アーバン・ライフ

せっか

アーバン・ライフ



「——京浜東北線は、東十条駅で発生した人身事故の影響で、七時三十分現在、一時間ほど遅れて運行しています。また、この影響で、乗り入れ等を行っている、山手線、東海道線、湘南新宿ライン、横浜線、根岸線、宇都宮線にも、遅れや運休が発生しています。その他の各線は、……」

 朝のニュースを聞き流しながら、はぁ、とひとつため息を吐く。そしてため息を吐いてから、今のが落胆のため息なのか、それとも安堵のため息なのかを考え始めた。

 講義があるのに電車が遅れた。でも、電車の遅れというサボりの口実が手に入った。まあでも結局、口実なんて無くてもどうせサボるときはサボるのだ。

 はぁ、だる、とまたため息を吐く。今度のは落胆でも安堵でもなく、諦念といった感じだろうか。

 そう、結局どうでもいいのだ。大学に進学して一人暮らしを始めたのを機に、理性的で優しい人間でいられるように、と舌打ちを意識的にため息に変えてみたところで、人身事故で死んだ人に同情のひとつも出来ていない時点で全部無価値なのだ。そもそも勝手に死んだことにしている時点で無意味なのだ。努力というのは結局そういうもので、全部無理だし、無駄なのだ。

 手に取ったスマホには、六月三日、七時五十七分と表示されている。人身事故がなくてもしっかり間に合わない時間なのを確認してから、はぁ、だる、とドアノブをのんびり回した。




 普段はスカスカなホームも、今朝はというと各乗車位置に十人ずつは並んでいた。流石に今日は座れないな、とまたため息を吐きつつ、惰性と慣性でいつもの乗車口のところまで歩を進める。

 案の定そこにはすでに八人ほど並んでいる人がいたので、座席のほうはさっさと諦めモードに入りつつ、通学のお供になる曲の選定に入る。それから、数分ほどでやってきた電車に乗り込んだ。


 普段乗るのは隣駅が始発の電車で、その隣駅も利用者数はなかなか少ないので、ちゃんといつも通りの時間に乗れば確実に座れるのだ。それはその電車に乗る他の乗客たちにとっても同じことで、だいたいいつも同じ人が同じ場所に座っている。

 僕の定位置は、六号車一番ドアの角から二番目の席。一番端の角席にはOL、三番目にはサラリーマンが隣駅から乗っているので、僕はだいたいその間に座るのだ。ただ、サラリーマンのほうは遅刻癖でもあるのか、三番目の席には別の人が座っていることもよくある。逆に、角席のOLが角席にいないところは見たことがない。


 で、その角席のOLなのだが、小中で一緒だった山本花火という女の子に妙に似ている気がする。今年の四月からその電車に乗り始めて、三回目か四回目に同じ人が定位置に座っていることに気付いて、それで初めてそのOLの顔が目に入った。それ以来、その姿が視界の端に入るたびに、どこか似ている、と感じ続けているのだ。中学を卒業してからもう三年は彼女の顔を見ていないのだから、そもそも彼女と似ていると感じるのも曖昧な記憶による勘違いかもしれない。けれど、そのこだわりのなさそうな万年ポニーテールとか、明らかに新品のビジネススーツを着慣れていなさそうにしているところとか、所作の端々になんとなくそうなんじゃないかと引っ掛かってしまう。

 とはいえOLの方については、スーツを着てこの時間の電車に乗っているからOLだと見なしているだけで、実はただの就活生かもしれないし、塾講とかのスーツを着ていかなければいけないバイトをしている大学生かもしれない。話しかけたこともないし、きっとこれからも話しかけることはないだろう。山本さんですか、なんて狂人のメンタリティでもない限り聞けるわけがない。電車でよく見かける程度の縁というのは、所詮その程度でしかないのだ。


