記憶のない少女 #5


(……いいお天気だなぁ。……)

 サラは馬車のへりに頬杖をついて、ぼんやりと目の前に広がる風景を見つめていた。


 山間の小さな村から最寄りの町に出て、そこから王都に向かう馬車に乗った。

 路銀は魔獣退治のお礼として村人達から貰った銅貨で十分足り、まだ半分以上余っていた。

 街道沿いの町や村に寄りつつ、時には道の途中で野宿をするという道中を続けて、そろそろ四日目。王都までは後一日半という所までやって来ていた。

 山間の峡谷を縫うようだった街道は、いつしか開けた丘陵の中の一本道へと移り変わり、辺りには田舎ののどかな田園風景が広がるようになっていた。

 春の空は青く晴れ渡り、草はらには緑の萌草が風に靡く。

 ポツリポツリと浮かんだ真っ白な綿雲を、サラは、ほろ馬車の一番後ろに座って眺めていた。


「もしもし、お嬢さん。お嬢さんはどちらまで行くのかな?」


 話しかけられてふと我に返り、振り返る。

 見ると、サラに声をかけてきたのは、人の良さそうな中年の男性だった。

 そばには、赤ん坊を抱いた女性と五歳ぐらいの小さな女の子が居た。おそらく男の妻と子供達だろう。

 馬車は、街道沿いの町や村に着くたび、人や荷物を乗せたり降ろしたりと忙しい。この一家四人は前に泊まった町で乗った者達だったが、サラは関心がなかったため、この時まで彼らの事をあまり気にしていなかった。


「えっと、王都まで行くつもり、です。」

「なんと、王都へ? 今王都は、長引く内戦で治安が悪化し、おまけに流行り病も蔓延していて、とても危険だと聞いたよ。他に連れも居なさそうだけれど、まさか一人で行くつもりかい?」

「あ、うん。」


 こんな田舎の街道旅に、身なりこそ貧しげではあるものの目の覚めるような美しい少女がポツンと一人居る事に興味を持って、男は声をかけてきたようだった。

 どうやら好奇心旺盛でおしゃべりな性格らしい。

 男は、サラが聞いてもいないのに、自分は靴屋をやっており、今回は生まれた子供を他の町に住む親に見せに行く予定だと話した。

王都までは行かず、二つ向こうの町で降りるとの事だった。


「よし、当ててみよう。……そうだ、君も都に誰か親しい人間が居るんじゃないかい? その人を頼って会いに行く、そんな所かな?」

「うん、まあね。」


 サラはこんな狭い馬車の中で揉め事を起こすのはいけないと思って、ニッコリ笑ってとりあえず無難な返答をしておいた。

 サラは、大人しくしてさえいれば、見た目は儚げな美少女なので、周りの受けは良かった。

 とりあえずニッコリ笑っておけば相手の印象が良くなる、というのは、サラが旅の中で身につけた唯一と言っていい処世術だった。

 案の定、妻子連れの男も、好意的な態度で接してきた。


「それにしても、こんなご時世に一人旅とは心配だ。この辺りは比較的平和だが、噂では山奥の小さな村で魔獣が暴れた事件がつい最近あったらしいよ。」

「へえ。」


 男が語った村の名前を聞いて、それがつい十日程前自分が巨大な狼型の魔獣を倒した場所だと気づいたサラは、少しワクワクした気持ちで耳を傾けていたのだったが……


「それが、なんと! その巨大な漆黒の狼の魔獣を、たまたま通りがかった一人の剣士が倒したという話なんだ!」

「うんうん。」

「その剣士が、これがまた、魔獣に負けず劣らず恐ろしい、化け物のような人間だったというんだよ! いや、もはや人間だったかも謎だな。なにしろ、小山のような魔獣をたった一人でいとも簡単に仕留めたのだから。」

「え……」

「なんでも、見た目は普通の少女のようだったが、実は恐ろしく凶暴で貪欲で、魔獣を倒した後、村の食料を食べ尽くし、村人達の金品を全て巻き上げて去っていったらしい。いやはや、魔獣の被害だけでも大変だというのに、酷い災難にあったものだ。」

