておいて、少し悲しくなった。


「木津っちとよく話してるでしょ? わたし、これでもクラスの人間関係は全部覚えてるんだよ?」


 木津というのは俺の友人の名前だ。

 え、なに、こいつこんなクラスのはぐれ者の人間関係まで把握してるの? 

 何それ怖い。


「だから、ね」


 迫るような口調に、ぞわりと鳥肌が立つ。

 身長差があるために、耳元じゃないのが幸いだった。もし、これを耳元で言われていたら、状況を飲み込む前に頷いてしまっていただろう。


「いや、『ね』じゃなくてな? 木津にも言わないって約束するし、それでいいだろ?」

「うーん、日向くんとはあまり話したことないし、その辺りの信用ないからなあ」


 信用ないやつに抱き着くなよ。


「どうしろってんだよ……」

「そうだなあ」


 そう言って、たっぷり十秒程考えてから赤月は言った。


「わたしのお願い一つ聞いてくれたら、信じてあげてもいいよ?」

「いや、それはおかしいだろ。なんだって、被害者の俺がお前の言うことを聞かなきゃならないんだよ」

「被害者って、酷いなあ。わたし、そこそこ可愛いと思うんだけど」

「赤月、覚えておけ。セクハラは女から男への場合でも有効だ。顔が良かろうが悪かろうが俺にとって興味のない相手に抱き着かれているこの状況は、どう考えてもセクハラ適用範囲だ。あと、自分で可愛いとか言うな」


 流石にここまで言えば離れるだろう。そう思っての発言だっただが、それでも赤月は離れない。


「あ、そっか!」


 それどころか、何やら思いついたようにそう言って、小さく声を出して笑った。


「ふっふっふ、日向くん」

「な、なんだ」


 赤月の不気味な笑い声に、俺は嫌な予感がしていた。

 俺はいらんことを言ってしまったのではなかろうか、とそう思った。

 そして、その嫌な予感は見事的中する。


「今、わたしが大きな声を出して助けを呼ぶフリをしたら日向くんはどうなると思う?」


 なんでアホそうなのにそんな悪知恵が回るんだよ。


「……良くて停学、最悪退学だろうな」

「なら、わたしのお願い聞いてくれるよね」

「もうお前それが目的になってるだろ……」

「ち、違うよ!」


 どうだかな。


「んで、俺に何しろってんだよ。言っておくが、金銭が絡むのは無理だぞ」


 確か、今財布にあるのは百円玉が三枚程度だったはずだ。


「そういうのじゃないって! もう、日向くんはわたしを何だと思ってるの!」

「特に仲良くもないクラスメイトが寝ているところを抱きしめるやべーやつ」

「それは! そうだけど!」


 あ、そこは認めるのね。


「あと、いい加減放して欲しい」


 というか、こいつはいつまで抱き着いているつもりだ。

 別に嫌ではなかったのだが、そろそろやめて欲しかった。


 表面上、取り繕ってこそいたが興奮とか羞恥心とか諸々で心臓が飛び出そうだったのだ。


 このままでは、いつ俺の中の理性が決壊して「おっぱい最高」と叫んでしまうか分からない。

 いや、そんな知性の欠片もないことは絶対に叫ばないが、それぐらい不味い状況ではあった。


「イヤ」


 しかし、無慈悲なる我がクラスの女神さまはそんな俺の内心を少し足りとも考慮してくれなかった。


「イヤって、別に逃げないし、別にくっついてなくても話せるだろ」

「くっついてても話せるんだからいいじゃん」


 良くないのだ。主に、精神的な意味で。


「頼むから放してくれ」

「イヤ」


 全く聞く耳を持ってくれない赤月に、俺は頭を抱えた。


「……わかった。そのままでいいから早くお前のお願いとやらを教えてくれ」


 どう言ってもこちらの要求が通らない以上、さっさとこの話題を終わらせるべきだと考えたが故の発言だったのだが、どういうわけだが赤月の腕が俺を締め付ける強さが上がった。


「……どんなこと言っても引かない?」


 いや、引くようなこと言うつもりなのかよ。

 本音を言えば聞きたくないし、引く自信しかないのだが、聞かないことには解放してもらえそうにもない。


「引かないから、早くしろ」


 どうか色々限界が来る前に前に話してくれ。


「あの、ね……」


 少し恥じらった様子の赤月は、そう言って少し言葉を溜めた。

 散々人のことを抱きしめておいて、今更何を恥じらうことがあるのかと俺は思ったが、暁が次に口にした言葉を聞いて、彼女の様子に納得することになった。


「これから毎日、君にぎゅってさせてくれないかな」


 そして、その言葉に俺は、


「ええ……」


 それはもう盛大に引いたのだった。

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