 いつもより遅い時間、ダイヤが狂っているというのもあり、今日は角席のOLも三番目のサラリーマンも見かけないまま電車を降りた。




 遅れて入った今日の講義室には、普段よりだいぶ学生が少ない。みんな電車の遅延にしっかり巻き込まれたのか、それとも休む口実ができたので今日は自主休講ということなのか。ただでさえ小さい教授の声は、学生の数に比例するように一段と小さくなっていた。基本学生の半分以上はスマホをいじっているし、元より聞かせる気もないのだろうか。

 そんなことをのんびりと考えつつ、スマホを取り出してツイッターを開く。元よりこっちも聞く気はない。

 手癖で左下の虫眼鏡のマークをタップすると、「関東のトレンド 人身事故 9967件のツイート」が目についた。ツイートの数が多すぎる。電車の遅延が起きた時は学生や社会人がそれを呟くので、遅れている路線の名前がトレンドに入ることはままあるが、そんな時でもせいぜい三千件程度のものだと思う。しかも今日は春先にはよくある程度の遅延だったわけで、ツイート数の多さにどこか違和感を覚えながらもトレンドワードをタップした。


『人身事故の映像、偶然撮れたからといってネット上にあげるのは被害者のこと考えてなさすぎる』

『人身事故の件、それを公開するリテラシー云々の話はあるけど、飛び込みがどれだけ悲惨なことかを示す教材にはなるかもね』

『今日の人身事故のやつやばwww グロwww おまいらも消される前に見ろwww』

『人身事故の映像を公開した人のアカウントを調べてきたんだけど、通ってる高校名とクラスをツイートしてました 拡散お願いします #人身事故 #特定 #第一高校』


 なるほど、どこかの馬鹿な高校生が偶然飛び込みの現場を撮影してて、それを公開して大炎上、ということらしい。元ツイートはすでに削除されたらしいが、その映像を転載して拡散している野次馬が次々と湧いていてツイッターが大混乱している、と現状を三行でまとめてくれているツイートが目に入る。その上に訊いてもいないお気持ち表明のツイートやら正義感狂いの特定厨のツイートやらが垂れ流され続けていて、気付けば「人身事故」のツイートは一万二千件を超えようとしている。

 ツイートの一覧を更新したところでチャイムが鳴ったので、画面をタイムラインに戻してから閉じた。遅れてきたぶん、講義が終わるのがいつもよりずっと早く感じる。空きコマを寝て潰すために、僕は足早に図書館へと向かった。




 昼飯は食べない主義とはいえ、空腹はちゃんと感じる。ただ食べる手間と出費を考えると無駄に感じてしまうので食べない、というだけなのだ。一食ぐらい食べなくても生きていけるのはもう十分知ってる。まあでも、いつまでも空腹感に苛まれていても仕方ないし、こういう時はさっさと寝るに限るのだ。図書館三階のなかなか人が来ない角席を確保して、さっさと机に突っ伏した。




 夢を見た。今では懐かしい、小学生のころの夢だ。

「うちのパパはこわくてね、すぐなぐるんだよ。きのうもなぐられたんだよ」

 小学生は無意味に親の怖さ自慢をしたがるが、僕と花火ちゃんの場合はそれが洒落になっていなかったことに、小学生は気付けない。虐待という言葉はもっと大きくなってからでないと分からないのに、分かるくらい大きくなったころにはすでに当たり前のものとして習慣とか家庭のルールの名で馴染んでしまっている。僕と花火ちゃんは、それをなんとなく共有できる、お互いに唯一の相手だった。

 きっかけは水泳の授業のときだったと思う。背の順で一番前の方に並ばされて待機させられていた時、ふと彼女の左腕の痣が目についた。

「あおたんできてるよ」

「きのうパパにおこられちゃって」

「いたいよね、ぼくもきのうママにあたまなぐられたんだ」

「ふふふ、ほんとだ、あたまぼこってなってる」

 そこで後ろに並んでいるやんちゃな男の子が「おれもおれもー」と自分でつねって真っ赤になった二の腕を見せてきて、「いっしょだねー」と笑い合った。今思えばだいぶグロテスクな笑いだ。