「……」


 サラは、目をカッと見開いて驚いた後、次第に真顔になっていき、キュッと固く唇を閉ざした。


(……え?……山奥の村で狼の魔獣を倒した剣士って、私の事だよね? わ、私、そんな強盗みたいな真似してないよ? っていうか、化け物って何? 私の事、化け物ってー?……なんで、そんな話になってるのー?……)


 サラが町に降りようと数日山の中ので迷っている内に、センセーショナルな噂の方が先行して男の住む村にまで届いていたらしい。

 サラは混乱しつつも、オレンジ色のコートの内側に、サッと素早く、腰に履いている二振りの剣を隠していた。


「……そ、そんなおっかない人間なんて、本当に居るのかなぁ? その噂、嘘なんじゃないのー?」

「いやいや! これはその村にいつも行商に行っている商人が、直接村長や村の人達から聞いた話だから、本当だよ。その村の住人は、皆口を揃えて、あの恐ろしい化け物のような少女が立ち去ってくれて本当に良かったと言っていたらしいよ。」

「……ぐ、むむ!……」


 サラは男に気づかれないように、ギュッと握りこぶしを固めていた。


(……あんの村の人達ー! せっかく頑張って魔獣倒してあげたのにー! なんで私の悪口言いふらしてるのよー! 今度あの村に行ったら、絶対文句言ってやるんだからねー!……)


 いっその事、馬車を降りて村まで戻ろうかと思ったが、またあの山の中の長い一本道を歩く事を考えると、自分の方向音痴ぶりではとても村まで辿り着けるとは思えず、仕方なく諦めたサラだった。



「あ、そうだ!……えっと、ちょっと聞きたい事があるんだけど。」


 サラは、家族連れの男の親切な態度を見て、ふと思い出し、普段は服の中にしまっているペンダントを取り出した。

 それは、サラがいつも肌身離さず身につけているものだった。

 そして、自分の持ち物の中で、最も大事にしているものでもあった。


「何かな、可愛いお嬢さん?」

「これ、どこかで見た事ありますか?」


 サラが服の中から取り出して見せた首に下げているペンダントには、先端にくすんだ赤い石のようなものがついていた。

 大きさは直径3cm程。玉を真っ二つに割ったような、半球状の形をしている。

 周りを金属で囲って止めてあり、そこに革紐を通し首飾りのようにしてサラは首に掛けていた。

 しかし、宝飾品というには、あまりに粗末な見た目の石だった。

 色は汚れたように濁り、表面も曇っている。お世辞にも美しいとは言えず、価値のありそうなものにはとても見えなかった。


「これが何か、分かる?」

「うーん、なんだろう? 古いガラスの欠けら、かな? 良く分からないなぁ。」

「私、これが何か知りたくて、いろんな人に聞いて回ってるの。今まで同じようなものをどこかで見た事とか、ないですか?」

「ごめんよ。私は知らないな。似たようなものも見た事がない。……力になれなくて、すまないね。」

「ううん。話を聞いてくれてありがとう。」


 サラは、フルフルッと首を横に振った後、フウッと小さなため息をつきつつ、元のように服の中にペンダントをしまった。


「そのペンダントは、君にとって何か大事なものなのかい?」

「……うん。」


 サラは、その花のような愛らしい面を珍しく曇らせて、コクリと小さく頷いた。



 サラが森の中で目を覚ましたのは、三ヶ月程前の事だった。


(……え?……こ、ここ、どこ?……)


 目が覚めた時、サラは、枯れ草のまだらに生える土の上にうつ伏せになって倒れていた。

 ハッと我に返り、慌てて体を起こして辺りを見回したが、そこには全く人の気配が感じられなかった。

 深い森の奥。冬枯れて葉を落とした大木が見渡す限り立ち並んでいる。

 太い木の根の這う地面は散り敷いた枯葉に覆われ、頭上には針のように尖った鈍銀色の枝の間に、冬の寒々とした空の欠けらが見えた。


「……だ、誰か……誰か、居ませんかー!……」


 サラは、乾いた喉を振り絞って何度も精一杯叫んでみたが、小さく聞こえるのは、山の稜線で跳ね返ってくる自分の声で出来たこだまのみだった。


「寒っ!」


 ザザッと辺りの葉の落ちきった冬木立を揺らして風が吹いた時、初めてサラは、自分が服を何も着ていない事に気づいた。

 それまでは、あまりに気が動転していて、自分が全裸である状況が意識にのぼらなかったのだった。


(……え? え? な、何? 私、何で裸なの? 一体何があったの?……)


