前夜

「リコリンなんだよ、リコリン。ガランタミンにタゼチンも。猛毒じゃないけど、それでも多量に摂取したら死んでしまう」

「……なあ」

「本部は食中毒による事故ってことで片を付けるみたいなんだが、絶対おかしいんだよ」

「……なあ兄ちゃん」

あかねはどう思う?」

「兄ちゃん!」

「な、なんだよ」

「食事中に事件の話なんかすんなって何度言えばいいんだ。食中毒が原因とか尚更だ」

「……すまん」


 しみたれた路地裏に建つ古びたアパート『緒方荘おがたそう』。一見事故物件にも見えなくないほどさびれたそんなアパートの2階の一室で、私は兄と暮らしている。

 外造りの階段は1段上る度にギシギシと悲鳴をあげ、いつか壊れるのではないかと怯えながらいつも慎重に上っている。


 父がこの世を去ってもう10年になる。持病を隠していたらしく、私達が気付いた頃にはもう手遅れだった。母は私が生まれる前に、ちょうど兄が10歳になった頃、病気で他界している。父とはまた別の病気だったらしい。

 それからは親戚の家で暮らしていたが、兄が警察官になったのをきっかけに2人暮らしを始めたわけだ。


 緒方荘には浴室がない。その為、近くの商店街の銭湯に通っている。店のおじさんの計らいにより、普段は販売していない年間パスなるものを用意してくれたこともあり、今の生活には充分満足している。

 日が暮れる前には商店街で買い物を済ませ、夕食の準備をしている頃に兄が帰ってくる。そして食後に2人で銭湯に向かう。と、そんな毎日である。


 小さなテーブルにご飯とお吸い物、焼き鮭、そして胡瓜きゅうり茄子なすの漬物を広げる。

 兄はちびちびと胡瓜の漬物を口に運びながら鼻息を荒立てる。


「茜、頼まれてくれないか? 不可解な事件の匂いがして仕方がないんだ」


 今にも泣きそうな目で私を舐め回して懇願する兄はあまりにも頼りなく、そして滑稽こっけいに思えた。

 ひとつため息を吐き、私は頷く。


「わかったよ。ほんと兄ちゃんは私に頼りすぎだ」

「すまん」


 とは言いつつ笑顔の兄に謝罪の気持ちはこもっていない。箸をテーブルに置いて、ひとまず食事を中断する。


「で、もう一度詳しく教えて」


 兄も私に倣い箸を置き、要点をまとめてか少し間を置いてから話し出した。


被害者ガイシャ賀ヶ島かがしま鉄平てっぺい、16歳。実家から高校までの距離がかなり遠いからという理由で一人暮らしをしていたそうだ。昨夜、宅配の不在通知が溜まっていることを不審に思ったアパートの大家が合鍵で部屋に入ったところ、開けっ放しになったトイレの前でうつ伏せで倒れているのを発見した。死後5日ほど経過していた。テーブルには食べかけのオムライスを乗せた皿にステンレス製のスプーン、空っぽのグラスが置かれていた。ドアにも窓にも鍵がかかっていた上に荒らされた形跡もなかったことから、外部の犯行の線は薄いと判断された。トイレで嘔吐したのか体内から食べ物は検出されなかったが、オムライスからはリコリンやガランタミンなどが検出されたそうだ」

「さっきも言ってたけど、そのリコリンとかガランタミンっていうのはなんだ?」

「いわゆる有毒成分だよ。主に彼岸花ひがんばなに多く含まれるものらしい」

「彼岸花? なんでそんなものがオムライスから発見されるんだ」

「ヒガンバナ科の中に水仙すいせんという植物がある。一見綺麗な花を咲かせる春の代表的な植物なんだが、その葉や球根がニラや玉ねぎとよく似ていることから誤って食べてしまい食中毒になったという事例がいくつもあるんだ。さっきも言ったがそれらは猛毒というわけではない。それに症状として下痢や嘔吐がある分、ほとんど体外に出すから重症化すること自体稀らしい。だが、それはあくまで少量の場合のみ。多量に摂取してしまえば危険なんだ。特に球根には有毒成分が多く集まってるって話だ。現に死亡例も出ている」

「つまりはニラや玉ねぎと間違えて水仙の葉や、主に球根部を多く食べたことが死因につながったということか」

「おそらくな。今は解剖結果を待っているが、被害者の体内からも同じ有毒成分が検出されれば確定だ」


 確かに、今の話だと食中毒による事故で片付けるには十分な証拠が残っている。逆に兄はなぜそこで不可解な事件の匂いがしたのか……。


「兄ちゃんはこの事故に別の何かが絡んでいると睨んだんだな」

「ああ」


 力強く頷く兄には迷いがなかった。確信してそう言っているのだ。兄は続ける。


「賀ヶ島の通う美野渦みのうず高校に聞き込みに行ったんだが、どうやら賀ヶ島は教師も手を焼くほどの問題児らしく殆ど学校にも行かず、友人も聞いている限り少なくとも美野渦高校にはいないようだ。彼の家族も仕送りをしているだけで関わりを避けているようだった。近所付き合いも全くない。冷蔵庫の中にはアルコール飲料のみで生活感が感じられないものだった。な? おかしいと思わないか?」


 なるほど、確かに奇妙ではある。


「兄ちゃんが言いたいのは、なぜ友人とも家族とも近所の人達とも関わらない、挙句生活感もないような人間が自炊をしていたのか、ということだな?」

「ああ。ゴミ箱にはコンビニ食品の類すらもなかった。彼は普段外食が多かったんだろう。そんな彼が自炊をして、偶然にもニラや玉ねぎと間違えて水仙で調理してしまった。あまりにも奇妙だ。そしてもうひとつ、彼はトイレの前で倒れていたにもかかわらず、トイレの中には嘔吐した後はなかった」

「誰かが、水を流した……」

「おそらく」


 事故ではなく事件の可能性がある。

 あくまでこれは兄の見解に過ぎない。人は推理小説のように必要な行動のみを行なうわけではない。無意味な行動くらい誰だってする。今回の賀ヶ島も例外ではない。嘔吐後に自ら水を流したのかもしれないし、たまたまその日は自炊をしたに過ぎないのかもしれないのだから。


「茜、もし何かわかったら教えてくれ」

「はいはい」


 兄は、私が並ならぬ推理力で華麗に事件を解決して犯人を捕まえることを期待しているわけでは決してない。私にそこまでの頭脳はない。ただただ人並み以上に記憶力があるだけだ。

 要するに、兄は行き詰まった事件や不可解に思った事件があると私に詳細を教えて(記憶させて)私が日常を過ごし、ふとした時に事件につながるような重要な情報を拾ってくるのを期待しているのだ。

 現にいくつかの事件に私の証拠が決め手になったものがある。もちろんあくまで『いくつかの』だ。『いくつもの』ではない。

 ここ数日は特に事件の詳細を話したがる。身内だからとそう易々と話すのもどうかとは思うが、それほどまでに兄は私を信用しているのだろうと思うことにしている。

 しかし、私がこの15年を歩んできて不可解な事件などは一度だってなかった。


 そう、なかったのだ。

 明日から通う滝野森たきのもり高校に行くまでは。

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