 それからもそういう話はしていたけど、周りの子たちは段々と親の怖い自慢をしなくなり、結局小学校四年生にもなるとその話をするのは僕ら二人だけになった。

 それ以降は、二人っきりで話すことが増えた。親のどちらが主導権を握っているかによって虐待の方向性は変わっていくもので、父親が主導権を握る彼女の家ではより暴力的な方向に、母親が主導権を握る僕の家ではより精神的な方向にシフトしていった。そうなるにつれて、同じ場所に痣ができることは少なくなっていったけど、それでもお互いの気持ちは理解し合えていた。つらさに共感して憐れんでほしいんじゃなくて、つらいことを乗り越えて今日も生きてる自分の強さを自慢したい、褒めてもらいたい、そういう僕らにしか理解し合えない微妙なスイートスポットをお互いに押さえて気持ち良くなっていたのだろう。

 そうして、恋愛でも悩み相談でもない、僕らの自慢しあう関係は中二の夏ごろまで続いたが、恋仲を噂されるのが恥ずかしくてどちらからともなく距離を置く、という思春期にはよくありがちな例のアレで話さなくなり、それっきりだ。経済的に厳しい彼女や親の管理が厳しい僕が卒業式の時に携帯を持って来ているわけもなく、今となっては連絡先も進学先もわからない。今年から大学生になって一人暮らしを始めた僕が、わざわざ地元に戻って彼女の実家を訪ねることもないだろうし、そもそも彼女が中学生のときと同じ場所に住んでいるかもわからない。案外彼女も彼女で、隣の駅近で一人暮らしをはじめていたりするのかもしれない。それならそれで、この話をハッピーエンド仕立てに終えられるのだけれど……。




 ブーッ。ブーッ。

 手に握っていたスマホが震えだして、驚いて飛び起きる。四限を寝過ごさないようにかけておいたアラームだ。大教室の隅でスマホをいじるだけの講義だが、抜き打ちで出席を採られても困るのだ。

 早めに教室へ移動していつも通り端っこの目立たない席を確保すると、先ほどのツイッターの続きを見始めた。とりあえずTLを一番上までスクロールしていって、知り合いのそれっぽいツイートにはそれっぽくいいねをつけておく作業を数分で終え、手癖はまた「日本のトレンド 人身事故 23252件のツイート」へと流れていく。

 二、三時間前からさらにツイートの件数が伸びている。今日は終日祭りだな、と冷やかし半分で安易にトレンドワードをタップしたところで、動画が目に入ってしまった。


 他の乗客が並んでいるのとは反対側の、回送電車が通過する予定のホーム、その中ほどで、


 力強い頷きとは対照的に、力なくふらふらとした足取りで、


 線路の二メートルほど上に広がる何もない空間へと踏み出していく、


 スーツを纏ったポニーテールの女性の姿。


 よく見かける人に妙に似た人の飛び込みの映像に、え、と戸惑いが先行しつつも、ワイヤレスのイヤホンを急いで片耳だけ取り出して、動画をもう一度最初から再生して、ひゅっ、っと呼吸が詰まった。


「なんか並ぶホーム間違ってる人いんだけど笑」

「ツイッターにあげようぜ笑」

 撮影者らのものと思われる声は、動画の彼女が空へと足を踏み出す十秒後には、えっ、という戸惑いの声に変わる。

 そして誰も止められないまま、止めないまま……。


 その直前、誰かの叫ぶような声が響いた。「はなちゃ


 ゴーッ。


 あとから電車の甲高いブレーキ音とクラクションが遅れてついてきて、それに周囲がざわざわし始めたところでその動画は終わる。全体で一分ちょっとのその動画が僕の呼吸を完全に奪い去るには、たった二回の再生で十分だった。

 それから慌てて呼吸をする。吸って、吐いて、と心の中で何度も唱えた。しばらくして身体が呼吸の仕方を思い出すと、今度は心臓の鼓動がはち切れんばかりに速くなる。同時に、肋骨の中身が一斉にきゅうっと締め上げられるような感覚に襲われた。