 慌ててペタペタと両手で自分の体をあちこち触り、確認してみる。

 どうやら、ケガはないようだった。

 うら若い女が全裸で倒れて気を失っていたという事態から考えて、(何か自分の身に良くない事件が起こったのでは?)と、ごく当然の推察をしたサラだったが、幸い、誰かに乱暴されたような痕跡は一切なかった。

 そもそも、辺りを見回して良く良く観察したものの、人間の足跡のような、近くに人の居た気配はどこにも見つからなかった。

 サラの肌や髪はどこも傷んでおらず、まるで生まれたてのように艶やかに美しく潤っていた。


(……よ、良かったぁ。……)


 とりあえずホッとして、ペタリと地面に座り込んだまま、ギュッと自分で自分の体を抱きしめる。

 が、すぐにサラは、自分がもっと重大な問題を抱えている事に気づいた。


(……えっと、ここ、どこ?……私、なんでこんな所に居るの?……って言うか……)


 呆然と、冬枯れた森の頭上に広がる寒々しい空を見上げながら、サラは自問自答した。


(……私は……「誰」なの?……)


 サラの頭の中には、つい先程人気のない森の中で目を覚ます以前の記憶が、ごっそりと抜け落ちたかのように、何も存在していなかった。



(……どうしよう?……どうしよう?……)


 サラは、背中を丸め、小さな体を自分の腕で抱きしめるようにして、寒風の吹き抜ける人気のない森の中を一人あてもなく歩いていった。


 やがて、木々の向こうに人工の建造物のようなものが見えたので、足早に近づいていってみたが、そこは廃墟だった。

 正確には、古代文明の遺跡だった。


 後になって、人から聞いて知った事だが、世界中のありとあらゆる場所に、こうした古代文明の遺跡が残っているらしい。

 一口に遺跡と言っても、その規模や状態は様々で、その大多数は、建造物のごく一部だけが残存している小さな廃墟のような代物だという事だった。

 その時サラが見つけたのは、まさにそんな、ありふれた小さな瓦礫だった。

 傾き折れて倒れた支柱、崩れ風化した壁、ほとんど土に埋もれた石造りの床。そんなものが僅かに見られるばかりだった。


 ただ、その廃墟と化した建造物の中央に、小さな泉があった。

 元は、周囲を石で囲われていたらしかったが、今は大半が草に埋もれてしまっている。

 サラは、喉の渇きから、その泉に引かれるようにフラフラと歩み寄っていった。

 幸い、泉の水は澄み渡り、緩やかに水底の砂を揺らして、今も清水が少しずつ湧き出していた。

 サラは、少し警戒したものの、ほとりの草の中に膝をつき両手に掬って一口飲んでみた所、染み渡るように美味しかったので、慌ててもう一度掬って口に運んだ。

 何度かそうして飲んでいる内にまどろっこしくなり、ガバッと顔を泉につけて、そのままゴクゴクと飲んだ。

 水分が乾いた体に行き渡った所で顔を上げ、プハッと息を吐く。


 その時ようやく、自分の首に何か紐のようなものが絡みついているのに気づいた。

 絡んでいた紐を指で解いてみると、それは首から下げる飾り、あるいはお守りのようなものだった。首飾り、ペンダント、そういった類のものと思われる。

 なんの変哲もないありふれた革紐の先に、直径三cm程のくすんだ赤い石のようなものが、質素な金属の枠に止められて揺れていた。


(……これ、なんだろう?……)


 サラに分かるのは、そのペンダントが、服も何も身につけずに人気のない森の中に倒れていた自分にとって、唯一無二の所持品だという事だけだった。

 記憶の失われた自分が何者であるのかを知る、ただ一つの小さな手がかりだった。

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