 はなちゃん、と。

 少なくとも僕には、そう呼び止めようとしていたように聞こえた。


 ようやく、この人身事故で人が死んだのだということを理解した。




 その後の講義の内容は覚えていない。気付けば自室に戻って、柄にもなく正座で俯いていた。

 食欲は感じないが、とりあえず食べなければ進まない、とラップに包んだ冷蔵の白米だけ引っ張り出してきて、それでもやっぱり今なにかを食べるという行為自体がとてもグロテスクなものに思えてしまって、そっと冷蔵庫に戻した。

 それから、一か月ぶりにテレビのニュースを見た。ニュースはやっぱりリテラシーの低下だとかSNSの危険性だとか言って例のネット上の祭りを大事件と囃し立てていたが、人身事故で死んだ人間の情報についてはなにも教えちゃくれない。そりゃあ全国区のニュースで年齢や名前が流れるわけもないが、得られたのは全身を強く打って死亡、という情報だけだった。ちなみに、「強く打って」は原型も留めないほどひどくぐちゃぐちゃに、の隠語だそうだ。




 その日以降、家ではろくに寝られなかったが、毎日いつもよりも三十分早く起きて、あの電車に間に合うように家を出ることにした。その努力の甲斐あってか、三日連続で角席に座れた。こんな時ばかり要らない恵みを投げて寄越す。神様というやつは非情だ。

 なぜか空いている角席は僕にはあまりに重すぎて、でも僕が座らなければ次の駅で乗ってくる何も知らない誰かにラッキー、とこの席を埋められてしまう。たまたま三日とも寝坊しただけなんだ。そうじゃなければ、始発駅で乗る人間たちがわざわざ三日連続で角席を空けておくはずがないのに。そう思いながら角席に身を委ねる重圧に、四日目にはもう耐え切れなくなって、乗る電車を一本早いのに変えた。路線の一番端っこの駅を始発とするその電車は混んでいて座れなかったが、角席に座るよりかは幾分マシだった。




『中学の時の山本ってわかる?』

『どの山本だっけ』

『ちょっとオドオドしてて、ずっとポニテだった女の子』

『あーなんか覚えてるような覚えてないような』

『ちょっと本人に聞きたいことがあって連絡先知ってたら教えて欲しいんだけど その様子じゃ知らんよな』

『知らんわ すまん』

『いやこっちこそ』

『こんど飯いこ あと同窓会とかもしたいな』

『おけ ありがとう』

 二日前に送ったラインの履歴を見返す。

 中学時代の友人で連絡先を知っているのは三人だけ、そしてその誰も彼女とは連絡先を交換していないらしい。決まって『急ぎの用事?』と聞かれたが、なぜか『いや、大したことじゃないんだけど……』と返してしまった。行き場のない焦りだけが募って、本質を見失いそうになる。いったん冷静になって状況を整理することにした。


 まず、考えるべき人が三人いる。

 一人目は、山本花火。友人、と言っていいのかはわからないが、小中で中の良かった女の子。虐待の話をよくしていて、今は疎遠。連絡先もわからない。

 二人目は角席のOL。今年の四月から約二カ月、通学に利用していた電車で隣席に座っていた人。確かなのは隣駅で乗ってきていることだけで、話しかけたこともないのでそもそもOLかどうかもわからない。

 そして三人目が動画の女性。録画されたものとはいえ、飛び込みの瞬間を見てしまったのだから、彼女に関してはもうどうしようもできない。彼女の名前については金子とか鈴木とかネット上で様々言われているが、どれも信用はない。その中には山本もあったが、仮にそうだったとしても、ありふれた名字なのでわからない。

 山本花火と角席のOLには直接会っていて、ポニーテールとかなんとなくの雰囲気が似ているように感じた。

 角席のOLと動画の女性は両方とも社会人っぽくて、よく似た新品のスーツを着ていた。

 動画の女性と山本花火は、知人からはなちゃんと呼ばれることがあった。


 それぞれがどこか似ているような気がして、どれが同じ人物で、どれが無関係の他人なのかが分からない。三人の全てが、僕の言う「彼女」の枠に少しずつ重なり合っているせいでややこしくなっている。それにつられて、僕が誰の生存を願っているのかも分からなくなっているのだ。動画の女性は僕にはもうどうにもできないが、それでも残りの二人が生きててほしいと思うのはエゴだろうか。残りが二人か一人か、はたまたゼロかもわからないようじゃ、まあエゴなんだろうな。

 とはいえ、状況を整理したことで、ある程度採るべき選択肢も見えた気がした。まずは一番連絡のつきそうな山本花火が生きているかを確かめることにしよう。


 そう決めた矢先に、友人から思いがけないラインが来た。

『こないだの山本の話なんだけどさ 優香に聞いたら山本と同じ高校に行ってた友達がいるって 今でも山本と仲良いらしいから連絡取れるってよ』

『そうだったのか』

 優香と言うのは彼の交際相手で、僕たちの中学の同級生だ。マメな子で、どの学年でもクラスの女子たちを上手くまとめていた。

『ってことで後は優香に頼むことになるけどどうする?』

『いや、生きてるならいいんだ ありがとな』

『生きてるならって、そんな簡単に死なないだろ笑 俺らまだ十九よ?』

『それもそうだな 優香ちゃんにもありがとうって言っといてくれ』

 山本、高校卒業してから都内で働いてるらしいぞ、案外そっちでお前とすれ違ってたりしてな、という情報も貰い、大きく安堵のため息を吐く。全身の力が抜けていくような感じがして、そのままずるずるとベッドに崩れ落ちた。

 自分がなにかできたわけでは全くないが、とりあえず生きているならよかった。それだけで全てがどうでもよくなるような気さえした。一番手近な情報を貰って、それで何かした気になって、角席のOLがどうなったかもわからないまま一件落着にしようとしているのはとても失礼だと思うし申し訳ないけれど、それでも今は安堵の気持ちを噛み締めていたかった。なんとなくではあるが、その家庭事情の一端を知っていただけに、いつかそうなりかねないと心の何処かで思っていたのだろう。でも、自分に死ぬ気がないのを鑑みれば、それも杞憂だったのかもしれない。


 ひとつ、とはいえ大きな心のつかえが取れたことで、普通に腹も減るようになったし、眠くもなるようになった。精神的な虐待を受けてきたと自負する割には案外メンタル弱かったんだな、とかなんとか呑気なことを考えながら、特になんの感慨もなく夕飯を口に運んだ。




 あれからも、未だに三十分早く起き続けている。自堕落な一人暮らしではこんなきっかけも滅多にないし、と思って習慣化することにしたのだが、空梅雨も明けようかという六月末ごろ、案の定寝坊した。もう三回サボってる講義だから流石にヤバい、と駅まで走る。しかも、こんな時に限って信号機の不具合だかなにかで十分ほどの遅延である。

 七時半過ぎの遅延した電車は死ぬほど混んでいて、やってきた電車のドアが開くと、中から四、五名ほどの乗客が弾き出されるように降りてくる。降りたい乗客がいるかもしれないからドア前の乗客はいったん退く、というこの時間帯の不文律だ。

 その降りてきた乗客の内の一人、ポニーテールが特徴的なスーツの女性に見覚えがあった。角席のOLだ。

「あ、あの!」

 思わず声をかけてから、しまった、と思った。OLは怪訝そうな顔をしてイヤホンを外す。

「あ、いや、えっと、その……」

 「いつも隣に座ってた方ですよね」とか「知人に似てる気がして」とか、色々な言葉が脳内を駆け巡ったが、口から出たのは「えと、いつもおつかれさまです……」という情けないほどちいさな声だった。

 その女性はふふっ、とちいさく笑うと、笑顔でぺこりと会釈をして、それから他の乗客たちに続いて電車に乗り込んでいった。乗客をぎゅうぎゅうに詰め込んだ電車は、ガコン、と怪しい音を立てながらも無理矢理ドアを閉めていく。

 まもなく出発します、次の電車もご利用ください、というアナウンスを聞きながら、もう猫の一匹も乗れないんじゃないかというほどの満員電車を見送る。ドア越しに目が合った女性は、もう一度こちらに目で会釈をすると、緩やかに右へ流れていった。



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